アスパラちゃん
衣世の背中に強い衝撃が走った。
その衝撃の正体はすぐに分かった。衣世を追い抜いていくいくつもの笑い声に聞き覚えがあったからだ。
背中を押されてバランスを崩した衣世はその場で転んでしまった。予期せぬ出来事だったけど、なんとか両手を地面に着くことが出来たので、顔に怪我を負うことはなかった。
「ボサッと歩いてんじゃねーよ。アスパラ」
アスパラとは野菜の名前だ。スーパーに売っているあの細くて長い緑色の野菜だ。しかし、この場ではその野菜のことを指す単語ではなかった。アスパラとは衣世のあだ名だ。
衣世をアスパラ呼ばわりした五人組のクラスの女子は、楽しそうな笑い声をあげて、そのまま歩いていく。これ以上追撃されないように、衣世は黙って動かないようにした。極力、反感を買ってしまうような行動は避けていた。
彼女たちの姿が見えなくなったことを確認してから、衣世はゆっくりと立ち上がった。地面についた掌には小さな砂粒がくっついていて、払ったら綺麗にその部分だけ窪んでいる。
膝も地面に擦れてしまったので、タイツが破れてしまった。この前買い換えたばかりなのに。弁償してもらいたいが、そんなことを訴える勇気もなく、私は泣く泣くお財布と相談をする。春用に買った20デニールのタイツは、もう3代目になる。ごめんね2代目。君のことは忘れないよ。
コンクリートで擦れる度に、人間の肉体というのはなんて脆いものなのだろうと思う。よく頭をぶつけただけで死んでしまったという話をよく聞くが、このコンクリートの硬さ対、人体の柔らかさなら納得せざるを得ない。
衣世はたくさんの教科書が入ったリュックにバランスをとられつつ、ゆっくりと起き上がった。
はぁ……、と深い溜息をついた。
「あっ、溜息吐いた。幸福が逃げるよ」
「……逃げませんよ。それよりも最近の研究ではため息を吐いたほうがストレスを軽減出来ていいそうです。ていうか、お兄さん誰ですか?」
「人に名前を尋ねるときは、まず自分から聞くのが礼儀なんじゃないの〜」
「……ちっ」
「あっ! 今舌打ちしただろ!」
「してませんよ。……ちっ。被害妄想なんじゃないですか? ……ちっ」
「絶対してるだろ!」
いつの間にか衣世の隣にいる20歳前半くらいの若い男は、乗っていた自転車を降りて、邪魔にならないところに停めた。
「いじめられてるの? アスパラちゃん」
「……いじめられてない」
「いじめられた時に、まずするべきことは声をあげること。私は平気じゃないです。傷ついています。ってちゃんと周りの人間に助けてって言えるようにならないとな」
「だから、いじめられてなんかないって」
「ま〜、君がそういうなら、別にいいけどね。君の人生だからね」
僅かな沈黙が流れたあと、その若い男はニコッと笑った。
「その制服ってことは、あっちの学校の生徒?」
「言いたくありません」
「えー……。でも、絶対あそこの学校の生徒だろ」
「通報……」
「え……」
衣世はリュックのポケットからスマートフォンを取り出すと、すごい勢いで操作し始めた。
「帰宅途中のJCに声をかけてくるお節介な不審者がいるって通報してやる……」
衣世が男の目の前に突き出したスマートフォンには「110」の数字の並びが表示されている。
「わぁー! ちょ、ちょっと待て! 話を聞けっての! 怪しいもんじゃねぇ」
「……あっ、もしもし。警察ですか?」
「あっ、ちょっ、ばかやろー」
男は慌てて自転車にまたがる。ノロノロと助走をつけて、ペダルに力を込めた。
「お前がいじめられていい理由なんてないんだからなー!」
と、離れながら捨ぜりふを吐いて逃げていった。
衣世はその離れていく後ろ姿にベッ、と舌を出した。
「通報なんてするわけないじゃん。めんどくさい」
穴が空いて伝線しているタイツを眺める。薄っすらと血が滲んでいた。3月の空はまだ寒く、寂しい背中に冷たい風が吹き付ける。衣世がこの街に引っ越してきて半年が経った。クラスに馴染むどころか、衣世に居場所はなかった。
転校初日にあの五人組に目をつけられたことが全ての元凶だった。下手をこいた記憶はない。たぶん、ただなんとなくだったのだろう。なんとなく、まだ自分の居場所を確立出来ていない転校生をいじめたらどうなるか? というただの興味を満たすためだけの遊び。私は彼女たちの玩具にされている。
明日から春休みが始める。僅かだが、衣世が心安らかに過ごせる時間。残念ながら友達はまだ一人も出来ていない。いじめの標的にされることを怖れた他のクラスメイトたちは、わざわざリスクを冒してまで、得体の知れない転校生と友達になろうとする人間は、ただの一人もいなかった。
しかし、春休みを開けると新学期が待っている。その時にクラス替えも行われるので、もしかすると現状を打破出来るかもしれない。何かが変わるかもしれない。友達だって出来るかもしれない。このつまらない毎日が少しは面白くなっていくかもしれない。
そんな期待を込めて過ごした春休み。春が近づくたびに暖かくなっていく毎日を肌で感じていた。
何も予定がなかった衣世は春休み中になにか一冊小説でも読んでみようと考え、近所の市が運営している図書館に向かった。普段、本を読まない衣世は、綺麗に整頓されている本の並びをみても、何がオススメで何が自分にあっているのか分からず、ただ適当に目にとまったタイトルの本を手にとってみてはパラパラとめくり、棚に戻す。という意味のない作業を繰り返していた。
30分もすればその作業に意味がないことに気づいた。そして古本の匂いが充満している図書館を後にした。自転車に乗ってブラブラしていると公園に着いた。小学生たちが遊んでいる賑やかな雰囲気の中、一人ベンチに腰掛けた。スマートフォンをいじってみるが、誰からも連絡はなかった。
登録しているSNSを一通りチェックし終えると、ポケットにしまった。子供たちの様子をボンヤリと眺めてみる。するとあることに気づいた。
子供たちは鬼ごっこをしているが、明らかに一人が集中して狙われている。半べそをかきながら、周りの人間を追いかけ捕まえたところで、またすぐに追いかけられて鬼にされている。
どこの世界にもいじめってあるんだな。なんで、いじめられているのにわざわざ休日に遊ぶのだろうか。一人で過ごせばいいのに。まぁ、確かにずっと一人でいるのも人によってはいじめられることよりも苦痛なのかもしれない。でも、私には分からないな。
涙が出るほどの大きな欠伸をしたあとに、人の気配を感じたので、ふと隣を見た。
「げっ……」
隣のベンチにこの前の変質者が座っていた。本を読んでいる。衣世は男に気づかれないように目を凝視させる。読んでいたのは中学生の教科書だった。
え? は? なんで? なんでこの男はそんな中学生が使う教科書をこんなところで一人で読んでいるのだろう。しかも若干ニヤけている。……ように見える。気持ち悪い。
視線に気づいたのか、男は本をそっと閉じて、衣世に向かってニコッと笑った。
「……へ、変態だ」
「え?」
「平日の昼間から公園で一人で中学生が使う教科書読んでニヤニヤしている変態だ」
「あっ……、あぁ。君はこの前いじめられていた……」
「うるさい、黙れ変態。通報します」
「お、落ち着け。落ち着いてまず俺の話を……」
「問答無用」
衣世はポケットに入れていたスマートフォンを高速で操作し、今度は画面を見せることなく
「あっ、もしもし。警察ですか? 公園で小学生を見ながらニヤニヤしている変質者がいます? はい。やばいです。場所は〜」
「お、お前。覚えてろよ!」
男は慌てて立ち上がり、走って逃げていった。その姿はなんとも情けなかった。
「通報なんてするわけないじゃん。めんどくさい」
ポケットから取り出した風船ガムを頬張る。ぷぅ……と顔の前で大きく膨らんで割れた。頭の上の葉が風で煽られて擦られる。目の前のいじめは、自分を見ているようだった。
*
「帰ったの?」
「…………」
親子の会話はない。テレビの音だけが虚しく響いている。親から与えられた自分の巣に閉じこもる。鍵をかけた。
誰も入ってこなように。誰も入ってこれないように。
明後日からまた学校が始める。今度は上手く生きられるだろうか。自分の居場所はそこにあるのだろうか。
衣世はベッドの中で丸くなって、誰にも聞こえない声で泣いた。涙は出なかった。ただ、嗚咽だけが鍵をかけた部屋の中で反響した。どこにも外に通じる出口はなかった。
自分は生きていてもいいのだろうか? 誰に聞いても決まった定型文が返ってくる答えのない問いを、ひたすら自分に問いかけていた。
気づけば鳥の囁きが外に響く。薄っすらと色素が抜けていく空の色を恨んだ。まだ自分の解答を正当化する理由も見つかっていないのに、また朝が来る。
衣世はまた、今日に追われていく。
*
新学期。桜はまだない。春はまだ訪れない。そんなことは御構い無しに、クラスが発表され、心の整理がつかないまま、体育館で始業式が行われた。衣世は大きく欠伸をして長い睡魔と闘っていた。その間に校長先生の有難い言葉。今年度から配属になった新しい先生たちの紹介。衣世とは関係のない話が左耳から入って右耳から抜けていった。
あぁ、また同じクラスか。
例の五人組の中の主と同じクラスになってしまった。私はまた虐められるのだろうか。
彼女の名前は高田真美。その名前を見るだけで衣世の体は固まってしまう。衣世は極力高田の方を見ないようにして、新担任の登場を待った。衣世に話しかけてくる人はいなかった。
ざわついている教室の入り口の扉が開いた。古くなったドアのレールが、歪んだ音を上げた。
「おーい、静かにしろよ。お前ら」
名簿が載っている黒表紙を手に持ってやる気のなさそうな声で、男はそう言った。教卓の目の前に座っていた衣世は、思わず目を丸くした。
「今日からここの担任になった笹峰武雄です。よろしく」
カッカッカッ、と軽快なリズムで黒板に文字を書いていく。
「この前大学を卒業して、こっちに越してきたばかりだから、なんかいい店でもあったら教えてくれよな」
衣世のクラスの担任になった笹峰は、あの日衣世に声をかけた若い男だった。見間違えではないことを確認するために何度も見た。しかし間違いではなかった。話し方も、声色も顔も、身を纏う雰囲気も、あのときの不審者だった。
学校の先生だったのか……。
「塩原衣世」
名前を呼ばれた。一番前の席なので、笹峰にだけ届く声で返事をした。笹峰は衣世と目を合わせると、ニコッと笑った。反射的に通報しかけたが、悪いことをしていない人を通報することは出来ない。ポケットに伸ばした手を抑えて、その場をやり過ごした。
*
放課後、衣世が一人で歩いていると頭に軽い衝撃があった。びっくりして後ろを振り返ると、そこには笹峰が立っていた。衣世の頭の上には黒表紙が置かれている。
「やっぱりここの生徒じゃんか」
「……なにするんですか」
「塩原衣世さん」
「はい?」
「助けてほしいときは、助けてって声に出して言うんだぞ」
衣世の頭に黒表紙をポンポンと当てながらニコニコ笑っている。
「先生……」
「ん?」
「私、先生のこと嫌いです」
「ふはっ、もう嫌われちゃったなぁ」
衣世は頭の黒表紙を払いのけると、笹峰を置いて廊下を歩いていく。
誰があんな奴に助けてなんていうか。