満月の夜
お前が一人で行くべきと言ってミコトはついて来なかった。神社の旧跡地、ぶっ倒れてまで探して、あっさり見つけた場所。もう、間違いなく俺が忘れているのは神代真白の事だ。
この夏休みの曖昧で不自然な記憶は全て神代真白が関わっていたということは理解できた。それ以外はもうなかった。ただ、気づいただけで肝心の記憶の方は何一つ思い出す事はなかった。
ミコトは自分のことを神様だとか言っていたが、しかも琴音達の神社の。本気で信用できる事でもないが、不思議な人であったのは確かだった。
祠を一生懸命になって探していたのは神代真白を救うためだったのだろうか。ミコトに言われた――また救えなかった。俺にとって神代真白とはどんなそんざいだったのだろう。
「また」とはどういう事なのだろうか。
神社の旧跡地の前に着いた。月の光は木の葉に遮られて中は茂みの暗くなってかなり不気味な雰囲気だ。
この先の祠に行けば何かわかるのだろうか?
神代真白に会えるのだろうか?
暗い道を携帯の明かりを頼りに奥へと進む。明かりをつける際に楽からいつ帰ってくるんだ?という連絡が来ていたのでとりあえず、『遅くなるかも』とだけ伝えた。
足元に気をつけながら、一度だけ訪れた時の事を思い出しながら進むと、この前と同じ開けた空間を見つけた。
しかし、目の前に広がる光景はまるで違うものだった。
上空から降る月の光が葉に遮られることもなく祠の周り一体を照らし、昼間に来た時には感じなかった神聖な雰囲気がそこに漂う。
誰もいない。神代真白はそこにいなかった。
手に持っていた箱から桜貝のペンダントを取り出して台座と思われる所にそっと置いた。そして手を合わせて祈る。作法がこれでいいのかなんてわからないが目を閉じて祈る。
俺は何を祈るべきなのだろう?何を伝えようとすればいいのだろうか?
久しぶりなんて軽口を言える立場ではない。何も言えた立場ではない。出来たとしても心から謝ることぐらい。
ごめん。記憶をなくした、救うことのできなかった、俺をどうか許して欲しい――
「うん」
「っ!?」
突然聞こえるその声に反応して目を開いた俺は声も出ないほど驚いた。
それはもう急に幽霊が現れたかのように。というかもうほとんどそれと同じ事だった。
目を閉じる前まで誰もいなかった祠の上には
「おっす」
無表情で挨拶してくる白く長い髪の少女が座っていたからだ。
「神代……真白……?」
白いワンピースを着たその少女は頷く。
「おひさ」
「あ、あの、はい……」
予想外の人柄にたじたじとしてしまう。真白は首を傾げている。
「えっと神代さん?」
「ましろ」
「真白さん」
「ましろ」
「……真白」
「ん」
満足そうにしている。ミコトも敬語を嫌っていたが同じなのだろうか?
「ごめん。俺、お前の事を忘れて覚えてないんだよ」
「しってる」
真白の表情は怒るでもなく悲しむでもなく、ただただ無表情だ。
「どうでもいい」
表情からは読み取れないがやっぱり怒っているのだろうか?
「また、あえたから」
胸が打たれた。
同時に罪悪感の奔流にのまれた。本人を目の前にして、記憶を失ったおかげで薄まっていた負い目が濃密なドロドロとなって心の底から地底火山の噴火のように湧きあがり、満たしていく。
「やくそく、まもった」
そのまた会う約束をした事も俺は覚えてない。だけど違う。会えるだけじゃ不十分だ。俺が一生懸命になって祠を探していたのも会うことだけが目的じゃないはずなのだ。
「じゅうぶん」
表情は変わらない。ただ言葉からは悲しみが伝わった気がする。その真白の悟ったような言葉に俺は真白の状態を察した。
「ごめん」
また謝る。声が震えている。
「俺は……お前を救ってやる事が……できなかった……」
それは悔しさから不甲斐なさからか、涙が出そうな自分に気づく。海に行った時も、水族館にも祭にも目の前の少女はいたのだろう。一緒に楽しく遊んでいたのだろうか?俺には思い出せない。もう何も思い出す事がない。
「もうお前を助けることは出来ないのか?」
真白は頷く。
「むり」
呆気なく言い切られる。……でも助ける術はあったはずだった。真白の記憶を失う前までは救おうとしていたのだから。思い出せないなら予測するしかない。祠を探していた意味を……
「こーいち」
座っていた祠から下りて真白は台座にのせてあった桜貝のペンダントを手に持った。
「つけて」
真白の手の指先に垂れ下げられて揺れるペンダントを受け取る。考えるのを止めて
「後ろ向いてくれ」
言われたとおりに後ろを向いた真白の首元を隠す長い髪をはらう。真白の髪は不気味なほど軽く、触った感触を感じないほどであった。
ペンダントなんてつけた事がなく、もたついていると
「らく、げんき?」
楽の事だろうか。
「元気だよ。元気すぎて困るくらい。毎日うるさくて敵わなねえよ」
真白は満足そうに何度も頷く。
「ことねも?すずねも?」
「元気だよ。二人とも最近は楽器の練習してるけどな」
今度は頷かない。
「……ききたかった」
――――!唇を噛む。
「おっさんは?」
おっさん?和久のおっさんの事だろうか?
「相変わらず怖い顔しながら飯を作ってたよ。店も大忙しだったよ」
「へえ」
あんまり興味がなさそうだ。聞いたくせに?不憫なおっさんだった。
「……ミコトは?」
「悪い真白、お前のお姉ちゃんも俺は忘れちまってるみたいなんだよ」
「おねい……ちゃん?」
「妹を頼んだって言われてんだけど違うのか?」
「そっ」
答えになっていなかった。ただ二度頷いた後の真白は何となく嬉しそうにしている気がした。
ここでやっと取り付ける金具が外れて、手を真白の前に回してペンダントの紐を真白の首につけて。金具をとめる。
「ほら」
「ん」
真白は首に下がったペンダントの桜貝を手に乗せてじっと見ている。
「こーいち」
「どうした?」
真白は俺に背を向けたまま話す。
「たのしかった」
「……そうか」
「みんな、いいひと」
「そう、だな」
「あえて、よかった」
「…………」
「だから」
「…………」
「ほんとに」
「…………」
「しあわせ」
真白は震えているように思えた。声も体も。しかし、はっきりとわからない。俺はもう目の前が涙でよく見えなくなっていた。この涙が真白への申し訳なさなのか罪悪感なのか哀れみなのか悔しさか同情か全てか。嗚咽を漏らしながら、みっともなく、泣いていた。
「こーいち」
「ど…し……」
まともに話せない。
「……ぇたくない」
「え?」
真白が振り向く。
「消えだぐない!!」
真白が無表情を歪ませて大声で感情的に泣いていた。そして気がつくと俺は自分の胸に真白を抱きよせていた。しかし、真白の温もりも、柔らかさも、重みも、もう感じることが出来なくなっていた。そんなことは関係なく俺はただ……力強く真白を抱きしめた。
「こーいち!こーいち!」
真白が俺の名前を呼ぶ。
「たのしかった!だから!もうよかった!でも!」
真白の体が少し透明がかり始めている。
「もっと、いっしょにっ!」
涙を流しながら歯を食いしばる。ごめんの一つも言う事が出来ない。
泣く真白の後ろ髪を撫でる。触れている感覚はない。胸元で真白はグスグスと泣いている。救えなかった俺がいつまでも泣いているわけにはいかない。
片手を真白から離して涙を拭う。
「ちがう」
「え?」
自分の涙を拭いさると真白は抱きしめている俺の体を手で押し返した。
「こうじゃない」
急な拒絶を食らった俺は事態を飲み込めない。驚いて真白を見やると
「…………!」
もう真白の体はほとんど半透明となっているように見えた。消える、真白が消えてしまう。
「こーいち」
自分の状態を気にした様子もなく真白は俺にいつものように呼びかける。
「わらえ」
……なぜ命令口調?ここにきて?
「ま、真白?」
「こーいち、わらえ」
「…………?」
「なくな、わらう」
――!
「さいごも、たのしく」
「…………そうだな」
「おわかれ」
お別れの一言に目頭が熱くなる。ここで泣いたらもう止まらない。グッと堪える。
「バイバイ真白」
出来る限りの満面の笑みを真白に見せる。
「バイバイ、こーいち」
真白は涙で腫れた目を精一杯優しく柔らかくして微笑んだ。
「ありがと」
真白はその一言を残して完全に消えた。
ポタポタと乾いたはずの涙がまた零れてきた。自分は真白が消えるまで笑顔でいられたのだろうか。涙を堪える事が出来ていたのだろうか。顔をグシャグシャにしながらもうそこには誰もいなくなった、真白が消えた場所を抱きしめる。
抱きしめた所には消えた後にも関わらず消える前には感じなかった温もりを感じる気がした。
「こーいち」
真白の声が直ぐそこで聞こえる気がした。ミコトが言うには明日にでもこの記憶ごと消えるらしい。やっとまた会えたというのに……消えた影を追うように俺はさらに強く抱きしめた。
「いたい」
「へ?」
抱きしめた時の温もりも、聞こえてくる声も幻でもなかった。
俺の腕の中には、黒色の髪になってはいるが、その長い髪と相変わらずの無表情な顔はどこからどう見ても、今しがた消えたばかりの神代真白その人だった。