85.伸びる手
前回の反動で今回は短いでございます。
姿勢を低くして走る。前方から飛来する小石は、パテレスの軌道を追って次々と迫ってくる。彼の方を見ると、尻尾を翻して空中の何かを蹴っている。
数歩走る間にその様子を観察してそれが何か気がついた。目標――ロクは大きく足を上げ、地面に叩きつけることでドンッと地面を揺らした。その反動で飛び上がった周囲の瓦礫、小石を次々と蹴ってパテレスの方に飛ばしている。初めはきちんと手で拾っていたというのに、なんという横暴な横着だろう。
小石砲撃の三波目がくる前に、パテレスは口端を上げて白衣の袖から指先を出した。人差し指の第一関節を数回繰り返し曲げる。もう数十メートル先まで近づいたロクの背後の人一人の身長分はある瓦礫を音もなく浮き上がらせた。安定したところで、ロクの後頭部目掛けて高速で空中を滑らせる。
独愚が城から盗み出した彼らの資料には一通り目を通した。ロクは覚醒を経ており、今も既に覚醒した状態だ。獣の耳と尻尾で一目でわかる。
覚醒した状態は、本人の保有魔力によって体が強度も破壊力も大幅に補強される場合がある。ロクの資料にはなぜか魔力値が記されていなかったが、彼の体から漏れ出す魔力量と、ありえない身体能力を見るに、普通の妖怪よりも多いと見る方がいいだろう。
それを今確かめる。岩が直撃すれば弱い妖怪はもちろん昏倒する。それを最低基準としてどれほどの強度があるのか見、そして魔力量を予測する。しかし、あと数センチで命中といったところでロクがグルンと後ろを向いた。虫を叩き払うような軽さで拳を突き出し、岩を砕いた。
おや、とパテレスは首を傾げた。まずいなあとは思ったが、恐怖は感じない。むしろ興味が湧いてきた。
この強度、ロクはもはや「覚醒した人間」ではない。普通に「強固な怪異」だ。
砕けた岩――数十個の礫の群を一つ一つ操って自然に吹き飛ばされるように見せかける。ロクの死角に入った後は、軌道を直角に曲げて左右前後から挟むように礫で奇襲をかける。サイコキネシス――の、ような物体浮遊の精度だったらパテレスは誰にも負けない自信がある。
ロクは死角からの攻撃にも敏感に反応した。羽織っていた短いローブを巻き込んでアームカバーのようにしながら腕を振る。右からの礫はその腕で払い落とし、左からの礫は身をわずかにひねることで交わそうとする動き。パテレスはそれを見切る。回避され、払われる前に礫の軌道を直角、ジグザグに曲げて全ての礫にロクの腕を回避させた。ロクの眼球を抉るつもりで押し込むように礫を前進させる。
しかし、突然進行方向にロクの姿が消えた。脱力してカクンと膝を崩し直撃の寸前で重力に身を委ねて礫を回避したのだ。姿勢を低く地面に手をついたロクは逆に全身に力を込め、獣のようにパテレスに飛びかかってきた。
既に走ってきたことでパテレスとロクの間の距離は数メートルしかなく、飛びかかってきたロクの動きはまさに目にも止まらない。しかし、冷静にロクの動きを呼んだパテレスは、二本の指をロクの目が来るだろう位置に突きだした。
(目ばっかか)
予測力ではパテレスの方が上回っていても、反射神経はロクには敵わないらしい。ロクは頭をひいたりすることなく、逆にパテレスの指へと頭を突き出した。頭を横に数センチずらして。
砕ける音がした。目から外されてロクの額に当たった人差し指と中指が折れた。
パテレスは先ほど回避された礫群を自分たちの方向へ引き寄せ、一部はロクの背中へ叩き込み、残りの一部は地面ギリギリの足元へ滑り込ませ、ぴょんと小さく跳躍してそれに飛び乗って後退することでロクから距離をとった。
(だれだこいつ)
ゆうゆうと礫を回避したロクが、ふらりと体勢を整えながらそんなことを頭に思い浮かべた。
「驚いたな、相手の素性も知らずに戦っていたのか!」
パテレスは折れた指にも構わず笑った。ロクの表情がピクッと動いた。自分の思考が読まれていることに気がついたようだ。
(ぷ、ぱ……ぱれ)
目の前の女の名前を思い出そうとしているのか、ロクの思考が多くなる。この分だとすぐに思い出すだろう――
「パスカル」
「哲学者じゃないんだな~~~」
残念な間違いをしたロクに笑いかけながら、パテレスは空中移動していた礫の上から飛び降りた。キラッと効果音がつきそうなポーズ――人差し指を立てて頬を突くように自分を指す。
「パテレスだ、ぱてれす!!」
「あぁ」
親切に教えてやると、ロクは息を吐き出すついでのような反応をした。それでもロクの頭の中はカラッとした静寂に包まれており、思考らしい思考が読み取れない。パテレスは一層興味を惹かれ、前のめりになって話を続けた。
「お前には聞きたいことがあるんだ!」
「聞きたいことがあるのに戦ってるのか」
「おかしなことを言うなあ。お前がナイフなんか投げっから戦わないといけなくなったんじゃあないかあ?」
パテレスはそう言っておちゃらけ、地面の礫を浮かせて掌の上に乗せた。軽く二、三回手の上で弾ませる。パテレスの話を聞いたロクは、何かおかしいと言うように無表情で首を傾げた。
「殺気がしたから投げた。結局お前が悪い」
「さっき」
パテレスは手の上の礫を握りしめた。ぐっと力を込めると、砂の城を崩すように簡単に砕けた。
「……殺気、殺気か」
うん、うん、とパテレスは何度か頷いた。
ロクのいうことが本当だというのなら――殺気が出たと言うことは、パテレスは怒っていたのか。ではパテレスは何に怒っていたのか。いくつか思い当たる。たった今さっき指を折られたこと。試練を自分の思い描くように進ませなかったこと。頭から飛び出たアホ毛がゆらゆら揺れて目障りなこと。
しかし、それらはきっと違う。決定的なものがあるのはわかっている。
「ワタシは、お前に聞きたいことがあるといったな?」
「あー」
パテレスは独愚の調査でロクのことを調べた。ロクのことを調べる前には、烏丸のことを調べていた。烏丸がどうして捕まったのか。烏丸がどうして負けたのか――
「烏丸のことは、どうやって倒したんだ?」
ロクが反対側に首を傾けた。こいつは人の名前を覚えるのが苦手らしい。いや、名前どころか、出会い、戦った者の顔すら覚えていられないのか。
「烏丸。烏間優太。天狗の属性もちで、黒い羽、赤い仮面、ツナギ、学生服、ビビリ……こんな感じのやつだ。お前は絶対にあったことがあるはずだ」
捲し立てる。テレパシーに集中し、ロクの数少ない思考を漏らさないようにする。
パテレスの説明を受けたロクの目蓋が少しずつ持ち上がった。今まで、数ミリ動けば閉じてしまいそうなほどだったのが、半目ほどまで開く。
(ビビリ……)
ロクの思考が動いた、と感知した間も無く、パテレスは一瞬前に飛び乗っていた礫を高速移動させ、ロクに飛びかかった。
パテレスは人の思考を研究してきた。だからこそ、人の心の隙がわかる。危険察知能力に長けた野良猫だろうと、反応できないタイミングがあることを知っている。一気に距離を詰めたところで手を伸ばし、まだ反応できずにパテレスが今さっきまでいた場所を見ているロクの顔に手を伸ばし、両手で包み込んだ。テレパシーをさらに強く発動させる。
テレパシーは基本的には、心の声しか聞こえない。しかし、直に対象に触ればパテレスに流れ込んでくるのは思考の全てだ。思い描いたイメージまで聴こえ、視ることができる。そして、そのイメージには思い出した記憶も含まれる。
流れ込んでくる短くもありながら膨大な情報量を持ったロクの記憶を仕分ける。今思い出してくれていたおかげですぐに烏丸の記憶は見つけられた。
「――……」
烏丸関係の記憶を全て見尽くしたパテレスは、少しの間フリーズした。反応の追いついたロクの手が横から飛んできた。頬を触るパテレスの手を狙っている。パテレスは一瞬遅れて礫を利用して飛び退くが、寸前に軽い衝撃を受けた。一拍遅れて痛みと液体が垂れるような感覚が右手に訪れる。衝撃のせいで足場にしていた礫が崩れてしまった。
見ると、先程折られた右手がさらにざっくりと切れていた。ロクを見ると、手には月明かりを反射するナイフが握られていた。
似たものを見たことがある、というより、あのナイフはパテレスが用意したものだ。第二の試練でゴーレムを倒すようにロクたちに与えたもの。しかしそれは、先ほど交戦を開始した際にロクは既にパテレスに向かって投げつけ、ロクの手元にはもうないはずだ。
瞬きをする間の時間で考え、見て、わかった。今ロクが持っているナイフは先ほど投げつけられたナイフとは微妙に装飾が違った。確かこれはパテレスがコカに与えた方のナイフだ。
いったいどこに隠し持っていたのやら。ロクは自分のナイフだけでなく、他人のナイフにまで手が伸びていたようだ。
――いやいや。
パテレスはそこまで考えて、自分の考えの前提がおかしいことに気がついた。
ロクはそもそも第二の試練に参加していない。ずっと別室で犬に埋もれ、気絶しながらゲロを垂れ流していたはずだ。仲間に発見された後も、ロクがナイフのある部屋に戻ってはいなかったはず。だとしたら、ナイフを持ち出せるのは一人だ。
サホは自分のナイフを一本だけ持っていっていたようだから、残るのはミツキとコカ。パテレスは試練の間ずっとミツキの言動思考に集中していたため、ナイフを持ち出す動きがなかったのは知っている。
「……アマサメコカ」
ただ元気が有り余っているだけの無害な人間だと思っていたが、どうやら全く手癖の悪い――そして、主人に忠実な小娘だったらしい。
瞬きが終わる。時間が動き出す。
パテレスの口からコカの名前が出たからか、ロクの表情に動きがあった。するりとローブの下のウェストバックからさらにもう一本のナイフを取り出し、パテレスに斬りかかる。パテレスは小さくなった礫はやめ、遺跡の壁にかかった火の灯っていない松明を飛来させた。
松明には壁にかけるための金属が付属していた。パテレスに当たる直前のロクのナイフの刃先にその金属部が直撃し、ナイフが持ち手の根本から折れた。ナイフはもう一本ある。ロクは折られた右手のナイフを捨て、左手のナイフを振るう。パテレスはそれに対抗して思い切り切られた腕を振るった。
「ッ……!」
ピチャッと小さな水音でロクの目にパテレスの手から滴った血液がロクの顔に命中した。少し血が目に入ったのを見とめたのと同時に、パテレスは周囲の操れる瓦礫を全て浮かせた。瓦礫どうしを打ち合わせて先の鋭いものを数個作りながらそれら全てをロクの右腕に突進させた。その素早い動きのせいで周囲に突風が吹く。
烏丸は、ロクに凍らされた翼を砕かれて片翼を失ったようだ。読んだロクの記憶の中で、そのシーンが鮮明に思い浮かべられていた。それならば、ロクにもそれと同じ運命を辿ってもらおう。
復讐などではない。それは今のパテレスらしくない。しかし、確かにパテレスの中では烏丸が倒されたことに対して不満を持っている部分があるようだ。それを取り払うために、ロクには片腕を失ってもらう。
ロクの視力はまだ回復していない。左手のナイフはパテレスが回避したことで空を掻いた。
死にはしない。元より殺すつもりもない。たった一本の腕を失うだけだ。
パテレスはガスマスクの下で笑い――直後、くんっと頭が引っ張られ、前のめりによろめいた。たたらを踏んでロクの前に出る。
目だけを動かして頭が引っ張られた方向を見た。吊り橋のようにパテレスのツインテールがロクに向かって伸びている。片側はパテレスの頭に繋がり、もう片方の房の先を握られていた。
ロクの手ではない。三本目の手――ロクが腰に下げているウェストバックの中から人間の手が肘辺りまで飛び出し、パテレスのツインテールの片方を掴み、引いていた。
本来なら届く距離ではない。しかし、今し方パテレスが瓦礫を高速で操ったせいで起こった突風が、パテレスのツインテールをロクがいる方向へなびかせていたため、たまたまその三本目の手へ届いた――ようだ。
視線を動かして見たロクは、血に濡れた目をかすかに開いて、冷ややかな視線をパテレスに向けていた。
――大神の忠実な目か。
パテレスは、浮かべていた微笑みを、口端を裂けるほどに引き上げて笑った。
鋭い瓦礫が、パテレスの背中へ辿りつく。