石之丞
石の崩れる音を聞いて、石之丞は河原へ駆けつけた。襤褸を纏った子どもが二人、石山を蹴って遊んでいた。ぽろぽろと零れる石を指差し嘲笑っては蹴りつけている。
石之丞は憤怒して、子どもらを追い払った。
崩れた石は河原のそれらと混ざって見分けがつかなくなっていた。石山の欠けた斜面もすでに他の石にならされている。石山は昨日までより背が低くなった。石之丞の頭を越える程度だったのが、今や彼の腰の高さくらいしかなかった。
石之丞には石を積む趣味があった。むしろ石を積んでいたからこそ石之丞と呼ばれていた。元々の名はとうに忘れた。身寄りのない農民の彼にとって、名前など大した意味もなく、あだ名であっても石と冠する分には不満はなかった。彼は人間よりは石の方がいくらかマシだと本気で考えている男だった。
河原に転がる石の中から手頃なものを見つけ、石山の天辺に載せた。安定した石はまるで最初からそこにあったかのように山の一部となった。
石は良いものだ。どこに置かれても何も言わない。不満もないし、要求もない。甲高い声で走り回り誰かを足蹴にすることもない。石は何かをされるのをずっと待っている。動かされたり、小突かれたり、叩かれたり、転がされたり。石の方から動くことは絶対にない。だから石之丞はそれらが好きだった。彼は、たとえば人間の子どものような、ひたすら動き回る存在に疲れ果てていたのである。
怒り猛っていた気持ちも、黒や灰色に光る石を眺めているうちに沈んでいった。ひとしきり眺めると、背を伸ばして、手持ちの桶に川の水を汲み、自らの畑へと帰っていった。それらの行いは石之丞の日課だった。
石之丞は貧しい農民だった。石を積むことの他に楽しみもなく、関心のあることといえば、亡き父親から引き継いだ畑で収穫した芋を売ることが、世間との唯一の窓口だった。
彼の家は川縁にあった。澄んだ川ある。遠く上流の都から流れてきて、海まで流れる。石之丞はそこから水を汲み、芋畑に広々と引いていた。独り占めにすることもなく、周りの農家の畑にも水を引かせていた。そこで金を儲けようとは、石之丞は考えなかった。
芋の売り上げもたかが知れており、儲けはほとんどなかった。だが石之丞は焦らなかった。粟や稗の干からびた盛り飯は、その働きに相応なものだと考え、それ以外には何も望まなかった。酒は飲まず、賭け事もせず、都の遊興にはその噂さえ耳にしなかった。
石積みは、川縁を歩いている最中にふと閃いた遊びだった。理由などない。暇をもてあましていた折りに、足下に握るのにちょうどよい大きさの石を見つけ、それを窪地におしこめたところ寸分違わず嵌まり、微々たる愉快な感触を胸のうちで感じたのである。
翌日には二つ目の石を置いた。一つ目の石の隣にだ。その次の石は、一つ目と二つ目に接する位置にした。次なる四つ目は前の三つの石に接しつつその上にすぽりと嵌まった。出来上がったごく小さな山は石之丞の心を疼かせ、五つ目、六つ目の石をその周りに置かせた。こうして石はひとつ、またひとつと重ねられ、川縁の片隅に不自然な石の連なりができあがった。
気がつけば石之丞は石積みに熱中していた。とはいえその熱中は、都に聳える寺社仏閣を組み立てる大工のそれとも、絵や織物を作り上げる繊細端麗な職人のそれとも異なっていた。彼には立派なものを作ろうという気概は全くなかった。如何に積み上げられようと石は石。風や雨に流されるし、時には波や、小さな獣、村の子どもに蹴散らされる。積み上げた石が、翌日にはその半分の高さに縮むか、根元から崩れ落ちていることも少なくなかった。
それでも石之丞は自らの営みを止めなかった。止める理由がなかった。立派なものを目指さないという態度は、石がどのような有様となろうとも積み上げ続ける気持ちを常に保った。石積みは彼の日課となり、畑による最中に水を汲むため必ず川縁に寄るのも功を奏した。一度ものごとに慣れ親しむと、止めるという気持ちは自ずと遠ざかっていく。
石之丞は周りから奇異の目で見られた。石之丞の呼び名もその趣味の始まりと同じ頃から呼ばれ始めたものだ。もっともその頃はまだ周りの畑の子どもが遊びのついでに川縁を覗き、自分らの目の高さほども積まれている石を見てげらげら笑い、足蹴にして踏み倒しながらかき鳴らす蔑称のひとつに過ぎなかった。
石之丞の名が知れ渡るのにはまだしばらく時を要した。
芋の収穫も終わった頃、石之丞は籠を背負いながら山道を下っていた。下り終わった先に川があり、そこを渡れば家に辿り着く。足取りは重かった。彼の背には芋は山ほど残っている。せっかく足を運んだ都の店で、彼の芋は大した値打ちもつけられずに放っておかれてしまったのである。
時期も悪かった。都抱えの武士達はみな東の戦に赴いていた。武士がものをよく食べていたことばかりではない。彼らがいることで町にも活気が生まれていた。逆に彼らがいなくなった途端、町には不安そうな顔色の女年寄りで溢れた。この国が戦で負け続けていることもその気運を削いだ。戦には必ず死があり、その死が自分達に近ければ近いほど、顔を背けないわけにはいかない。誰だって死は厭うものだ。死を目の当たりにするのも嫌だが、それが夫や父、息子であれば話は別だ。身内の死は重荷であり、芋など煮て突っついて微笑みあう余裕を削ぐ。町全体がそんな調子で、石之丞の商売は冷ややかな目で突っつかれた。
石之丞が他の武士達と大差ない年頃であるのもその目線の一因だった。世を厭い町から離れた竹林の中で、ひたすら芋をつくり、暇を見つけては石を積む。そのような日々の過ごし方を、是とする者は少なかった。いたとしても彼の肩はもたなかった。石之丞にはおよそ友と呼べる者は一人としていなかった。
次の日の朝、芋畑に遣る水を汲みに、石之丞は川縁に来た。桶を満たして立ち上がろうとした折に、積み上げられた石を見ると、許に一人の武士が倒れているのに気がついた。襤褸の見知らぬ服を纏い、身体は痣だらけで、目を閉じていたが、近づいてみると息づかいが聞こえてきた。眠っているらしかった。
石之丞は武士を揺すり、目が覚めないとわかると当惑し、水桶二つを肩に背負いながら、
やがて器用に男を背負った。このときはまだ、自分が積み上げた石に寄りかかられて壊されないように、という気持ちが勝っていた。
畑に水を撒いてから、男を自分の家へと招いた。茣蓙の上に寝かせて布を被せた。武士はその傷だらけの様態に似合わぬ穏やかな顔つきで眠っていた。齢は石之丞より一回りほど低く見え、まだ元服して間もないようだった。
芋畑の草むしりを終えて、戻ると武士は起きていた。布を払ったまま、上体を起こしてぼんやり囲炉裏を眺めていた。石之丞が建屋に入ると顔を合わせ、まず「ここはどこか」と尋ねた。石之丞は国の名と村の名、それから自分の名と農民の身分を伝えた。武士は静かに話を聞いていた。話すことが、石之丞は得意ではなかったが、何度つっかえても武士は邪魔することなく石之丞の話を促した。
「話を聞くにようやく事情がつかめてきた。どうも自分は戦の最中、文字通り川に流されていたところ、其方に偶然拾われたらしい」
武士は一人合点して、石之丞に礼を伝えた。石之丞は頭をかいて、自分が拾ったのは石の山のおかげだと伝えた。おそらく川を流されていた武士は、石の山を彼方に見つけ、それを目がけて手を伸ばして縁に辿り着いたのだろう。
武士は名を言わなかった。敗残の身分に名乗る名もなく、これから行くあてもなく、しばらくは石之丞の住まいに暮らし、傷を癒すを先とした。
武士は怪我を負っていたといっても、石之丞よりは力があり、また才気もあった。試しに石之丞が芋畑の手伝いを頼んだところすぐに熟した。壊れた桶を見ると木片を集めて補修し、欠けた文机の足を取り替えた。
石之丞が武士のことを受け入れるのに、そう長い時間はかからなかった。自分にとって助かっている面があるのだから、文句もない。たまたま出会えたのも何かの縁だと、石之丞もまた自分から、武士が歩こうとするときは肩を貸し、武士が本を読みたいと願えばすぐさま町で買ってきた。恩の応酬が何度か繰り返された。
武士がやってきてひとつきほど経った頃、石之丞は一人川に水を汲みにやってきた。すると、石の山の麓にまたひとつの影を見た。よもやまた一人武士が来たわけでもあるまい。野ウサギか何か、獣の類いが怪我をしているのだろうかと近寄ってみると、その姿は干からびた魚の皮膚の塊のようだった。目玉が二つ、奇妙に離れた位置にあり、その間に楕円の口を認めると、いよいよその正体がつかめて、石之丞は思わず目をそらした。鬼だったのである。
「何をそっぽ向いておるんじゃ。こっちを見んか」
鬼は乾燥しきった声を発した。石之丞は震えつつもおっかなびっくり目をやった。見れば見るほど醜悪な体つきで、夏の間に腐った草を思わせる匂いも感じられた。鬼は何が楽しいのか、目を半月にして石之丞を嗤った。
「其方、わしのことが怖いか」
「そら怖い。お前は化け物だから」
当たり前のことを答えたつもりが、やはり鬼には面白かったらしい。骨の形が浮き出て見える細長い指で腹を撫でて、震えるように笑った。
「俺だって好きで鬼になったわけじゃない。だが仕方ない。鬼になっちまったんだから。だがな、鬼になりたくて鬼になるやつはいない。鬼として今この世にある者は、みなかつてはふつうの人だったんじゃから」
最初は見た目の醜さに辟易していたが、話してみるとこれまた辟易した。鬼は同じ事を幾度となく繰り返した。元々自分は人だった、鬼になってしまった、云々。それらの物言いの仕草は惚けた老人と変わらなかった。あるいはそれこそが鬼が元々人であることの証左といえたかもしれない。石之丞は呆然としていたが、鬼は嬉々として話を続けた。
「時に、農夫や。お前さん、この前武士と会わなかったかえ」
武士、と聞いて自宅に匿った者を思い浮かべた。だが、舌舐めずりする鬼の姿に恐怖して、咄嗟にそのことを隠した。行ってしまえば、武士にとってよくないことが起こる。そんな予感が石之丞を支配した。
「会わない方がええ。ありゃ修羅じゃて」
鬼は心底愉快そうに腕を振った。手首が折れそうなくらいよく撓った。
「あの男の行く先には必ず死が待っている。鬼が死体に群がり死肉を食うならば、修羅は自ら死を作る。だが修羅は死を食わない。また次の死を作る。それが終わればまた次、そしてその次。そういう怖ろしい出自なのじゃよ。わしらにとってはご馳走を作るありがたい者じゃがな」
武士のことを話しているとはわかっていたし、怖ろしいことを話していることもわかった。だが、石之丞の頭の中には疑問が浮かんでいた。武士がそれほどの暴れ者だとは思えなかった。石之丞の前にいるときは、武士はいつでも彼に対して協力的だった。
「もしも出会うことがあったら、わしに知らせてくれ。すぐにでもついていくつもりじゃて。死体にありつければ、わしらは嬉しいんじゃからのう」
「どちらに知らせればいいのです」
「この石山の天辺に向かって喋ってみい。必ずわしらの耳に届く。この世の理から外れたわしらにも、その声は届くんじゃ。とくにわしらを求める死の声は」
鬼は身をくるくる回して、最後には会釈して霞となった。漂う白いそれが消えると、その場に鬼がいた痕跡はなくなっていた。石之丞は肩を落とした。顔に出さないだけで、身の内は緊張に押し潰されそうであった。
鬼に会ったなど、あまり人には言いたくない。なるべく黙っていようと思い、話す相手など武士くらいしかいないことに気づいて胸を撫下ろした。桶に入れた水をえっちらおっちら芋畑へと運び込み、ふと気に掛かって家を見てみれば、武士はいつもと変わらぬように、茣蓙で眠りこけていた。
改めて武士を眺めてみるに、確かに剛健な体つきをしている。本気で振りかぶれば木の板を割ることもできそうだ。そのような姿を容易に想像することもできた。修羅であるかどうかは、大した自信はもてないが、否定もしきれないだろう。
石之丞は武士を観察するようになった。元々部外者である故に、またつねに得物を携えた姿に怯えていたものの、鬼の警告のために目を背けられなかった。石之丞はなるべく男を茣蓙の上に運び、身体を気遣い、収穫された芋の商談でやってくる都の商人や役人たちにはなるべく会わせないようにした。武士も石之丞の言いつけはしっかり守った。他の人の誰も、石之丞の家にもう一人誰かが潜んでいると気づいたものはいなかったように思われた。
石之丞は警戒していた。とはいえ怖、実際に男が修羅であったとして、何ができるわけでもない。ただ遠くから横目で見て、何事もありませんようにと祈ることくらいしかできなかった。
ところが、ある明け方のことだ。武士の姿が家から忽然といなくなったのである。石之丞は動顛して、朝靄の消えきらぬ畑の畦道を石之丞は駆け抜けた。
他の人に聞かれぬよう、声を出さずに目をかっぴらいて道を駆けた。武士の行くような場所は少ないはずだ。思い浮かんだのは唯一、あの河原まで通じる道だった。そこに武士の後ろ姿を見つけて、石之丞は息を吞み、安堵し、同時に目を見開いた。
武士は上半身を裸にし、石の山の横にて立っていた。太陽は石之丞の向かいにあり、光りの加減でその顔つきはわからない。武士は黒い大きな影となっていた。人の姿をしているが、人そのものとは思われない。何か大きな黒いもの。石之丞は固唾を吞んで見守っていた。
武士は刀を持っていた。いつも持っていた、錆びだらけの刀だ。川を流れているうちに付着した錆だと武士は言っていた。その刀を、武士は無音で持ち上げ、微かな吐息とともに振った。空気を文字通り切り裂く音が鳴り、残響が河原中に響き、石之丞を放心させた。
太陽が高くなり、武士の顔が見えるようになっても、石之丞はまだその姿に見とれていた。現物の刀が振るわれる様を初めて見た。その姿の無駄の無さに、石之丞は身を強張らせた。
放心している石之丞に、武士は気づけば近づいていた。
「どうだ、俺はここまで回復したぞ」
誇示するように腕を曲げ、歯をむき出しにして武士は笑った。実際石之丞は驚いた。日々どれほど回復しているのか、武士が自分から言うことはなかったからだ。
石之丞は笑いが自ずと込み上げてきた。
武士と石之丞は河原で横に並んだ。前を流れる川は太陽に照らされちらちら光っている。石之丞は今その川を、これまでのいつに見たときよりも綺麗に思った。
「この石が俺を助けてくれた」
彼らの横にある石山を見上げて、武士は言った。今や石山は石之丞の頭を遥かに超えて、武士が手を伸ばしてやっと頂点に届く程だ。高くするのにも限界があり、最近はもっぱら横方向への面積を広げつつあった。
武士の表情は和らいだ。
「川を流れているときにこの石の山を見上げた。その方向にいけば救われると思った。勘だ。辿り着いてみれば、親切な農民に助けられた。お前のことだ。礼を言おう、石之丞。何かの形で報いたい。望みのものはないか」
武士の問いかけに、石之丞は黙った。時間も空いて、武士は首を傾げたが、辛抱強く石之丞の答えを待っていた。
「お前さんは、これからも人を斬るのですか」
一番聞きたかったことを率直に聞いた。武士は面食らった様子だった。これまでも一度も、そのような物騒な質問を石之丞はしたことがなかった。奇異に思うのも無理はない。
武士はしばらく目を伏せたのち、口をむすんで頷いた。
石之丞は半歩身をひいた。
「なぜ斬るんです」
「世を変えるためだ」
「世?」
「そうだ」武士はまた一度頷いた。先ほどよりも大きく、しっかりと。
「俺はこの世に不満がある。多くの者が私欲のために世の理をねじ曲げている。俺はそれが気にくわない。この不満を晴らすには多くの悪者、加えて彼らの率いた人々を皆斃さねばならない。それだけの力が俺にあるのかどうか、それはわからないが、とにかく俺はそのために人を斬るを生業として今まで生きてきた。今更変えようもない。変えるつもりもない。それが俺だ」
武士は次第に笑みを増していった。自分が正しいと信じ切っている顔だった。石之丞は身の内に震えを感じた。今すぐにでもこの場から離れたい気持ちを、しかし抑えて堪えて、武士と向き合い続けた。
「私にはわからない」
言い出したときから唇が戦慄いた。足も揺れた。立っているのも困難だ。そんな石之丞の奇怪な姿を前に、武士は目を逸らさずに口を開いた。
「すると、お前は人を斬らなくてもよいと申すか」
「そうです」
「その者らが多くの民を苦しめているとしてもか」
「それは、そうかもしれません。ただ、私にはできない。考えたくもない。生きているものを、そうでなくするのは、私には怖くてできません」
「お前は悪人にそれほどの価値があると思うのか」
もはや、武士は笑ってはいなかった。まっすぐな瞳で石之丞を見つめ、答えを待っていた。石之丞の脳裏には、何をいっても斬られるという錯覚が生じていた。口を噤み掛けた石之丞は、ふと横の石山を見た。自分よりも大きいその山を感じ、口を開く勇気を得た。
「人の中には、私にとって嫌な人もいます。私はうるさい者が苦手です。そもそも他の誰かと協力するのは大きな苦手です。私は私一人でも生きていきたいと思っている。しかし、他の村人がそうはさせてくれません。みな石のように黙ってくれていれば良いものを、と考えることもしばしばです。
しかし、私の石だって無意味なものです。積み上げているのにも意味はない。でも、あなたを助けることはできた。あなたの目印になることはできた。狙ってやったことではありません。
同じ事です。人には価値はないのかもしれません。しかしあるのかもしれません。そして、価値があると思っておかないと、いつまでも何も無いと思ってしまう。人を斬るのも、きっと止められません。私は、あると思います。思いたいのです。そう思わせたのは、他ならぬあなたです」
石之丞は言葉が巧みではなかった。それでも言いたいことをまとめ、長々武士に語った。足の震えも唇の戦慄きもいつしか消えていた。今は武士から目を逸らしてはいけないと自分に呪詛のように言い聞かせていた。
話の最中、遮るものは何もなく、ただ武士が静かに頷くばかりだった。武士は口では何も応えなかった。
「この川は良いな」
武士は脈絡なく言うと、川へ一歩進み出て、腰のあたりに両手を当てた。
「特に朝陽が当たると美しい。あまり魚の泳がないのもいい。せせらぎがよく聞こえる。目を閉じていると、自ずと心安まる。鍛錬にも集中できるというものだ」
言葉が終わった。途端、武士は携えていた刀を振った。いつの間に構えたのか、石之丞にはまるでわからなかった。空を切り裂く俊敏な音が鳴ったときには、すでに刀身は川に頭を向けていた。
あの刀は避けようもない。見た瞬間にそれを悟った。修羅という鬼の発した言葉が石之丞の脳裏に浮かんだ。身が竦み、一歩も動けなかった。朝陽の逆光で武士の顔はぼやけている。光に痛むが、眼球は頑として逸れなかった。
ふと、石之丞は声を聞いた。微かな声だ。やすりをこすりつけるようなざらついた発音は鬼のそれに良く似ていた。姿は見えども、奴らは河原にいるのだろう。積み上げた石山の天辺に寝転び、修羅と石之丞を見下ろし嗤っている。
「聞け、石之丞。これからひと月、ここには近寄らない方がいい。もしも其方がこの川を、私と同じように好いているならば」
それが石之丞の聞いた、武士の最後の言葉だった。その河原から去った武士は、石之丞の家にはすでにおらず、荷物もみな消えていた。蛻の殻。温もりもすでに失せていた。
石之丞は武士の言いつけを守った。日課だった石積みも止め、畑への水は村の井戸から汲んだ。川よりも濁ったそれを抱えながら、芽を出した芋に水を撒いた。それが終わると家に帰って茣蓙の上に休んだ。夜になると外から怪しい嗤い声が聞こえることもあったが、石之丞は戸をしかと閉めてひたすら黙っていた。
村を行き来する途中、多くの噂を耳にした。川の上流の都で大きな戦があったという。豪勢な城主の住まいは崩れ、町の人々は殺された。死屍累々の町の影が見えるところまで匂いが広まっているという。この村の傍を流れる川にも、屍が押し寄せている。しばらくは近寄らない方がいい、云々。
おそらくその屍の傍には鬼が募っているのだろう。口には出さずとも、石之丞は確信した。毎日聞こえてくる彼らの嗤いに耳を塞ぎつつ、彼らに思いを馳せ、武士の無事を願った。彼が戦に参加したことを、その戦で多くの命を奪ったことを、すでに石之丞は確信していた。
数日すると、村の方で騒ぎがあった。世話好きな村人が石之丞を集会場に誘ってくれた。そこには身綺麗な男がいた。傍にいた村人に石之丞が尋ねると、新しい城主の家臣だと教えられた。家臣が声高に叫んでいることを聞き取ってみれば、どうもこの村に新しい道が整備されるらしい。それまで険しい森だった場所を切り開き、向こう側の町と繋ぐ。協力してくれた者には報酬を渡す。金の話が出た途端、村人はこぞって手を挙げ、大名に詰寄った。厭世ゆえに石之丞は気づいていなかったが、この村は貧しかったのだ。
延びてくる腕に引っ張られ、もみくちゃにされている家臣の服の裾には家紋が縫い付けてあった。あの武士が纏っていた衣の家紋と同じだった。それを確認すると、石之丞は村人に何も言わず、ひとり静かに身をひいて、元来た道を歩き帰った。
ひと月が経ったのち、石之丞は河原へと足を運んだ。石の山は依然と変わらぬ形でそこにあった。周りには何もいなかった。武士も、屍も、鬼もいない。変わったことといえばひとつある。遊泳する川魚の数が、以前よりも遥かに増えていた。とても釣る気にはなれなかった。石之丞は水を汲み、帰り際にまたひとつ石を積んだ。
鎮座した石を見ていると、胸の内が熱くなった。もはやその石山は、石之丞の一人の楽しみではなくなっていた。
それは武士の命を救った。その武士は都で大勢の命を奪った。城主は変わり、村が豊かになりつつある。皆はそれを喜んでいる。変わりない石之丞でさえ、その喜びの余波を肌で感じている。だが、石之丞は素直には喜べなかった。遠い身分となった武士をただ哀れに思った。
石山は無意味ではなくなっていた。それは武士と出会った思い出の跡であり、失われた人々への鎮魂の碑であり、この場所に生きる自分の証でもあった。
もしも武士がただ一度でも、この石山を顧みるときがあれば良い。石之丞はそれだけを望み、なるべく高く積もうと誓った。
それから何年も経った。
縁が重なり、石之丞にも子ができた。彼はその子を河原に誘い、石を積む趣味を教えた。興味を示した子を見つめ、石積みの約束をした。理由は明かさなかったが、その子は忠実に約束を履行した。石之丞亡き後も、石を積む慣習は受け継がれた。
城主が変わり、国が揺るがされた。城は機能を役所に移し、多くの変革が起き、道がアスファルトに固められた。時代は明らかにうねり、変わりつつあった。
それでもなおも、石はまだ河原にあった。数多の年月が流れ、もはや積む者さえもいなくなっても、石は動かずにそこにあった。それはもはや石というものではなく、山と形容されるものでもなく、踏み固められる地形だった。台地だ。そこでは、今日もひっそりと人々が集まっている。柔らかい草木が生い茂り、川のせせらぎばかりが聞こえるそこは、物事に集中したり気持ちを落ち着けたりするのにとても良い場所だと、時折噂になっている。