02.Sunrise
「だいたい何なのさ、数年だけの記憶喪失って、中途ハンパ過ぎるだろ」
「うるさいわね。中途半端に記憶失くすってことは、逆に考えれば失った八年間がひどい記憶まみれってことなんじゃないの?」
「僕との結婚生活がそんなにイヤだったって?」
「そうは言ってないでしょ」
「言ったも同然だよ」
翌朝になっても、やっぱりリサの記憶は十七で止まっていた。
目が覚めて、『見知らぬ年上の男性』と一緒に寝ているという事実に気がついたリサは、寝台からリゲルを突き落としてしまうというオマケつきだ。おかげでリゲルの機嫌は朝から最低だった。
「雪が止んでるうちにププッケ村まで行きたいんだ。ざっくりとキミの記憶の穴埋めをするよ」
「う、うん」
寝台の上で正座していたリサは、大人しく頷いた。
「僕が渡りハンターをしている時は、キミをレラプスに残して僕はあちこち回ってた。でも、ププッケ村に常駐することになって、キミを呼び寄せようと思ったら、どうしてかキミは渋った」
「そうなんだ」
「他人事みたいだね。まぁ、そうなんだ。必死で説得してようやくこっちに来ることになったんだけど、キミが土壇場で『やっぱ帰る』とか言い出して、挙句の果てに雪ん中で遭難。僕は一番近いこの山小屋までキミを運んだ」
「……うわ、とんだワガママだね、あたし」
「で、丸一日昏々と眠り込んだ挙句、起きたら自分は十七だと言い出す、と」
「うん、大変だったね、リゲル」
何で完全に他人事なのさ、とぼやくリゲルに、実感がないんだもん、と応えるリサは罪悪感の欠片も抱いていなかった。
何しろ、何を考えて自分がそのププッケ村に行くのを拒んでいたのかも分からないし、何を聞いてもピンと来ない。自分の感情の動きがさっぱり分からないのだから仕方が無い。
「ねー、そうするとさ、あたしが記憶なくしたのって、やっぱりイヤな記憶を消し去りたいとかじゃないんだ?」
「……まだ言う?」
「でもさ、あったじゃない。リゲルも居たよね? いつだったか吟遊詩人のヒトが町に来た時にさ、似たような話があったと思うんだ」
「奴隷から王に成り上がった話だろ? 奴隷は、元は亡国の王子ってやつで、自国が攻め滅ぼされた時の記憶をすっかり忘れてたっていう」
「そうそう。それみたいだなーって」
「……」
口を閉ざしたリゲルの表情が呆れではなく、別のものだと勘付いたリサは、「やっぱり」と呟いた。自分には十七までの記憶しかないと言っても、十七までは一緒に育ったのだ。表情ぐらいはちゃんと読み取れる。
「心当たり、あるんでしょ?」
「キミねー。ツラい記憶って分かってて、怖くないの」
「うーん。今なら他人事で処理できそうかな、って思うのと……あの王様みたく半狂乱で泣き叫んじゃったら、近所迷惑になるでしょ?」
「……そーゆー問題か」
がっくりと肩を落としたリゲルは、恐る恐る「いいんだね?」と確認をとった。よほど心配な顔つきだったのか、リサは彼を元気付けるような微笑みさえ浮かべて「うん」と頷いた。
「たぶん、キミが忘れたかったのは、アルドのことだと思う」
「アルドのっ?」
憧れの、片恋相手の名前に、リサの語尾がすこし撥ねた。
「エウリィと一緒になったんだよ、アルドは」
「あー……エウリィかぁ。それなら、仕方ない、かな。エウリィは優しいし、かわいいし、女の子らしいし、敵いっこないもんね。―――あれ、でもアルドのお父さん、エウリィは絶対ダメだって息巻いてなかったっけ?」
「あぁ、アルドんちは商売やってるからね。アルドもふわふわしたところがあったし、しっかり者の嫁が欲しかったんだろ」
だからキミは頑張ってたんだよね、とリゲルは彼女の黒髪を少し乱暴にわしゃわしゃと撫でた。
「そうだよ。料理・裁縫・帳簿付け、……って、あたしやっぱり頑張ってたんだ?」
「うん、アルドのお袋さんと仲良くなるぐらいに」
「じゃ、エウリィも頑張ったってこと?」
「あー……、まぁ、ガンバったんだろうねぇ」
リゲルは遠い目をして呟いた。
「ちょっと、はぐらかさないでよ! ちゃんと教えて!」
「あー、何ていうか、キミさ、エウリィのこと理想の女の子みたいに思ってたろうから、言い出しにくくって」
「うーん。確かにエウリィはいい子だもんね。お手本にしなきゃって思ってたわ」
リゲルは「あー」とも「うー」ともつかぬうめき声を何度か上げたのち、ようやく腹を括って話し出した。
「アルドとエウリィは事実婚だよ。―――子どもができたんだ」
「え?」
リサは黒い目を何度もぱちぱちと瞬かせた。
リゲルの口から出た言葉の意味が、うまく頭に入らなかった。いや、理解したくなかっただけかもしれない。
呆然としたまま、呼吸を五、六回繰り返したところで、ようやく意味が浸透した。
「う、そ……」
「ウソ言ってどうするのさ。アルドがエウリィを孕ませたんだよ」
「え? だって、アルドだよ? エウリィだよ?」
「今のキミでもそう思うだろ? あの時のキミの落ち込みようはハンパなかった」
それがきっとキミのツラい記憶なんだろうな。と締めくくったリゲルは、呆然としたままのリサが落ち着くのを根気強く待った。
リサは、じわりと浮かんだ涙を乱暴に拭うと、何かに堪えるようにじっと床を見つめた。
「―――うん、分かった。納得した。それでその後にリゲルと付き合いだしたってことだよね」
「あぁ、納得できたなら、そろそろ出よう」
「えぇ? どっちから付き合おうって言ったの? っていうか、あたしとリゲルがどういう遣り取りしてたのか、そこ詳しく!」
「恥ずかしいこと言わせないで。今となっては、どうでもいいことだし」
「どうでもよくない! だって、これからリゲルの常駐してる村に行くんでしょ? 絶対に馴れ初めとか聞かれるよ? 根掘り葉掘り聞かれるよ?」
「―――二人だけの秘密だってことにしといてくれないかな」
「ちょ、ひどーい!」
皮鎧の上にマントを羽織り、腰に長剣をぶら提げたリゲルは、彼女の外套をぽいっと投げると、文句をたれているリサの分の荷物まで担いだ。
「あ、リゲル。自分で持つよ」
「病み上がりが無理しない」
「もう大丈夫だって」
「記憶が戻ってから聞くよ」
結局、ププッケ村に着くまでずっと、リゲルはリサと二人分の荷物を背負ったままだった。代わりにリサはリゲルの手しか持たせてもらえなかった。
そのことについて文句を口にしたリサだったが、夫の役目とばかりにリゲルは決して譲歩しなかった。
「また、気が変わって逃げられても困るし」
「そんな覚えてない時のことを言われても!」
リサは頬を膨らませたが、リゲルは取り合わなかった。
◇ ~ ◆ ~ ◇ ~ ◆ ~ ◇ ~ ◆ ~ ◇
「おんや、まぁ、本当になぁ……」
「えぇ、あなた。本当にねぇ……」
リサは村長夫妻にまじまじと見つめられて思わず身体を縮めた。
ププッケ村へと無事到着したリゲルは、家に荷物を置くとすぐに村長の家へとリサを連れて来たのだ。妻が来たから、紹介するという挨拶の後で、何故かリサは二人の好奇の視線を浴びている。
「あ、あの、あたし、何か―――?」
困惑するリサに、村長の妻がにっこりと微笑んだ。五十は越えているだろうか、シワの目立つ顔の柔らかい印象に少しだけリサの緊張もほぐれる。
「いえねぇ、リゲルくんにね、何度もお嫁さんを紹介しようとしていたのよぉ。でもねぇ、その度に『間に合ってます』なんて断られていてねぇ……」
「そうそう、そのくせ結婚してるなんて、ひとっことも口にしないから、てっきり年頃にありがちな見栄っ張りだなんて妻と話していたんだよ」
驚いたリサが、ちらりと彼を振り返ると、額に手を当てて悩む仕草をしていた。
リサは、とりあえず誤解を解かねばと村長に丁寧に頭を下げる。
「すみません。あたしが(覚えてないけど、たぶん)生まれ育った町を離れたくないと我侭を言っていたものですから。その、今日からお世話になります。右も左も分からない身ですので、ご迷惑をおかけすると思いますが―――」
「あらあらぁ、大丈夫よぉ。リゲルくんはこの村を守ってくれるハンターなんだから。むしろ、お嫁さんが来て、こちらに居付いてくれるなら、大歓迎よぉ」
村長の妻がリサの手を取り、微笑を深くした。やわらかく、少しだけ冷たい手なのに、何故かリサの心が温かくなる。
村長の方は、何やらボソボソとリゲルに話を持ちかけていた。リゲルを肘でつついている所を見ると、どうやら男同士の話のようだ。
「長旅で疲れたでしょ? 荷解きもあるだろうし、おうちでゆっくりしなさいね。私の方から、リゲルくんの奥さんが来たって広めておくから」
「あ、はい。ありがとうございます」
ぺこり、と礼儀正しく頭を下げるリサを、村長夫妻は自分の娘でも見るような温かい目で見つめた。
「リゲルくん? しっかりとした奥さんみたいねぇ」
「君も隅におけないな」
「あー、いや、まぁ、これで失礼しますよ、っと」
冷やかされたリゲルは、慌ててリサの手を引っ張ると、村長宅を後にした。
その乱暴な扱いにプリプリと怒るリサの声を聞きながら、村長夫妻は顔を見合わせる。
「本当にお嫁さんみたいねぇ」
「そうだね。お前。―――ところで、本当に嫁が来た時のオッズはどうなっていたかな」
「ふふふ、なかなかの大穴よぉ。早速計算して、掛け金分配しなくちゃねぇ」
冬は雪に閉ざされてしまう村の数少ない娯楽の胴元は、奥に仕舞いこんだ帳簿を取り出し、ついでに計算木も取り出した。
そんなこととは露知らず、二人はリゲルの家へと戻って来ていた。
「こんなに広い家を一人で使ってたの?」
「あぁ、単身用の家なんてないし、渡りハンターの時は村の宿舎に泊めてもらっていたけど、常駐を機に空き家を譲ってもらったんだ」
居間と寝室以外にも二つ部屋があり、さらに貯蔵庫までついていたが、ほとんど使われておらず、埃が溜まっている。
まず掃除からね、と考え込んだリサは自分を見つめる視線に気がついた。
「なに? ニヤニヤしちゃって、変なの」
「うん、奥さんが来てくれて嬉しいんだよ」
「……っ、バカ言わないでよ。村長さんの前ではああ言ったけど、あたしはまだ―――」
「そうだね。夫婦の実感はないよね」
「―――ごめん」
思い出せなくてごめん、と呟く妻の頭を、彼は慌てて撫でた。元気のないリサは、どうにも調子が狂う。
「何か悔しいわ。あんたに頭撫でられるなんて」
「それは仕方ないよ。僕は二十五、キミの精神年齢は十七。年の差があるんだから」
「……」
「気にしないで。……あ、そんなに気になるなら、夜に夫婦らしいことしようか」
「っ、ばか!」
「いやほら、何か思い出すかもしれないだろ? 身体は案外、覚えてたり―――って、物を投げないで、物を!」
「うるさい、ばか!」
掃除道具を持って、奥の部屋へ引っ込んでしまったリサを見送って、彼は大きなため息をついた。
(罪悪感……ハンパないね)
リゲルはずっとリサを見てきた。
リサが二つ年上のアルドをずっと見つめていた時も、リゲルはリサを見つめ続けていた。
だから、リサが『アルドと』結婚したとき、やりきれない思いを抱えながら町を離れた。ハンター稼業は体力的にも精神的にもキツいものがあったが、町に残って二人の行く末を見せ付けられるよりかはマシだったはずだ。
元々、アルドのことは大嫌いだった。
アルドは優しいとリサは言うが、誰にでも優しいのが大問題だ。それが例え妻となったリサに対してでも、他の女性に対してでも等しく優しい浮気男がアルドという男の本性だ。
何度かリサに注意を促したが、恋するリサは聞く耳も持たなかった。それでも妻という立場になったなら、少しは……と思っていたのが間違いだった。
先輩ハンターの代わりにププッケ村の常駐になってから一年、ププッケ村に骨を埋めるつもりで、最後の見納めとばかりに故郷レラプスに戻ったリゲルは、信じられないものを見た。
悩みを抱えてボロボロになったリサの姿だ。
酒場の若旦那に納まったかつてのガキ大将のギースに聞けば、どうも、エウリィが妊娠している子の父親がアルドらしいのだとこっそり教えてくれた。エウリィもエウリィで、彼女より十も年上ですっかり彼女にメロメロな夫がいるというのに、強かなことだと。
こっそりリサの様子を窺えば、ボロボロの顔で、それでも無理に笑顔を浮かべて商家の店先に立つ痛々しい姿があった。
そこから先は、リゲルも無我夢中だった。
アルドを見限るよう説得しても、リサは最後には戻って来てくれるからと首を縦には振らなかった。頑固だと毒づいたが、そういう一途なところもリサの美点だ。
それならば、と、アルドを振り向かせるために一芝居打とうという方向で誘い、彼女の大切さを知った頃合に戻ろうと声を掛けた。随分と悩んでいたが、最終的には頷いてくれた。
だが、誤算があった。ププッケ村に到着する寸前、やはりアルドの元へ戻るとリゲルの手を振り切って引き返してしまったのだ。雪の舞う中で自殺行為だと思った。だが、その一方で、きっとアルドはリサが居なくなっても気にしないだろうと予想していたから、冷静さを失っていたリサがようやく気付いたのだと妙に納得もした。アルドは来る者拒まず去る者追わずの主義だったから。
雪に半ば埋もれるようにして倒れているリサを見つけた時、確実にリゲルの寿命は縮まった。必死に山小屋まで運び、意識を取り戻した時には思わず彼の目も潤んだ。
だが、またそこから先がややこしくなった。
まさかの記憶喪失だ。しかも八年という微妙な期間。
それでもリゲルは必死に考えた。どうにかリサを手元で幸せにする方法はないか、と。
考え尽くした結果があの嘘だ。
うっかり自分の妻だと、願望を口にしてしまったあの夜、リゲルは必死になって筋書きを考えた。嘘は得意ではないが、この嘘だけは、突き通さないといけない。そう思って、頭の血管が切れるんじゃないかと思うぐらいに考え詰めた。
あとは、レラプスから遠く離れたこの村で、嘘をゆっくりと本当にしていければいい。
(リサ……、ごめん)
奥の部屋から聞こえる鼻歌を耳にしながら、その後ろめたい幸せを噛み締めながら、リゲルは心の中で何度も謝った。