10.家庭科室
暗闇の視界は体に強い衝撃を受けてなお続いた。
「ぐッ……せっま……!」
ロクは体を四方から圧迫する壁に窮屈そうにうめいた。
暗闇でロクは自身の体すら見えず状況が掴めないが、ただ、このべらぼうに狭い空間で尻もちをつくようにくの字に折り畳まれた限りなく無理な体制だということはわかった。
体制を直せないかともがいてみると足が壁に当たり、グワングワンと日常で聞き覚えのある音が響く。
なんとか更に体を捻ると、脚の隙間から暗闇の中に一本の線のように細く微かな光が差し込んでいることに気づいた。
「オラァ゛ッ!」
その壁をロクは持ち前の脚力を使って容赦なく蹴り飛ばした。
体を圧迫していた壁は空を切って吹き飛び、ロクはそのまま外へと転がり出た。
「ッ……ここは……家庭科室か」
サッと起き上がって周囲を見回し、窓際に立てかけられて見覚えのある干されたまな板や食器などを見て、ようやく現在地を把握した。
振り返って見ると、扉がロクの蹴りのせいで大破した掃除ロッカーがあった。この中に先程まで閉じ込められていたらしい。
さっきロクが転がりでたために掃除用具が一緒に飛び出て散らばってしまっていた。
つまりロクは、あの無限回廊からこのロッカーの中に飛ばされたようだ。
「な? 言ったろ、手っ取り早い手段だって!」
「騙したなこの化け犬がァア!!」
悪気も一切無くフラリとそばに現れたコンにロクは殺さんとする勢いで飛びかかった。
「何でここにいんだよ!」
「鎖の制限があるんだから当たり前だろ。それに騙して無いだろ? ループを抜け出せたプラス、コカの後を追える手っ取り早い手段だ!」
「うるせえまたチョキで殴るぞ!」
「目潰ししてる場合じゃないぞ。ほれ後ろ」
「またかこの野ろ……この臭い……は……」
また騙されるのかとスルーする気だったが、辺りに漂う鼻腔を刺されるような腐敗臭に気づいた。
キツイ刺激のある臭気は言いようのない禍々しい空気となって辺りにこびり付くように漂っている。
ロクは顔を引き攣らせて振り返った。
すっかり忘れていた、今日一番に向かった怪異を思い出す。
腐敗臭の元──机に取り付けられている水道からぼたりぼたりとドス黒い泥が垂れている。
シンクに落ち溜まった泥はボコボコと沸騰するように腐敗臭をさらに撒き散らす泡を吐き出しながら膨張し、その形をなしていく。
飛び出す白い肋骨、肉が腐り落ちた細い腕、握られた光る包丁。
ここ──家庭科室は第一の怪異、切り裂き女の出現場所である。
シンクの中に収まりきれないほどに膨張した切り裂き女は溢れるように、その巨体をワックスの効いた床へ落とした。低い地響きが静寂に嫌に響く。
「中ボス感ヤバいなあ」
「……とりあえずぶっ殺す!」
ロクは床に散らばっていた掃除用具から長箒を手に取ると、切り裂き女に向かって構えた。
「……あっ」
そんな矢先、コンが突然再び姿を消した。
「なんだ、一人だけ逃げんなよ!」
『逃げてない! アレだ、あいつの体の左の脇腹の辺り見てみろ』
「あれに脇腹あるのかよ…………………………うわっ」
切り裂き女の脇腹──と言えるのか分からないが、腐った左腕の下辺りを見ると、見覚えのある白い毛玉が泥の体に埋れていた。
白い白髪と白い肌、顔に掛けたメガネ。気を失っているが、間違えようもなく数分前まで共に学校を探索していたミツキだった。
「……アイツかよ」
『あのメガネ取り込まれてるけど、目を覚めて見られたら困るからオレは消えておくぞ』
「結局何もしなのかよ!」
ロクは舌打ちをすると、箒を構え直して切り裂き女に肉迫した。
切り裂き女はロクに興味を持っていないようでただのろい動きで剥き出した歯をこちらに向けてくるだけで近づくのは容易だった。
ロクは埋もれていたミツキの根元の泥あたりに箒を叩きつけてミツキを取り巻く泥を衝撃で弾き飛ばすと、髪の毛を掴んで引き抜く勢いで投げ飛ばした。
「そおい」
「コボッッ!?」
床に投げ捨てられたミツキは咳き込んで泥を吐き出した。目を覚ましたらしい。
「な、ゲホッ、ここは……ろ、ロクくん! どうなって……」
「お前……いつの間にいなくなってたんだよ」
「キミらがボクが連れ去られていくのに気づかなかったんじゃんッ!」
完全蘇生したミツキが怒鳴るが、ロクは何処吹く風だ。
ぐぁあぁああああぁぁ……ッ!!
突然今までロクに興味を示さなかった切り裂き女が包丁を持った腕を振り回して咆哮を上げだした。驚いたミツキが飛び上がって後ずさる。
「うわあ!! か、家庭科室のヤツだあ!?」
「気づいてなかったんか。お前アイツに取り込まれてたぞ」
「ひッ!? 嘘でしょ……あっ! そ、そうだ、コカちゃんは? 一緒にいないけどまさかはぐれたんじゃ……」
「……あ、そうか、お前もボッシュートされてアイツに取れこまれたんだな」
「話聞いてる!? ちょ……やばいよ、あの怪物なんか包丁振り回して怒ってるよ!?」
何故か激怒している切り裂き女は教卓側の水道のそばからロクたちのいる後ろまでジリジリと巨体を揺らして迫ってくる。
「ボッシュートされるってあんな感じなんだな。初めてひ〇し君人形の気分を味わったぞ」
「意味がわからないッ!! あんな恐怖のどろたぼうみたいなのを目の前にしてなんでそんな呑気なの!? も、もうすぐそばまで迫って……」
泥を床に擦りつけ、そして心做しか膨張しながら短い腕をミツキの方へゆらりと伸ばして捕まえようとしてくる切り裂き女に一切動じず、我が道をゆくロクのメンタルが恐ろしい。
「あれのどこが怖いんだよ。ただ目玉が五つあって、ドロドロした塊で、肋骨みたいな骨が突き出してて……よく見るとキモいな」
「ね!? そうでしょ!?」
「ミツキお前……ヒトを見た目で判断したらダメだろ」
「ヒトじゃないじゃんヒトじゃないじゃん!!」
ミツキの叫びに反応し、切り裂き女の手はもう目と鼻の先へと迫りきった。
瞬間、ロクの目が鋭く見据えられ、手にしていた長箒を刀の要領で振りかぶった。
「フッ……ソニックブームッ!」
「箒の斬撃!!??」
目に止まらぬ早さで振り切った刀(※箒)は絶対に刃渡りが届かない切り裂き女の全身を衝撃波で真っ二つに切り裂いた。一拍後、ふたつになった巨体が爆散して後方へと泥が飛散る。
一拍後、宙を舞った包丁がカランとかわいた音を立てて床に落ちた。
切り裂き女の野太い断末魔が教室中に響き渡る様をミツキは頬を硬直させて見届けた。
「なに!? 魔法使えるのキミ!? ねえ、使えるの!?」
「使えるけど今のは使ってない」
「どういうことなの!?」
コンとの関係どころか存在すら伝えていないので、『ここ数日でお供妖怪(疫病神)が憑いて魔法が使えるようになりました!』なんてことは一切コカもミツキ知らない。
「た、確かに出会った頃から鋼を素手で割ったり、バイクを片手で振り回したり、車に轢かれても風邪ひいただけで済んだりしてたけど……まさかロクくん生まれつき悪魔の子だったりしない?」
「それは俺自身疑ったことはある」
そもそも、コンに出会わなかったとしても魔法紛いのことは一通り出来ていたために特に変わりはないらしい。
キレツの入った長箒をぶらりと下げたロクは爆散した泥を見渡して首を傾げる。
「そういや……コカが出てこなかったな」
「え? どういうこと?」
ミツキと同様にコカも切り裂き女に取り込まれているものだと思っていたが見た所違ったらしい。同じ無限回廊から脱出したとて必ずしも出口も同じだとは限らないようだ。
「……え? まさか、コカちゃんも居るかもって思っててアイツの事爆散させたの?」
ミツキが青い顔をしてロクを振り返った。
「おう」
「『おう』じゃないッ! もし本当にコカちゃんも取り込まれてたらどうする気だったんだよ!? 爆散だよ!?」
「でも結局はいなかっただろ」
基本ステータスを攻撃力に全振りしたロクにたらればは通じなかった。どこ吹く風のロクに呆れてミツキは目頭を摘む。
「ま、まあ……この泥の奴はちゃんと倒したし、もう大丈夫だよね。早くコカちゃんを探しに……」
「あ」
「……え? な、なに?」
「お前今フラグを……」
ロクがボソッと呟いた直後、家庭科室に飛び散っていた泥が気味の悪い水音を立てて蠢き始めた。
磁力で吸い寄せられるように教室の中心──包丁へと無数の飛沫たちが集まり、混ざり合い、歪な形を形成していく。
「あ、あれぇ? もしかして復活しちゃう感じですか?」
「フラグなんて立てるからだろ。お前は俺の脅威のバッドフラグ回収率を忘れたのか」
「忘れてたごめん!!」
計り知れないロクの凶運ぶりが炸裂したおかげで(?)蘇った切り裂き女の体内から吐き出されるようにして、一振りの包丁を握った細腕が突き出てきた。
「また来るよアイツ! どうすんのさ、ボクは何も出来ないぞ!」
「作戦を決めよう。『ガンガンいこうぜ』or『まよわず すすめ』」
「『いのちだいじに』!! てかなんで〇Qとポ〇ダン混ざって……ッうわぁあ!!」
完全に蘇生した切り裂き女は、一瞬肥大化したかと思うと大口を開けて明らかに触っては行けない類の色をした泥を勢いよく飛ばしてきた。
ミツキの頭に命中しかけるが、ロクがミツキのジャケットの襟を引いて、紙一重で回避した。
ロクたちからは外れて壁やら床やらにへばりついた泥はボコボコと膨れ上がり、小さな第二第三の切り裂き女の姿になった。
「あのクソエイムにいちいち叫ぶなよ。もうこの腐った臭いも耐えきれなくなってきたし、お前を生贄にここから逃走するぞ」
「止めてよ!ボクまだまだ命を大切にして、これからも何人もの女の子を幸せにするんだい!!」
「うるさい」
「グハァッ」
ドスッとミツキの鳩尾にロクの肘が食い込む。肺の中の空気を吐き出してミツキが蹲ると、周囲に湧いたミニ切り裂き女たちがわらわらとそこに群がった。
不思議なことに、ロクには一切見向きもしない。
「げふッ……ちょ、本当に生贄にする気……うわっ泥が!」
「そうだな……ッオラァ!」
ロクは冷静に箒を構えると、躊躇い無しにミツキを巻き込みながらミニ切り裂き女らを薙ぎ払った。
「いッたぁあッ!!!」
箒の柄がクリーンヒットした切り裂き女は先程同様に爆散した。が、しかし、ほんの数秒で泥が集まって再生すると再びミツキへ群がる。
「泥は物理攻撃効かねえのか……どうするミツキ」
「その確認のためにボクごと殴ったの!? ッその前に助けて!!!」
ズルズルと本体の切り裂き女へと引きずられていくミツキが叫ぶ。切り裂き女はまたミツキを取り込もうとしているらしい。
ミニ切り裂き女を剥がそうとしてミツキは上半身を起こして振り返ると、視界に入った切り裂き女本体を見て、先程の出来事を思い出した。
飛び散った泥が磁石に吸い付く砂鉄のように包丁へ集まって行く様子は明らかに何かあるはずだ。それに気づいたミツキは切り裂き女に上半身まで取り込まれる寸前でロクに向かって叫んだ。
「ろ、ロクくん! 包丁狙って!!」
「了解」
それまでボケっとミツキが切り裂き女に取り込まれていく様子を鼻をつまんで眺めていたロクは、その一声でスクッと立ち上がり掃除用具ロッカーからプラスチックのちりとりを手に取った。
そして、大きく振りかぶり縦に腕を振り下ろすと、ちりとりは手裏剣の如く恐ろしい高速回転をして飛んで行く。一瞬で直線上を飛んで行き、切り裂き女の細腕に握られた包丁を見事に弾き飛ばした。
その刹那ロクは、その場に蔓延っていた空気がプツリと切れた様な感覚を覚えた。
直後、それまで歪に形を保っていた切り裂き女の泥の体が雪崩のようにグシャリと崩れた。腐った腕も白い歯も自身の泥の中に飲み込まれて消えていった。
床を広がる泥は時々ピクピクと痙攣し、直ぐに再生する様子はない。
もちろん切り裂き女のすぐ下にいたミツキも、泥の雪崩に巻き込まれてモロに泥を被った。
溺れかけるミツキをスルーして、ロクは弾き飛ばした包丁へ歩み寄る。
刃先が壁に突き刺さっていた包丁を引き抜く。同時に壁に穴が空いてしまったが、丁度そこが掲示板になっていて画鋲を刺した跡と一緒になって目立っていなかったので気にすることは無いだろう。
「ぎゃああ!? せ、折角泥が乾きかけた所だったのに!」
「そんな騒がなくても……うッ、臭いが……おい近寄るな泥田坊」
「キミのせいだろ! 本当に酷いやつだな! 真剣に友達を辞めるか考えるレベルだよ!!」
「……俺ら友達だっけ」
「嘘でしょ!?」
「というか、二回も助けてやっただろ。文句言うな」
絶望した顔をするミツキを尻目に、ロクは切り裂き女の包丁を眺めた。