君のいいところ
ガシャーン!
深夜一時に皿の割れる音がした。ドタドタと人間が暴れた音がしたかと思うと、内容が聞き取れないほどの金切り声や怒鳴り声が深夜の住宅街に響いた。
最後にバンっ! と勢いよく扉が叩きつけるように閉められた。ガンガンガンとよく響く階段を降りていく足音。そして沈黙が訪れる。
「…………」
「…………」
小さな灯りがともった。直径約9mmの炎が、笹峰の手元を優しく照らす。星空に届く前に消えてしまう煙を、衣世はただなんとなく眺めていた。
「先生って、タバコ吸うんですね」
「たまーにね」
「先生ってタバコ吸っていいんですか?」
「いいんだよ。だって人間だもん。タバコの一本や二本くらい吸うさね」
「ふーん」
「中学生はもう寝ないといけない時間だね。明日学校だぞ」
笹峰がタバコの火を消した。
「俺もそろそろ寝ないといけない。帰りなさい」
「先生……」
「んー?」
「自分の居場所がない人は、どうやって生きていけばいいの?」
笹峰は頭をボリボリとかいて、ポケットから煙草をもう一本取り出した。ライターで火をつけて、一息ついた。
「……塩原が自分のことをちゃんと見つめられるようになれば、自分の居場所にもきっと気づけるよ」
「……なにそれ意味わかんないです」
曖昧で難しい表現ではぐらかされた気がする。
「……じゃあ、君のいいところをなんでもいいから言ってごらん」
「……そんなものないよ。だから私には居場所がない。必要のない人間だもん」
「自分がいらないと思っているものを、他人には必要としてほしいって、そんな話はないよね」
「そう……ですよね……。みんな……困りますよね……」
笹峰が衣世の頭を優しく撫でた。
「あくまでその評価は、お前が自分に下した評価なだけだってことは忘れるなよ」
「え……」
「俺はお前のこと、必要だって思ってる」
衣世が見上げた視線の先には、いつもの笑顔はなく、ドキッとしてしまうような真剣な表情をした笹峰がいた。
「今日仲良くなった小西だって、お前のことを必要だって思ってるはずだ。お前は自分自身の評価をきっちりとしないといけない。なにもいいところがないって全部のことから目を反らすな。それは塩原自身ができるようにならないといけないことだよ」
「……難しいね。ごめんなさい。バカだから……。先生の難しい話をちゃんと理解出来てない」
「一回聞いただけで理解出来るようなら、今このことで悩んだりしてないだろ。これは宿題。期限はなし。誰かの力を借りたっていい。必ず、この問題に対する自分の解答を見つけなさい。そのときは、きっと居場所なんてたくさん出来てるさ」
「……でも、今日帰る場所がないよ」
「お母さんとケンカしたんだろ?」
「……」
「大丈夫だ。きっと心配してる。……えっと、もしかして殴られたりは……してないよね?」
「うん、そういうのじゃないけど。ただ、ちょっとここ最近ケンカすることが多くてさ」
「……うん」
「先生の家行ってもいいかな?」
「……ダメだ」
「けち」
「なんとでもいいなさいよ。でも、君はお母さんを許してあげれるだろ? お母さんだって、初めからお母さんだったわけじゃない。上手く娘と接することができなかったり、失敗してしまうことだって、どんな人にもあるよ」
あぁ、そっか。親も完璧ではないのか……。間違ってしまうことだってあるのか……。
「……先生もいつも失敗してるもんね。よく他の先生に怒られてるところ見るってみんな言ってるよ」
「そう先生も……、ってそこは内緒だ」
体の内側からクスクスと笑いが起こる。さっきまで凍り付いていた衣世の胸は、いつの間にか温かくなっていた。
笹峰は煙草の火を消した。いつもの優しい微笑みを浮かべる。
「お前のいいところは、優しいところだよ。自分で気づいてないみたいだけど。そういうところどんどん見つけていくんだよ」
「……優しい……かなぁ?」
「俺から見たらね、はい。じゃあ夜の特別授業終わり。これ以上は有料だから。寝るぞ。明日遅刻すんなよ」
「分かってるよ。先生もね」
「先生は大人だから寝坊なんてしないのだ」
ゲームやったり、生徒の前で煙草吸ったり、ササミンとかいう意味わからないあだ名で呼ばれたり、他の先生にいつも怒られてるのに……。大人……。
「なんだよその目は」
「別になんでもないです。じゃ、先生。おやすみなさい」
「はい、おやすみ」
あ、これはちゃんと挨拶出来るんだ。
*
ドタドタドタ! バン! ガンガンガンガンガン!
午前8時15分。隣同士のアパートから2人が慌てて飛び出してくる。
「あっ、お、おはよ、うございます」
「え、あぁ、おはよう。おま、え。急がないと遅刻だぞ」
「先生、こそ、まずいんじゃないです、か? また他の先生に怒られますよ?」
「え、あ、ああ。でも、先生はなんとか間に合う計算だ。俺は自転車通勤だからな。じゃな! 頑張れよ!」
「えっ! あ! ずっ! そんなのズルいズルい!」
「だーから、昨日もっと早く寝ろって言ったんだ」
笹峰がボロい自転車にまたがった。グッ、とペダルに力を込める。しかし、なかなか進まない。というより普段よりも重たい。ちょうど一人分なにかが荷台に乗っているような。
「……なにやってんだオイ」
後ろを振り返ると、衣世が荷台に跨っていた。
「先生、お願いします。今までのことは通報しませんから」
「通報されることをした覚えはねぇ! 降りろ! まーた教頭の小言を聞かされなきゃいけなくなるだろうが」
「進んでくれるまで、ここを離れません」
ギュッと腰辺りに手を回す。衣世は笹峰の体を離れないようにがっちりと組んだ。
「おま……。今学期の国語の成績覚えてろよ……」
うおおおおお! と叫びながら漕いでいるわりに、なかなか前に進まない。衣世は振り落とされないように、笹峰の背中に体を預けた。
大人の男の人の背中って、案外大きいんだ。
他の生徒に見つからないように、中道を選んでグングン進んでいく。
「お……おりて……、ここからだったら走って間に合うでしょ? 誰かに見つかると面倒くさいじゃん」
笹峰が肩で息をしながらなんとか言葉を捻り出した。
「わかった。先生ありがとう」
「どう……いたし……まして」
手の平をヒラヒラさせて、さっさと行け。の合図を送る。笹峰は苦しそうだった。
「先生……?」
「ん……?」
「……国語の成績下げないでね」
「わーった。わーったから、はよ行け。俺の頑張りを無駄にしないでくれ」
衣世はそこから全力で走り、なんとか笹峰の頑張りを無駄にせずに済んだ。笹峰もチャイムと同時に到着した。その様子を運が悪いことに教頭に見つかってしまい、ギリギリ間に合ったのに結局小言をもらってしまったと、あとで衣世は愚痴を聞かされた。
*
「ササミンって彼女とかいんのかなー」
「えー、いないっしょ。絶対モテないってー」
「いや、案外ああいう頼りない男を好きになっちゃう女って多いよ」
「うそー、私はパスだなー。友達としてならアリだけど」
「私もパスー」
「私はちょっとアリ」
衣世と由香理の隣で、女子グループが笹峰の彼女の有無について話していた。
「あっ、そういえば塩原さんって、ササミンと何気に仲良くない?」
「そういえばそうかもー。ねーねー。塩原さんどうなの?」
突然話題をふられた衣世は若干戸惑った。しかし、衣世にとって笹峰はその他大勢の先生たちとなにも変わらない。どうなの? と聞かれても、どうもこうもないと返事をするしかなかった。
「でも、塩原さんってササミンのお気に入りだよね」
「え……、ええ? そうかなぁ。みんなと同じじゃない?」
「いや、絶対お気に入りだって」
キャッキャっと盛り上がっている中、教室の入り口から声がした。
「おーい、塩原ー。ちょっとー」
噂をすればである。笹峰は、入り口のところから塩原を手招きしている。
「キャ〜、塩原さんって旦那さんに呼ばれてるよ〜」
「ちょっ、バカ。そ、そんなんじゃないって」
ちくしょー。なんなんだよこの先生は。いつも一人でニコニコしやがって。くそー。あんなこと言われた直後だから、普段意識してないのに、なんか意識してしまうじゃんか。
……もしかして今、私、顔あかい?
「今日って塩原日直だったよな。頼みがあるんだけど……って、オーイ。聞いてますかね?」
「……き、聞いてます」
衣世はそっぽを向いて返事をした。
「人の話を聞くときは、その人の方向を見ましょうね〜」
「……」
グイン、と衣世の顔をほぼ無理やり自分の方へ向かせた。
衣世の表情を見て、笹峰は一瞬驚いた顔をした。
「……どうした? 風邪でもひいたか? 顔あかいぞ?」
「……あ、赤くない……よ?」
ドキドキドキドキ。
なぜか、心臓の音が鳴る。聞こえてしまいそうで恥ずかしかった。コイツの顔をまともに見れない。なんで? 別にこいつのこと好きでもなんでもないのに。
「ちょっと、悪い。じっとしてろよ」
「…………ッ!!」
笹峰は衣世の前髪をあげて、もう片方の手で額に手をあてた。
心臓の音はさっきよりも大きくなる。もう胸から飛び出してしまいそうだった。体中の穴から汗が噴き出る。
……そういえば匂い大丈夫かな? 今日の朝走ってきたから汗臭いかも知れない。こんなことなら制汗剤ちゃんと用意しておくべきだった。誰かに借りてでも、使っておくべきだった。
「うーん、熱はなさそうだな。顔真っ赤だけど。どったの? 好きな男子と話でもしてたのかい?」
「う、うるさい。ばーか!」
「えぇっ……」
衣世は思わず出た暴言に自分でもびっくりした。それ以上に目の前の男も、驚いて目を丸くしていた。鳩みたいな顔をしている。
「あっ、せ、先生が悪いんだからね。私、謝らないからね!」
そう捨て台詞を吐くと、衣世は廊下を走って逃げていった。
なんなんだろうかあの子は。あ、ああ。これが思春期って奴か。教師になって初めて見た。仕方ない奴だな〜。どれだけ逃げたって、アイツの席教卓の前で、嫌でも俺の前に毎日現れないといけないのにな。
「バカな奴……」