先へ歩む
音の君……睦月がそう呼ぶ姫、六葉は新たにあてがわれた母屋の奥にいた。
物心ついた時には父はなく、母――梅花と数人の家人のみの小さく粗末な館で暮らす慎ましい日々。
幼くも見目麗しく、年にそぐわぬ利発さを持っていた六葉は幼子特有の母への甘え方ができなかった。
いつも暗闇を見つめ、空を見つめ怯える娘――そう、六葉は生まれついての見鬼であった。
母である梅花は普段からそんな六葉を案じ、“何もいない、大丈夫”と笑ってみせたが、時折怯えた顔を六葉に向けたり、夜は己や娘のこの先を案じ、一人涙に暮れていたのが幼い頃の記憶だ。
思えば母の腕に抱かれたことはほとんど無い。甘えることは上手くできなくとも、子が母の愛を求めるのはいずれも同じ……六葉もそうである。
なんとか母に心から笑みを浮かべ、頭を撫でて欲しい。優しく抱きしめてほしいとずっと願い……
六葉が七歳の冬。
深々と雪が積もりゆく庭先で、六葉は見つけた。
真っ赤に色をつけた、いく片もの小さな花弁。まるで時期はずれだが目を見張るほどの美しい桜。普段は春に白い花弁を付ける木だが、当時の六葉にはそれすら特別のように思えたのである。
まるで母の名――梅花のような美しい紅色に、これならば塞ぎがちの母も喜んでくれると、凍える中庭先に出て近場の石へ上り精一杯手を伸ばして。
やっと折り採った一枝。
細い枝に花が一つと蕾が一つ。
母の笑う顔……喜ぶ顔が見れると走って見せに行った。
梅花は娘の手にした花を見て、大きく目を見開き、そして――
『――化け物!!』
梅花は六葉の手から血塗られたほどに赤い桜を叩き落とし――そう、叫んだ。
真冬の、雪が積もる時期にのみ現れる、狂い咲きの紅桜。
鬼が潜み、人の生気を吸い取って赤く赤く――上質な紅のように咲く桜。
それを見たものは、必ず家人の誰かが死ぬという。
『……私は、鬼子を産み落としてしまった――!!』
その噂を聞いてか家人が知らせたのか……“父”と名乗る人がやってきたのだ。
幼い姫に行くあてなどなく、そのままその人に引きとられていった。
その先でもむろん上手くいくはずもなく、ただ孤立していった。
そんなおり、現れたのが楓という、一風変わった女房であった。
二十歳になったばかりという勝気そうな娘。自信に満ちているように明るく、鬼が恐ろしいと泣く姫を不気味に思う他の女房らをよそに、そんなものは心で追い払うのですよ、といつも明るく励ましてくれた。
楓に、なぜこんなに良くしてくれるのか、と問うたことがあった。
笑いながら、幼い頃の自分に似ているからと言われたのを覚えている。楓自身身内もなく、親類の家を点々と渡り歩き、この屋敷へ女房として入ったのだと。
そして同じような身の上の……まだ幼い六葉をほおって置けなかったと。恐れ多いかもしれないが、自分を姉とも思って気楽に過ごしてほしいと……そんな心強い人だった。
そうして半年ほど前。
楓に通う人が出来、ゆくゆくは結婚をと言われた相手のことも聞いた。本当に幸せそうに笑う楓に六葉も笑顔を浮かべたのだが……
しかし、その楓の愛しの君から、ある日末姫……六葉に宛てた文が届いた。
なぜ己に、と思い文を読めば、そこにはいつぞやの宴のおり、六葉を一目見てから忘れられぬ、この思いをわかってほしいと書かれてあった。
むろん六葉は返事などせず、すぐに屑入れへ放り込んだ。
――だが、屑入れにいれたはずの文を、何かの拍子に楓が見てしまったのだろう。
そこから楓が亡くなるまで、十日あまり。
亡くなる前日……他の女房らの噂を聞くまで、本当に気付かなかった。
楓は己の前で笑ってくれていた。
最後まで己を気遣ってくれた人の大切な人を奪った自分は、本当に鬼の娘で人を拐かしてしまった。
そして……楓まで、鬼へと変貌させてしまったのだ。
その思いだけが頭を回り、泣くことしか出来なくなっていた。
「失礼致します、末姫」
「あ……」
簾の向こうに、人の気配。
誰とも会いたくないと言ったはずだが、突然の来訪にしばし涙が止まる。
「先ほどお会いしましたね……安倍晴明にございます。今宵はお頼み申したきことがあり、参議のお許しを経て参上いたしました」
扇を広げ、簾の中からぼんやりと男を見つめる。はらりと紙扇を広げた優美な装いは都でも様々な噂を持つ陰陽師である。
「頼みと言うのは満月の晩、貴方の奏でた和琴と共に“鬼宿り”を睦月殿に舞っていただきたい、ということです。かの女房を祓う祈祷を行います。そこで再び、琴を」
「!」
「花紙楽にはもう伝えてあります。睦月殿の了承も得ておりますが……無論、姫が弾かぬでも、それはそれで良いでしょう」
ぐ、と扇を持つ手に力が入る。
「しかし……私は……」
「末姫、己の思うようにしか物事を見ぬというのは、酷くいびつなこと。今の末姫には心の平穏は遠いことです。お心を強くもたれませ」
「……」
「貴方はただ、辛く悲しいことから早く逃げ出したいだけ。全て己が起こしたことだから、認めるから早く楽にしてほしいと……そう願っているようにお見受けしますが」
「……」
「女房殿を恋しく、大切に思うならば中途半端に味方になるよりも、あの姿から輪廻へと戻してやるのが、辛くともこちらの役目だと思いますよ」
晴明がぱちり、と紙扇を閉じる。
「いつまでも、昔の楓殿に甘えるのはよしなさい、末姫。……もし貴方に覚悟がおありなら、私がこの屋敷を去るまでに、貴方の心をお聞かせねがえますか」
そう言って立ち上がったが、簾の奥の気配は動かずにいる。
後は姫の心次第……そう考えて簀子縁を渡ると、晴明を待ち構えていた人影に出会った。
「参議殿」
「おお……晴明殿。して、末姫は……」
「泣いておられたようですね。……あのご様子ではご自害の心配はありませぬ。祈祷に併せて琴を弾き、音に乗せて悪い気を祓ってしまえばお心も晴れてくるのでしょうが……」
あと一刻ほどはこの館にいるが、その間に姫の決意がなければ……あの姫もおそらく女房と同じ道を歩むであろう。
言外にそれを感じ取ったのか、参議も皺の多くなった表情を悲しげに顰めた。
「時の正室があれの母を拒んでな。……身分の低い母の元、苦労して育ったのだろう。せめて身内がなくなってからはと引き取ったのだが……上手く伝えることが出来ぬ。大切に思うことは変わりないというのに」
目頭を抑える参議に、晴明が口を開こうとした、との刹那。
――、――――……
琴を爪弾く音。強く。しかしどこまでも透明な音色が屋敷へ響く。
「これは……誰の手だ? 今すぐ辞めさせて」
「その必要はありません、参議殿」
聞こえた琴の音は……“鬼宿り”。
僅かに迷うように震える音だが、晴明は僅かに微笑んだ。
「いえ……心配は無用でした。末姫は、弾いてくださるようですよ」
「それは誠か!! ……では、この音は末姫の……」
「えぇ。では、二日後。鬼祓いの宴は満月の晩に」
――あと一人。どうにかしなければね。
参議と別れたあと、紙扇の奥で晴明は一人呟いた。
*
――安倍晴明邸の一角。
西の離れにある、多くの蔵書が乱雑に置かれた部屋に、康晴はいた。
幼い時からこの部屋で書物を眺めるのが好きで、そんなに篭っていては本に憑かれてしまうぞと兄たちが笑ったのを覚えている。
その時は信じていたのだ、己にも父や兄、大先生……賀茂忠行(かものただゆき=晴明の師)たちのような力はあると。
いずれ彼らと肩を並べ、帝を……延いてはこの都を守るのだと、当たり前に目指した道。
しかしそこまで思い出すと、睦月の言葉が反芻され、康晴は自重めいた笑みを浮かべた。
(――父の名に頼るしか出来ないのは、確かだね)
長兄も次兄も父の名に恥じぬ力をもっていたから、成長していく康晴も当然のように陰陽師への道を歩んだ。
言葉の覚えも早く、大人でも迷う星の並びもすらすらと答えることができた。
晴明の再来と幼くしてもてはやされた中で、修練を積んでも幽鬼が見えることはない、術の言葉は言えてもそれを使うだけの力が備わらないのだと、康晴に告げたのは誰より尊敬し超えたい人である父、晴明であった。
期待され、当たり前に歩むはずであった陰陽師としての道は、少なくとも康晴が思い描いた未来は、一切できないと告げられた時の衝撃は、幼いながら激しかった。
それでも安倍の名を落とすことはできぬと、またひたすらに勉学に励んだ。周りの才能が次々と開花していくなかで、己だけ遅れていく不安。
否定された陰陽師としての力と、安倍家の重圧――双方に押しつぶされそうだった。
そうしているうちに十五歳、成人を迎えた。それでも変わらず術も鬼も見えることはない康晴に対し、『十八までに己の道を決めろ』と行ったのは他ならぬ晴明であった。
「わかっているんだ……思う道を少し違えたとて、生きて行くことはできる」
それでも……そこまで口にした康晴の真横の戸から、小さな影がするりと入り込み――
『――康晴』
「!! ……父上、どうしました」
思考に耽る康晴へ声を掛けたのは、小さな人型の紙である。陰陽師が使う、己の身代わりのような形代だ。
『今、二条の白桜邸だ。お前が気にしていた鬼は、確かにあの家の女房殿だった』
「……そうですか。父上のこと、もう封ぜられたのでしょう」
『いや、そうもいかなくてね。二日後の夜に鬼封じの宴を催すことになった』
「宴……ですか?」
『そう。天に愛された舞手、花紙楽の睦月が舞う“鬼宿り”の舞いでね』
「!!」
睦月の名に表情が固くなる。
『祈祷として、あまり目立たぬ方がいいと仰せでね。表向きは私を招いての宴ということにして、行うことになっている。……お前もいくかい? 康晴』
普段なら間を開けず答えるのだが、一瞬息を飲む。
「――無論、と答えるのはわかっているでしょう父上」
『さて、ここに篭っていたお前では、どうかと思っていたのだけどね』
まるでその心情をわかっているように、晴明の形代が笑うような声音で言葉を紡ぐ。だがそれもすぐに収まり、真剣な声音に変わった。
『いいかい、康晴。仕事としていくからには、お前は雑用の類しか任せられない。呪術に参加することもないが……それでも行くかい』
「はい」
今度は迷わぬ息子の答えに、晴明(の形代)が笑う。
『では今から陰陽寮へ来なさい。そこで詳しい事を伝えるから』
「わかりました、すぐに向かいます」
立ち上がり、背をむけた康晴を見て、晴明(の形代)はくるりと康晴のいた部屋を見回した。
『……相変わらず埃っぽい場所を好むのだね、康晴』
「これは、昔からです」
『そろそろ出たらどうかな、この部屋から』
「……落ち着くんです、この部屋が。それにもう陰陽寮へ向かうので……」
『違うよ、康晴。痛みを伴うとしても、お前が出るべきはこの部屋の記憶からだ。お前は、私の息子であって、私ではないのだよ』
その声に弾かれたように振り返り、足元にある形代を見たが、すでに形代から力が抜け、ただの紙切れとなって床にひらりと落ちた。
康晴はしばらく何を言うでもなく、形代をじ……っと見つめていた。
*
「どうした、睦月」
「……文月」
「明日の舞のことか」
視線を逸らし、僅かに頷く睦月。
普段の輝きに満ちた目が今は暗く陰を落とし、力なく体を柱に寄りかからせている。
「……舞いが、見えないんだ」
睦月は普段から、舞台や座敷で舞う前、舞台に立つ己が見える。どのように衣を広げ、音を取り込み、どこまで足を踏み込み、どうさばくか。
その意見を元に音や小物を揃え、舞の準備をするのが普通になっていた。
だが、今回はまったくそれが見えないままであるらしい。
真っ暗闇の中、衣装すら満足に纏わず立ち尽くす己の姿しか見えてこない不安で睦月は唇を噛みしめていた。
「鬼の娘の舞は実際舞ったのだろう。ならば」
「……舞ったさ。でも違う。雑念が消えない。それにばかり捕らわれてどうしたらいいのかわからなくなる」
不安。
一言で言うならばそれだけだが、睦月には何より重大なことだった。
しかし、文月はそんな睦月の頭をぐりぐりと掻き回すように撫でてから隣へ座る。
「なんだよ、髪がぐしゃぐしゃに……」
「安心した、睦月。お前でも惑うことがあるんだな」
「……」
「今度の舞は、末姫が和琴を弾かれる。我らはむろんその音色に合わせて演奏するが……お前はそれにも戸惑っているのだろう」
睦月は何も言ってこない。
実際そうだからだ。
晴明が参議と交わした祈祷の話。
鬼封じと世間に知られぬために、幼いながら和琴の名手である末姫と天に愛された舞い手の共演を見る、というもの。客人は安倍晴明その人だ。
睦月は昨夜、音の君の音に合わせて初めて舞った。確かに琴の音は美しく力強い。
だが、そのとき睦月は今までにない感覚におそわれたのだ。
――すなわち、無心になれず、音が止むまでずっと音の君の音色に引きずられ、心を乱され続けたこと。
幼い頃から雅楽・管弦に対する天賦の才があった睦月にはそんな戸惑いなどなかったに違いない。
いや、あったとしてもそれが舞いに出るほどの比重はなかったのだろう。
彼を取り巻く世界は甘く、優しかった。感覚で描いたものをすぐに実現できる才能と、賞賛する周囲の環境。
「雑念が消えぬなら、もう無心になろうとしなくていい。その歌がどうして歌われたのか考えながら舞えばいいさ」
「考え? 考えるなんて普段から」
「その歌に、お前は何を思う。お前が舞う、鬼の姫は何を思っている」
「何を……」
「感覚で捉えることは天がお前に許した才能だ。だからこそ、お前は傲らず人一倍理解しなくてはいけない。違うか?」
「理解?」
「睦月、鬼の舞い……“鬼宿り”の歌を聞き、お前が感じたものを全て思い出せ。そうして考えろ」
……言われて、ゆっくりと記憶を戻していく。
「悲痛な舞い、恋しい舞い」
音の君の声に現れたのは、それ。
「……実の父と別れた寂しさ。人として鬼の記憶が薄れ幸福な子供の楽しさ、そこから――」
楓……鬼の女房と、悲しむ音の君の姿が頭をよぎる。
彼女はこれを同じ思いで聞いていたのだ。そして、あの女房も。だからこそ、あの離れへと来た。悲しみだけを目印にして。
「周囲との違いを憂い――己を鬼と知った姫の絶望と、理解されぬ存在への苦悩」
そしてもう一つ。鬼の姫が抱えた一番の感情
「――悲しみ……謝罪」
康晴の顔が浮かぶ。
その瞬間、感覚だけで捉えてきた物が、鮮明になってくる。
昨夜音の君と舞った時は、ただ彼女の声と音に合わせて舞うことを考えた。
音の君が何を考え、何を込めて謡い爪弾いたかなどは考えもしなかった。
それでも舞えた。睦月には天賦の才があったから。
だがそれだけでは上辺を優しく撫でただけのもの。
悪いわけではない。そこへ、いかにより深く理解と感動を生み出すか。
考えなくてはいけない。
ただ、音や歌を覚えて取り込むのではなく、その歌は何を込めて謡われ、奏でられるのか。
普段は見聞きするだけの人々にそれをより深く伝えるのは歌い手と、何より本人を演じる舞手……見る相手の望むように舞うのが一番だと、それだけ考えてきた。
――己は、この舞いで何を表したいのか。
そう睦月が考えると、鬱陶しいほどあった心の霧がすっと晴れたのがわかる。
「……文月」
「なんだ」
「“練習”する」
睦月の目にいつもの光が戻ったのを見て、文月は僅かに笑う。
睦月が練習するなど、いままで一度もなかった。こと舞いに関しては歌も音も一度か二度で覚えてしまう睦月は、音合わせはしても、感覚で体が動く彼には必要のないことであった。
「魅せるだけじゃない。今回は“救う”ために舞うんだ」
――愛しや。
舞いの最後にあるように。
誰かを思うからこそ生まれる思いを、ただ地に捨てないために。




