06.サヨナラ・ヘヴン
戻って来た人影が一つ足りないのに、リサはすぐに気がついた。
独りの寂しさに耐えられずに村長の家に来ていたため、先に家の方に帰っちゃったのかな。誰もいないのに。なんて心の中でくすくすと笑っていた。
「―――え、う……そ……」
沈んだ顔のロキオンからその話を聞かされ、リサは立っていられず、その場にへたり込んでしまった。
リゲルが戦闘中にクレバスに落下。見つけることはできず、行方不明のまま。
討伐報告が来るまでは、と村長の元に滞在していた区長を見つけると、ロキオンはリサの横を通り抜けて報告を始めた。
「白面猿猴は仕留めた。確認を頼む」
ロキオンの合図に、メンバーはそれぞれ分担して背負っていた荷物――白面猿猴や白面猿の毛皮や牙をドンと置く。
「白面猿は全て仕留めたわけじゃねぇが、八割近く狩った上に、ボスがいなけりゃ大した脅威にもならねぇ。問題ねぇだろ」
「―――確かに」
区長は深く頷き、用意していた皮袋をジャリンと机に置いた。
「これが成功報酬だ。好きに分けるがいい」
「あぁ。ありがたく頂戴するぜ。それと―――」
淡々と取り交わされる区長とロキオンの会話は、リサの耳を素通りしていた。まるで足元にぽっかりと穴が開いているかのようで、自分が立っているのか座っているのか、目を開いているのか閉じているのかもあやふやだった。
(嘘よ。リゲル。リゲル。リゲル―――)
あんたと夫婦になった馴れ初めも思い出してない。きっかけは聞いたけれど、デートは? プロポーズは? 渡りハンターの頃は、あんたをどんな気持ちで待っていたの?
目からは涙がぽろぽろとこぼれていた。
でも、不思議と声は出なかった。喉をしゃくりあげることもなかった。
ただ、涙だけがとめどなく流れていた。
「手頃な採取依頼はねぇか? 薬草でも鉱石でも何でもいい」
「……まさか、ロキオン」
区長がその意図に気付いて眉根を寄せた。
「その通りだ。何か一個ぐらいあんだろ」
「……生憎だが、白面猿猴の一件でとても依頼を出すような状況じゃなかった。つまり、今、そういった依頼は―――」
リサがゆっくりと二人を振り返った。
ぼんやりとした頭は、それでも会話を聞き取って噛み砕いてリサの脳を揺らしたらしい。
今、このタイミングでロキオンが簡単な依頼を欲しがる理由は―――
「……たしが、あたしが依頼します!」
「いや、だめだ、奥さん。たぶん、アンタのそれは依頼にはできない――」
ロキオンが慌てて制止の声を上げた。
「あの人を、リゲルを見つけて、なんて依頼ができないのは分かってます」
そう。依頼には制限がある。ハンターには魔獣討伐や魔獣出現地域への採取以外の依頼はできない。
それに、彼らがリゲルを探さなかったはずはないのだ。彼らの本来の依頼完遂の妨げにならない最大限の範囲で探して来たに違いない。
「野生のププ肉を、取って来てください。リゲルの大好物だから、帰って来たら食べさせてあげたいんです。あと、ウナシカの肉もできれば。あれ、クセがあるんですけど、味噌漬けが大好きだって言ってたんです」
依頼を口にする間も、リサの目からは涙が流れ続けていた。
「……あぁ。よっしゃ、任せとけ」
「オレらも行く。なぁ、ミラ」
「そうね。ついでにあのバカ見つけたら引っ張って来るわ」
「……ノシ」
オリオはもらい泣きして小さな声しか出せない。だが、それでも、パーティ全員がリサの依頼を受けることは十分に分かった。
「報酬は? 報酬を出さなければ依頼として処理できないが」
「……」
リサは迷った。
正直、余分なお金はない。出せるものは一つしかなかった。
その一つを出すのか。手放して良いものなのか。
だが、すぐに答えは出た。
リゲルが居なければ、あんなもの必要ない、と。
「とても綺麗な文様の出ている虎斑石があるんです。それでどうでしょう」
「リサちゃん!」
悲鳴を上げたのは、おろおろと見守るしかできなかった村長の妻だった。
「ダメよ! それはリゲルくんがリサちゃんのために、って採って来たプレゼントじゃない!」
リサはふるふると首を横に振った。
瑠璃の瞳からポロポロと雫がこぼれた。
「リゲルがいないなら、そんなもの意味がない。形見になんて、絶対してやんないっ!」
ロキオンに向き直り、「それで、どうです?」と尋ねたリサの肩を、彼はバンッと思い切り叩いた。
「よし、奥さんのその心意気買ったぜ! 行くぜお前ら! ププ肉も余分に狩って、焼肉しよーぜ」
「あ、それいいわね」
「オレも賛成」
「がんばるノシ」
どこか空元気の、それでもにこやかな笑顔を浮かべたメンバーが、次々にリサの肩を叩く。
「ありがとうっ、ございます……っ!」
とうとう泣き崩れたリサを、村長の妻が優しく抱きしめた。
◇ ~ ◆ ~ ◇ ~ ◆ ~ ◇ ~ ◆ ~ ◇
(かつてのあたしは、ちゃんと覚悟してたの……?)
泊まって行くようにと誘ってくれた村長夫妻に丁重に断ったリサは、一人、家に戻っていた。
早速ププ肉を狩りに行ったロキオン達は、肉を狩るだけの簡単な依頼には有り得ない数日間の行程を組み、早々に出発した。
出掛けに、「回収しきれなかった白面猿の素材も取って来るんだ」などと言ってくれた時には、ようやく落ち着いた涙が再び溢れそうになった。それはつまり、リゲルとはぐれた現場に戻ってみるという言葉に他ならない。
「ねぇ、リゲル。あんたがいなくても、あたし、大丈夫かな?」
アクセサリーに加工するといい、そう言われた虎斑石は、取って来てくれたそのままの形で、引き出しにしまってあった。
リサは純粋に嬉しかったのだ。
仕事の間も、帰りを待つ自分のことを思ってくれたのだと。その証をくれたことが。
そして、初めてではないけれど初めての夜に、プレゼントをくれたことが。
「リゲル……」
リサの肌は、彼の手を覚えている。
大きくて、固くて、でも優しいぬくもりをくれる手。
リサの目は、彼の顔を覚えている。
ふにゃりと笑み崩れたり、意地悪くからかって来たり、まっすぐに見つめてきたり、くるくると表情を変えながらも、リサのことを好きだと訴えてくる顔。
「リゲルぅ……」
会いたい。
しゃべりたい。
触れ合いたい。
ベッドに伏して嗚咽を噛み殺していたリサは、そのまま闇に呑まれるように意識を失った。
◇ ~ ◆ ~ ◇ ~ ◆ ~ ◇ ~ ◆ ~ ◇
(あぁ、これがリサを騙した報いか)
朦朧とした意識の中で、リゲルはそんなことを考えた。
アルドとエウリィの件で悩んで悩んで悩み疲れてボロボロになったリサを連れ出したのは、もちろん彼女のためだった。
だが、その反面、リゲル自身のためでもあった。
ずっとアルドばかり見て、リゲルを幼馴染以上の何者にもしなかったリサ。彼女に振り向いてもらう最後のチャンスだと思った。
アルドと距離を作れば、自分の入り込む隙があると思った。
そして、アルドの元に返ろうとしたリサが、雪に迷い、倒れ、さらには記憶を失ってしまったとき、これはチャンスだと囁くあさましい自分がいた。
嘘をつくのが苦手な自分が、これ以上ないくらいに細心の注意を払って設定を考えた。自分の記憶さえ改竄しようとした。
(リサ……)
自分との生活のために、ププッケ村で貪欲に知識を吸収していくリサが眩しかった。自分を夫だと呼んでくれればくれるほど、眩しい光が闇を色濃くした。
「リサ……」
ひび割れるような自分の声を拾い、リゲルはまだ自分が生きていることを知った。
けれど、腕も背中も足も、全身が痛んで動かせる状況ではなかった。雪がクッションになって即死を免れたとは言え、冷たい雪の上に転がったままでは体力を奪われる一方だ。雪によって助けられた自分が同じ雪によって死ぬのかと、皮肉に気付いて口の端が僅かに持ち上がる。
(あそこから落ちたのか)
遠くに見える崖に切り取られた狭い夜空のキャンバスには、星がいくつも瞬いている。
その中でも一際強く輝いている星は、シリウス。猟犬を象る最も輝く星だ。
(ハンターが猟犬に看取られる、か。皮肉なもんだよね)
ふと、先代のパートナーだったウサギイヌを思い出した。雪に紛れる真っ白な毛並みをしていて、先代ハンターも、よく見失うとボヤいていた。
(ごめん、テル。キミと先代の後を継いだけど、こんな中途ハンパな結果になっちゃったよ)
「―――ごめん」
呟いた言葉は、リサへの謝罪か、それとも先代とそのパートナーに向けてのものか。
その声を最後に、リゲルの意識は闇に絡め取られた。