糸
「嫌だ! 死にたくない!」
男は絶叫した後、触手に飲みこまれた。
僕は観念した。
「遅くなった! 種火を持ってきたぞ!」
声がした方をみると、松明を持ったブンジが塹壕の淵にいた。
息を切らしており、必至に走ったことがわかる。
「逃げろ! 早く!」
ブンジはそういうと、火のついた松明を大きくふって僕に存在を訴えた。
僕は呆けたようにその仕草を眺めてから、ゆっくりと木箱の上に立った。
化け物はまだ、僕の存在に気づいてはいない。
僕は懐から糸をとりだすと、痛む間接を覆い、残りの糸を伸ばして、塹壕の向こう側にある木にひっかけた。
かつての僕の神術は弱かったが、今なら体を支える位はできるかもしれない。
そう思うと、僕は右手で糸の束を握りしめ、土の壁に足をかけた。
そして半身が浮いた時に、僕は右の肘を地面にひっかけ、そのまま体を起こした。
上半身が自由になったため、ふたたび右手で糸を掴んだが、腹が痛んで上手く力がこもらなかった。
化け物の気配を感じたのは、その時だった。
「構うな! やれ!」
僕はそう叫ぶと、燃えさかる松明が地面に落ちる音がきこえ、足元が急速に温かくなった。
僕はそんななか、必至に糸を掴んで壁を登り、塹壕から起き上がった。
塹壕のなかをみると、化け物は悲鳴を上げていた。
塹壕から脱け出ようとしていたらしいが、悲鳴は少しずつ小さくなり、遂にはきこえなくなった。
そんななか、腐った魚の臭いと共に、人の肉を焦がすかのような強烈な臭いが鼻をついたのだった。
化け物は動かなくなったが死んだかは確認できず、かといって無視することもできなかったため、僕たちは代わりの者と交代することになり、ござを敷いた荷車に乗せられて、村まで戻った。
その際、死体を運ぼうとしていた村人により、チョウゾウが生きていることに気づいた。彼は虫の息ではあったが、かろうじて生きていたのだった。
そんな満身創痍の僕たちが村まで戻っても、迎えは殆どなかった。
夜が遅いため、村人たちは疲れて僕たちを迎えず、明日の朝に備えているのだった。
必至に戦った者が食われ、僕は左腕を折ってまで化け物と戦ったのに、感謝の声は一つとしてなかったのだ。
僕はそのことに酷い苦しみと疲れを覚えながら、深い眠りについたのだった。




