Ver.0.0.1 "クラッシュ"
「あー、疲れたぁ。何か腹を満たせるものは〜っと」
飽き飽きと感じる学校から帰還し、部屋の空白を埋めるためテレビに電源を入れる。鞄や制服を脱ぎ捨てて、彼の至福の時間が始まろうとする。いつも通り許可なく喚く腹の機嫌をとるためにパンを口に放り込む。
両親と二つ離れた中学二年生の妹は振り返りの休日を使って泊まりがけの旅行中だ。一人分の旅行費を小遣いとしてもらう契約をし、一人留守番中。
今日も一人の男子高校生の平和な日常に変化はない。はず。
──白河智己、それが彼の名前だ。男子高校生の平均身長の一回り越えた程の身長をもち、体格は部活しているDKというところだ。しかし中学時代バスケットボールに燃え尽き、今ではスポーツに限らず全てにおいて情熱が冷めきっている帰宅部。ちなみに頭は中学では上位層にいた。総合的に中の上、それが彼の評価だ。
そんな日常のリズムの一部であるテレビのアナウンサーの声が不思議にもいつもに増して彼の聴神経を撫でる。
『──速報です。先程、三人が乗っていた自家乗用車がトラックに衝突するという事件が起きました。この事故で座席に乗っていた男女二名が心肺停止の状態です。警察は白河智明さん、妻の由己さんとして身元確認を急いでいます。車内には……』
唐突に崩壊した今日。持っていたスマホを放って慌ててテレビに駆け寄り、脳内ハードディスクに一言一句聞き漏らさないよう記憶する。無意識に聞いていた冒頭も改めて書き込まれる。
「 ……え。……は? まさか、そんなはず……」
テレビの前で、夕方五時のニュース中に流れる速報を聞き茫然としている。それもそのはず死んだのだ。彼の家族が画面の中で死んだのである。このような事故の心肺停止はほとんどあてにならない。
今、彼にあるのは驚きの感情。空気の張っている画面の中から親の名前が出れば焦るのも無理はない。そして脳内を駆け巡る『心肺停止』と親の名前。二つが結びつき荒く整理されたところで悲しみを越えた虚無感に襲われる。
そしてスマートフォンの着信音が鳴り響く。彼が気配が消えるほど立ち尽くしているため、その分好き勝手に音が部屋を駆け巡る。
『──もしもし。警視庁のものです。白河智己さんで間違い無いですかね?』
「……はい」
力なく強制的な冷静さで答える。
『今から話す事はニュースなどでお聞きなったかもしれません。先程、交通事故発生し、二名の死亡が確認されました。当署の調べで智己さんの親御さんで間違い無いかと思われます。突然の事なので気持ちが落ち着きましたら、ご確認と話があるので署の方にに来ていただけますでしょうか』
警察官はそう要件を伝え会話を終える。警察の調査の迅速さは智己に家族ではないという希望を持つ時間を微塵も与えない。
速報の時と違って現実的に考え信じ難い事が、公共機関からの連絡により一気に現実的な事へと変化する。もちろん智己はその変化に対応する事が出来ていない。
脱力感に取り憑かれた体と否定を続ける脳と共に家を出て、自転車で警察署に向かう。
署に着き応接員に電話で呼ばれたことと名前、制服に常備していた生徒証明書を提示すると、遺体が保管されているという遺体安置室へ案内される。
白い布を体全体に被った両親が台の上で寝ている。布の上からは人間らしい体の膨らみは見当たらない。その死体からは切花の切り口に残る無念さや外発的な括りを感じる。
その中にいた公務員の一人が慣れた手つきで顔の白い布を剥ぐる。部屋の中は死体のようにひんやりとしていた。
「ぁあ、あ……」
絞り出された声しか出せない。昨日まで関わっていた存在が死んでいる。彼の脳は未だに混乱状態が続き、今日の出来事に置き去りにされていく。現実は全て目の前にあった。損傷の少ない顔以外では人間と判別出来ないほど無残な物だった。
──加害者の顔が知りたい。生命を絶ってやりたい。
真っ黒な感情と直感との間にそのような考えが生まれた。高校入学後に溜められた物事への情熱が負の情熱としてその考えに注がれる。彼の呆れたような黒い瞳は復讐心を手に入れ一層濁っていく。不思議と涙は出ていない。
「……カガイシャ」
音を吸収する部屋で彼の呟きに反応したものはいなかった。再度、
「加害者の方はいますか」
やっと反応され薄情にも冷静にこう告げられる。
「誠に残念ながら加害者のものと見られるトラックはあるようですが、加害者が逃走中とのことです」
その事実がさらに復讐心を煽る。呆れて物が言えない、とはよく言ったものだ。まさに智己が陥っている状況を忠実に表している。
突きつけられた現実は高校生には受け入れ難いもので だが、膝から崩れ落ちたり、泣いたりという事は無かった。自ら家族と共に命を断つという考えも生まれなかった。逆に加害者へいつか恨みを晴らすという目的ができ、生きる希望へと繋がった。
幾度か父と母に肌を合わせて、そして遺体安置所と両親に永遠の別れを告げる。遺体確認にかかった時間は思いがけない冷静さにより、さほどかからなかった。
いくらか学校のような階段と廊下を通り、次に背の低いテーブルを皮の張った一人用の椅子が四つ囲んでいる個室に案内される。椅子に座らされ、対面した今回の事件の担当者が自己紹介等をしている。だが加害者や家族の死につながる情報を脳が欲していて、余計な情報と判断されたため耳を閉ざす。
「まずはこの度の事件お悔やみ申し上げます。大変なお気持ちお察ししますが、現時点で分かっている事故発生時の状況などをお伝えしたいと思います」
恒例と思われる定型文を冒頭に置き、続けて説明を始める。智己にとって今は日本語の作法などどうでもよかった。重要なのは次だ。
「事故発生時刻は四時四七分、駅前の交差点です。加害者は──」
走馬灯と同じ時間の流れで説明されているように感じるほど、情報に飢えている。コマ送りのような周りの時間に溺れながらも待ち続ける。
「──加藤明弘。五六歳、無職。彼は以前運送会社に勤めており、元いた会社のトラックで事故を起こしていることや事件発生時に対向車線を走行していたことからリストラの社会への報復、自殺目的だったのではないかと推測されます」
『加藤明弘』、『無職』、『リストラの社会への報復』、『自殺目的』、必要な単語のみが脳内へ流入し、理解する。
──個人的な社会への報復のためだけに無関係なお父さんやお母さんの命を奪ったのかッ……! それも自殺志願の無職にッ! 許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。ユルセナイ。ユルセナイ……
口から出る事はなかった。家族が死んだのに平静を保っていられる自分を恐ろしく思いつつも憎悪の炎は滾り続ける。
その後、担当者は警察としての犯人確保への熱意やその他の詳細等を話していた。しかし数時間遅れで到着した現実を知らされ、智己の耳を素通りするしかなかった。
気づくと警察署の入り口前で突っ立っている。記憶には冷たく無残な姿の親に会ったこと、加害者の個人情報のみ。時計も短針が半周回っている。辺りは暗く、肌寒く感じる。
生きた心地がしなかった。いつも歩く道は無感情に智己を見つめる。今は通りを歩く親子にも置いていかれ、有名な飲食店に無視される。自分は孤独に世界に隔離されるように。
精神世界の山を越え、谷を越え、家に着く。騒がしかった家も今では自分しかいない。
「どうしよう……」
玄関で脱力と共に出た言葉は絶望で、智己を無気力にする。
誰もいない家の常識を無視して、床に倒れ臥す。空腹や体の不潔感を感じるまでもなく深い眠りについた。このまま死んでしまっても悪くないと思えるほどに。