第1話−1
【第1話−1】
― ピッ!
小さな電子音とかすかなモーター音を立て、目の前の暗闇が明るく輝きだす。
わずか数十センチ四方のその世界が今の康子にとっては楽園だった。
最近あちこちで耳にするようになった「ブログ」を始めて半年あまり、見よう見まねで裏技らしきものも覚え何とか体裁も整ってきた。
毎日のようにコメントをやり取りする相手も増え、互いに見ず知らずの他人でありながらずっと前からの友人のように親しげに文字だけで<会話>を交わす。
生涯顔を見ることもない不確かな存在……。
だが専業主婦として過ぎていく日々を家事に追われる康子にとっては、自宅でできる手軽な息抜きの場だった。
結婚して6年、康子はもうすぐ33歳になる。
夫の勇介は3歳年上で大学時代に知り合った。
商社に勤めているので仕事が忙しく、今日も「午前様」のようだ。
時計は午前0時を指している。
パジャマの上にフランネルのローブを羽織った康子は、リビングの中央にあるソファーに腰をおろした。
ひざの上で、小さなマーガレットの柄を刺繍したベージュ色のクッションを抱く。
テーブルの上に開いたノートパソコンが立ち上がるのを待ちながら、康子はカーテンの開いた大きなガラス窓に目を向けた。
大阪の街が一望できる高層マンションの窓の外には、宝石を数え切れないほどちりばめたような美しい夜景が広がっている。
遊びに来た友人の誰もがため息をつく光景だ。
「康子はいいわねぇ」
三歳の男の子を膝に抱いた親友の智美が、羨望のまなざしでそうつぶやいたのは、今日の昼間のことだ。
確かに同世代の友人達から見ると、康子の生活は恵まれているのかもしれない。
大手商社に勤める夫は仕事のために帰りが遅いが、それでも毎日必ず康子のもとに帰ってくる。
今までの結婚生活の中で無断外泊をしたことなど一度も無い。
そして子供がいないせいもあり、経済的に不自由さを感じたこともない。
浮気に悩んだり、家計のやりくりで頭を痛めている主婦に比べたら、幸せといえるのだろう。
唯一の悩みは、なかなか子供ができないことだろうか。
静かで穏やかな満たされた生活。
だがそんな毎日の中で、ふと、自分だけが取り残されているような、灰色の不安に押しつぶされそうになることがある。
康子は小さく息を吐くと、マウスを操作してインターネットを立ち上げた。
すぐにメールの着信を確認する。
― 新着メッセージがあります。
その文字に康子はかすかに頬を高潮させた。
わずかに速くなる鼓動を抑え、マウスをクリックする。
「受信箱」を開けると、10件ほどのメールが入っていた。
友達からの近況報告、化粧品会社からのDM、中には出会い系サイトらしきあやしげなタイトルのメールもある。
そんないくつものメールの中に、康子が心待ちにしていた件名があった。
― Re:こんばんは
<AKIRA>とやり取りしているメールだ。
メールを開こうとしたその時、静寂を破るようにインターフォンが鳴った。
【第1話−2】に続く
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