士魂の咆哮
方言はかなりいい加減です。意図して変えている所もあります。文章を薩摩弁変換サイトにかけたら原文を知っている私でも読めなくなりました。
それは五ヶ瀬川でのことだったのか、それとも耳川での事であったのかはもう生き残りも片手で数えるほどになってしまった今では判然としない。当然ながら昭和の現在に生き永らえている者は当時の若年者であり、上に言われるままにただ必死について行くだけの者であった。具体的な地理に詳しい上位者はすでに鬼籍に入り、相手の薩軍参加者に至っては直後の敗戦までの間に全員戦死している。もはや事実を確認しようも無い。
それでも、その戦いは確かにあったのだと老爺は至極まじめな顔で語ってくれた。
◆
夜半から藪をかき分け歩いていた桐野利秋は、熊笹に当たる木漏れ日の強さで夜明けを過ぎていることに気がついた。いや、すでに明るくなっていたのに気がつく心の余裕が今まで無かった。
西暦八月の日向は日が出れば明け方でも蒸し暑さが盛り返す。ましてや道ならぬ道を作りながら山中を彷徨している今、盛夏の天気は晴れようが雨が降ろうが不快なことに違いはない。
(……いや、違うな)
不快で気が晴れないのは、今の己の境遇だ。
鹿児島を勇躍出陣して半年。東京より押し寄せる政府軍相手に一時は縦横に戦ってきたが、衆寡敵せず次々と敗退を重ねてとうとう攻囲されるに至った。
逆転の機が失われたのを見て取った西郷どんが解軍を宣言し、傘下の兵たちの帰趨を自由にしたのは数日前の夜の事。諸国から参集した志願兵たちを帰し、あくまで西郷どんと運命を共にしようとする者だけが三々五々散り散りに鹿児島を目指している。
変化に苦しむ衆民を置き去りに政策を急ぎ過ぎる政府に意地を通し、同志と共に散々に暴れて見せた。事が成らなかったと言えど、薩摩から東京までたどり着くなど元から誰も思っていない。維新が成った途端に地位にしがみつき、士魂を忘れた者どもの心胆は充分に寒からしめた。悔いはない。桐野はそう思っていた。
……そう思っていたのは本心だが……解軍の前夜、焚火を囲んでいた村田どんが西郷どんに語っていた言葉が胸に引っかかって仕方が無いのだ。
村田新八は踊る炎を眺めながら、横に座る西郷に独白のように語っていた。
『おいは一蔵どんの言う事もわかりもす』
誰に言うとも無し、ただ懐かしいものを眺めるような眼差しを焚火に向けたままの村田は呟いた。
『新しい国を作るには金がかかる。全国に新しい統治機構を根付かせにゃならん。学制だってまだまだ全国に学校設備は行き渡っておりもはん。軍備とて数はあっても欧米列強と太刀打ちできるような質ではありもはん。教育・郵便・鉄道、本来国がせねばならん事業をいくつも民草の義援で賄っているのが実情でごわす。そんな時に政府予算の三分の一を働かん侍に元の家禄を支給するために使っていたのでは、金がない政府はあっと言う間に干上がりもす』
しばしの沈黙の後、西郷が何も言わないのを確かめた村田が視線を上げた。揺れる炎の向こうで意気盛んに気勢を上げる若者たちの背中を見つめ、村田は先を続けた。
『そんな事は一蔵どんに言われんでも誰もがわかっとりもす。わかっとりもすが……それでも、先祖伝来の家を、土地を守るのが武士と言われ続けて自分の代で全てを失う情けなさを……上の者にわかって欲しいのでごわす。他んこつも多々ありもす。侍は……戊辰では見苦しき姿ばかり見せもしたが、それでも代々国を守る一事のみに尽くしてきたのでごわす。それがもう時代が違う、用済みじゃと言われ……お役目も、士分の栄誉も、収入も佩刀の権も奪われてしもうた。「おいは子らに何を残せば良いんか!?」と詰め寄る者もおったと。じゃっで、一蔵どんは理詰めの人でごわす。己に私心が無いから、収まらぬ他の者を宥めるという頭がありもはん』
それまで黙って聞いていた西郷が、小さく頷いた。
『一どんのように喜んで身を切れる者は少のうごわす。命ば捨てられても、生きて身を捨てるとならば、なお……情けなか泣き言でごわすのは言う者も重々承知。それでもなお、誰かがみっともなあ泣き叫ばんなでは、不満を溜めちょる他の者どもも拳を下ろせんという時がありもす』
西郷の言葉を受け、洋装の村田もわずかに微笑んだ。二人の視線は自然と周囲の兵たちに向いている。
『こいつらも、頭ではわかっちょっやろう。じゃろうけど一蔵どんの思い描く世界に、こいつらの居場所はありもはん』
西郷も慈愛のこもった笑みを見せた。
『そうじゃな。じゃっどん、おいが連れて行きもす』
どこへ、とは西郷も言わなかった。
あとは言葉もなく、温かい微笑みを浮かべた二人はただ若人たちを見つめていた。
桐野にも、二人の気持ちはよくわかる。
元より勝算あっての挙兵ではない。そんな事は私学校に集った皆が思っていたし、数度の決戦を大敗して野鼠同然に薩摩へ落ち延びようとしている今もそうだ。正直に言えば、決起から敗死までが予定調和だ。思う存分暴れ、東京でぬくぬくと朝廷の重臣面をしているかつての同志たちに悲鳴を上げさせれば、満足だと思っていた。
……しかし、なぜだろうか。老成した語りをしていた二人の背中を見ていて、胸の奥底に感じたくすぶるものが未だに熱を持っている。
(何かが……何かが足りないのじゃろうか)
それにしても、暑い。
下生えを掻き分けながらの行軍は地味に体力を使う。ただでさえいつ風呂に入ったのかもわからない。肌も着物も垢に汚れ、すえた臭いと湿気て張り付く肌触りが不快感を増していた。
「おい、そろそろ川じゃろう。小休止を挟んで水でも浴びんか?」
桐野の提案に、周囲を散開して進んでいた部下たちが口々に賛同した。誰もがこの蒸し暑さに辟易していたのが見て取れた。
鬱蒼とした木立から急に広がる空の下に迷い出た兵士たちは、敵地の最前線であるにもかかわらずホッとした顔を浮かべた。
指揮を執る野口に限らず、この部隊の者たちは緑の少ない東京で警吏の募集に応じた者ばかりだ。ほとんどの者が戊辰の役の生き残りらしいが、京から江戸にかけての戦いでは山岳戦はほとんどなかった。兵として現役を退いてからもう十年にもなるのに、こんな戦場に放り込まれるとは。青空が開けただけで気が楽になるのは江戸っ子だからだけではあるまい。
彼らは別働第三旅団と陸軍に応じた呼ばれ方もするが、中の者には警視隊の方が通りがいい。文字通り、本来は警察業務に就く筈だった内務省の職員だ。薩摩の蜂起に伴って大都市圏の治安維持の為に緊急で募集された警吏たちの中で、運悪く西郷軍との戦いの場へ送り込まれた約五千の者たち。
基本的には後方の警備に当たる事になっているのだが……薩軍が近接戦で刀争を好むために農町民が多い徴募兵では相手ができず、士族が多い彼らがこうして矢面に立つ場面も多い。熊本城の救援に向かって田原坂の激戦に参加した部隊は抜刀隊とも呼ばれていた。
突如統制を失い山中に散った薩軍を追いかけ、こんな山中まで踏み込んできたが……考えて見ればしばらく休憩をとっていない。水もあり、砂州が広いために視界も開けて警戒しやすいここらで休みを入れるのが良いかと野口は思った。
「一旦足を止めて小休止を入れよう。各員、周囲の警戒を怠るな」
わっと歓声が上がるのを背中に野口は手拭いを水に浸しながら、馬丁に馬にも水を飲ませるように指示を出した。
先頭を進んでいた兵が、抑えた声で急を告げた。
「川べりに政府軍の一小隊が休んでおりもす!」
「なんじゃと!?」
桐野が急いで前に出る。確かに政府軍にしか見えない連中が人馬を休ませている。
「どげんしますか? 今なら向こうも気づいておりもはんが……」
お伺いを立てる部下の声音が、“奇襲をかけるか?”という問いではなく“気づかれぬうちに逃げるか?”という響きであるのに気がついた時……自分自身迷っていた桐野の気持ちがストンと落ち着いた。
「せからしか」
「はっ!?」
目を丸くする部下たちに、桐野はサバサバした笑みを見せて腰の刀を叩いた。
「やることばやった。元より義ばあってん、勝ちは無かじゃ。こん辺りで、得意のコレで終いにしてんよかんじゃなかとか?」
あっけにとられていた部下たちの目が、桐野の言葉が浸透するにつれて輝いて来た。
「そうじゃな!」
「そうじゃ! 行こう!」
元より薩摩隼人は議論を好かない。ゴチャゴチャ理屈を言うのは性に合わない。桐野の言う通り政府に対して武士の一分を立てた今となっては、もう後は死ぬだけだ。薩摩に戻ろうがここで野晒しになろうが、話の結末は同じことである。
頷きあった薩摩兵たちは策も何もなく、刀を抜くと桐野を先頭に河原へ躍り出た。
「隊長、薩軍です!」
濡れ手拭いで首筋をぬぐっていた野口五郎は、部下の短い叫びに瞬時に気を引き締めた。
見やれば、対岸の木立の中からバラバラの服装の集団が次々と姿を現してきている。彼らに共通するのは、すでに抜身の薩摩刀を下げているという点だ。
一斉に色めき立ち、小銃を手に散開する野口の部下の挙動に構いもせず……薩兵はいっそ堂々と胸を張り、悠々と川を渡り始めた。
あまりに悠然としたその態度に野口が射撃命令を躊躇っていると……先頭を征く年かさの男が声を張り上げた。
「よう聞け、政府ん犬ども! おいはかつて陸軍少将を拝命しちょった桐野利秋や。大将首ばくれちゃるけえ、腕に覚えんあっ者からかかってけえ!」
そう言いつつも、政府軍側が撃剣に応じるとは考えてはいないのだろう。銃撃を甘んじて受けそうな態度の中には……市民兵を見下す歴戦の士族の優越感と、戦塵に飽きて生を諦めた徒労感が垣間見えるようだった。
だが、言われた方の反応は、少し桐野が考えていたものとは違っていたかもしれない。
「桐野利秋……!?」
「おい、桐野と言えば……人切り半次郎ではないか!?」
「そうだ、薩摩の中村半次郎!」
向かい合う警視隊は東京で巡査を務めていた者と、この戦役で急募に応えた東京で余っていた士族たちが主力になっている。つまり、旧幕臣も多い。新政府軍の桐野利秋少将というより、倒幕で動き回った薩摩志士の中村半次郎と言った方がしっくりくる。
意表を突かれた政府軍の側も一気に怒気が膨らんだ。まさにこいつのおかげで、彼らは政権の側から追い落とされ、明治の十年間苦汁を嘗めてきたのだ。
警視隊の兵士たちは一斉に小銃を構え、野口からの“撃て!”の一言を待った。
しかし、肝心の野口の号令が発せられない。
「……隊長?」
発砲命令が下らないのに焦った兵が野口を振り返った。
警視隊に支給された旧式の先込め銃は次発装填に時間がかかる。出来るだけ距離を離して撃たないと、敵兵に突撃されたら二発目が間に合わないかもしれない。それなのに射撃指示が出ないので、怪しんだのだが……。
振り返った兵士たちが見たのは……顔を押さえて泣いている野口の姿だった。
目を覆うように顔を押さえ、その隙間から静かに涙が筋になって流れ落ちている。声も無く嗚咽するかのように動いている喉が鳴り……次第にクツクツという音が高くなり、周りの部下たちは野口が泣きながら笑っているのに気がついた。
「た、隊長……?」
敵軍を前にしたぐらいで気が触れるような人ではない。しかし、この状態は一体……進撃して来る薩兵を前に気が気でない兵士たち。そんな彼らの耳に、やっと野口の口から意味のある言葉が流れ込んできた。
「いい……いい……いいぞ! 最高だっ! 剣を振るう戦場があって、共に戦う仲間がいて、倒すべき敵がいる! ああ……正義は勝つんだと信じていたあの頃みたいだ!」
押さえていた手を外した野口の顔は、どう猛な猛禽類もかくやという顔で笑っていた。
「総員、銃を置いて剣を抜け! 腕に自信のない奴は下がって銃の番でもしていろ!」
「はっ!?」
一斉射はできるのに、銃を捨てろ!?
敵兵の攻撃の真っ最中に急変した指揮官に、不可解な命令。動揺する部下たちへ、野口は自ら刀を抜き放ちながら……さらに今時聞かなくなった言葉遣いで号令をかけた。
「各々方、ご覚悟召されよ! 今後もはや戦場で剣戟の起こることは二度とござらん! 侍として死ぬるは今この一時を置いて向後あり得ぬぞ! 我こそはと思わん者は拙者に続いて参れ!」
続いて、渡河してくる薩軍に向かって、野口は大音声で名乗りを上げた。
「よくも拙者の前に恥知らずにも顔を出したな薩摩っぽが! 貴様らに汚名を着せられ殺された近藤や土方の仇、今ここで取らせてもらう! 新選組副長助勤斎藤一、参る!」
一拍置いて、血相を変えた一人が刀に手をかけながら立ち上がった。
「思いは儂も同じじゃ! 見廻組内藤小弥太、推参仕る!」
一人が名乗り出れば、次々と兵士たちが刀を抜き始めた。
「元彰義隊士古橋清次郎!」
「新徴組の瀬高源内じゃ!」
気がつけば警視隊の兵のほとんどが抜刀し、銃を捨てて川を渡り始めていた。
口々に名乗りを上げて斬り込んでくる政府軍を前に、むしろ最初に挑発した桐野の方が開いた口がふさがらなかった。
広い砂州のあちこちで始まるチャンバラを前に、桐野は不思議とどんどん愉快になってくる。
「くっ、はは……はははっ! おいおい神様よ、話が出来過ぎじゃろう。最期の敵に選んだ奴らが幕軍じゃと? こんた負くっわけにはいかんわな!」
笑っているうちに、桐野は先日来感じている胸のしこりが何なのかようやく気がついた。
身中を荒れ狂ったもどかしさは、ただ政府の無情な仕置に怒っていただけではない。
この半年の戦いが破れつつある悔しさでも、閉ざされた未来への絶望でもない。
今まで己が時流に乗って生き残っていたことで、見えなくなっていたのだ……武士という生き方が捨て去られようとしている今、旧時代に心を残し、新時代について行けない中途半端な人生のもどかしさを。
渾身の大戦に負けて、やっとわかった。間違いなく自分も、村田どんの言っていた“新しい世界に居場所のない”時代遅れの一人なのだと。村田どんが政府を見捨てて西郷どんについて来てしまったように、洋服を着てもなお己は侍であったのだ。
桐野は右手に握っていた刀に左手を添え、八双に構えた。
この先、薩摩が勝とうが政府が勝とうが元から我らに道などない。ならば政府軍のあいつが言うように、ただ今は楽しめばよい。おそらく二度と起こらないであろう侍同士の戦を。
この場を見渡す限り、もはや敵も味方も意味は無かった。今ここに居るのは、時代に見捨てられた愛しき旧弊たち。並べた銃の筒先の数がものを言う時代に、それでも刀を手放せぬ取り残された我が仲間たち。
ちょうど最初に名乗りを上げて来た新選組の斎藤が桐野の部下を一刀で切り捨てたので、桐野は万感の思いを込めて駆け寄り一の太刀を見舞った。
薬丸自顕流必殺の一撃は受けた側から見ても会心の出来だったが、野口=斎藤とて伊達に新選組で撃剣師範をしてはいない。むしろ都では古馴染みだった打ち込みを紙一重でよけ切り、間を置かず逆袈裟に斬り上げた。初太刀のみで後は受けも何も無いと言われる薬丸自顕流だが、さすがに実戦経験豊富な桐野は斎藤の打ち込みを受けて見せた。
思いがけず鍔迫り合いになり、お互い刀に力を込めつつも……近い距離で顔を見合わせることになった桐野が楽しくて仕方ないという表情で斎藤に話しかけてきた。
「きさん、戦場であれこれ考えちょると手ばついて来なくなっど?」
大柄な斎藤に負けぬ膂力と体格の持ち主に、負けじと笑い返す。
「御忠告かたじけないが貴様が暖衣飽食している間にな、我らは色々あったんだよ……色々となぁぁぁっ!」
二人は同時に押し合い、反発した力を用いて距離を取る。お互いに笑ったまま息を整え……同時に相手に向かって踏み込んだ。
◆
非公式に「百畳河原の戦い」と呼ばれるこの戦いは参戦した誰もが記録を残しておらず、口伝で遭遇戦があった事実だけが語られるのみである。
城山の戦いまでに全滅した薩軍諸士は言うに及ばず、警視隊で参戦した諸兄も後に残した物は何もない。したがって指揮官級の人物が全て物故した今となっては、正確な場所も、戦死者の数も、勝敗の行方さえ明らかではない。ただただ「日本最後の剣戟戦」と伝わるのみである。
せめて戦いの結末がどうなったのか、それだけでも教えてもらえないかと訊いた男に対し生き残りの老爺は……天界人になった桐野や斎藤に確認を取るかのようにしばらく虚空を眺め、ややあってにこやかに首を横に振って見せた。
「それこそ、天子様も何度も変わった今となっちゃ訊くだけ野暮ってもんでしょう。どっちが勝っただ負けただじゃござんせん。それに若輩だったあっしごときがあの締めくくりを今、てめえ一人で勝ち負け付けるなんて恐れ多いことはできやしませんよ。ただ……時代の狭間で死んでも死にきれなかったおさむれえたちが、一炊の夢を過ごした。それでいいじゃありやせんか」
そう言うと老爺はこれで話は終わりだと言うように湯呑を取り、茶を啜り始めた。
斎藤さんと桐野さんは、一応同じ方面で戦っていたみたいです。広い戦場のどこかにいるかもな、レベルみたいですが。
名うての二人がいたので、合わせてみました。池波正太郎っぽく書けていればいいなあ。