9.
機嫌を直してもらおうとカルシィは勇気を振り絞っていた。
ロゼンに言わせれば、それは必死で、縋るような目だった。
カルシィが懸命に自分の機嫌を気にして、なぜかひどく必死になって取り繕おうとしているのがロゼンにもわかっていたが、苛立ちを鎮める働きにはならないのだ。
「背中に乗れよ」
低く言うとロゼンは長く歩いてきたのだろうと思わせる、ずいぶん草臥れている黒色のブーツの似合う長い足を真ん中で折り、地面に膝を着いた。
カルシィの前に黒い背中を晒す。これが喋ってもうまく思っていることを伝えられそうにないロゼンの返事だった。
広い背中だった。
歳もあまりかわらないというのに、カルシィを背負ってもビクともせず、居心地がいいことは、もう知っているけれどカルシィは素直には頷けなかった。
色味のない頬がわずかに膨らんで、無言の拒絶を表していたが、ロゼンはまったく意に返さなかった。
「———おまえ、さ。こんなチンタラした道中やっていたら、あのクソオヤジが追いついてくるとか、考えないのか?」
カルシィは叔父の話題を持ち出され、あきらかに顔を強ばらせていた。そして怯えながらも機嫌の悪いロゼンにだって食い下がって引かなかったそれまでとは別人のようにおどついた顔つきになっていた。
「・・・二日間はね、ずっとロゼンの背中で、・・・ロゼンはずっと走っていたもの。夜中も、森の中も突っ切ったし・・・」
カルシィの恐怖順位ではロゼンよりも叔父のようだ。
ロゼンは怖くても追いかけられるけれど、叔父は無理だった。湧き起こる怯えは即、逃げ出したくなるものだった。
でもなんとか、ロゼンの手前、言い訳をしてみたけれど、ロゼンは厳しい。
「おまえ、あいつの希望の金庫の番号、解放してやんなかったじゃねえかよ。そんなもん、しつこく追いかけて来るに決まってる!」
「だって・・・おじさんに、金庫を自由にさせるのいやだったんだもの・・・」
「はん、これは自分のだってかっ?これだから財産持ちは意地汚くてたまらねえっ」
ロゼンはカルシィにそのまま背を向けたままで吐き捨てるように言った。
「違うよ。そうじゃないよ・・・」
それはロゼンの誤解だった。
苛立ちまぎれに、ぶつけられるきつい言葉にカルシィは涙が滲みそうだったが、最後まで言う。そんな風に思われているのはとても嫌だったから。
「お父さんがわたしに残してくれたんだもの、金庫もお金や宝石も大事だと思ってるよ。でもそれは・・・もうわたしが目にすることはないってお別れをしてきたよ」
だけどね、とカルシィは語調を強めて訴える。
「だけど、ブラウニーおじさんが好きにするのは嫌なの、わたしの負けみたいで嫌だったの、だから金庫は元通り閉じてきた。欲張ったんじゃなくて誰かの思いのままになって負けをみるのって、嫌なのっ!」
駄々っ子のようにカルシィは顔中をくしゃっと歪めて力説した。
小さなこぶしが握られたほどの強い主張を、ロゼンは黙って聞いたあとはもう金庫を話題にはしなかった。
カルシィの言い分は、ロゼンに理解出来ないことではなかったからだ。
誰か他の奴に、力ない自分は好きなように流されて、流されまくっているだけでどうしようもできないなんて、ロゼンだっていつも思っている。クソ食らえだった。
カルシィの訴えたことは、もっとロゼンが普通で機嫌のいいときなら、へえと感心して頭を撫でてやるぐらいしたかもしれないことだったが、このときは無理だった。
不安と焦りのなかで気が立っているロゼンは、意地悪に鼻で笑っていた。
「そういう考えなしだから、オヤジは追ってくるだろうぜ。追ってきて捕まったら、おまえはどうなるんだろうなあ。金庫さえ開けさせればもう用済みだから、代わりに金庫のなかにしまい込まれたり、な。ばっちり顔を見られている俺は不法侵入と暴力行為に尾ひれ背びれなんかもどっかりつけられて、警邏隊に突き出されて牢屋に入れられることだろうな!」
ぐずぐずと背中に頼ることを渋っているカルシィを責め立てるロゼンがまるで間違っているわけではないのだ。
ブラウニーを気絶させ閉じこめたカルシィとロゼンは叔父にとって心証はとても悪いだろうし、憤怒に追いかけてきた叔父に捕まってしまった場合など想像がつかない、それだけはカルシィも避けたいと思っている。
「さっさと乗れよ」
「・・・うん・・・」
今度は素直に従った。
そおっと手を伸ばし身体をロゼンの背に被さる。
するとすぐに、せっかちなロゼンは立ち上がってしまい、バランスを崩したカルシィは落っこちそうになった。
ひゃあと、小さな悲鳴が上がったが、ロゼンの両手がすぐに後ろに回って、カルシィの身体をしっかりと支えた。
「重くない?・・・ごめんね・・・」
負ぶってもらわないと、カルシィはノロノロとしか歩けなかった。
ロゼンのペースを守れなかった。
少し歩くとすぐに疲れていた。
呼吸はロゼンと一緒にいるので楽だったけれど、一日の大抵をベッドの住人として過ごしていたカルシィの体力はあまりなかった。萎えた足は棒のように重くなって、少し歩いただけでも足の裏も袋はぎもずきずきと痛い。ロゼンと道中を共に歩くなど、到底できそうになかった。
どうして自分はこんなのだろうか。とても恥ずかしかった。
「ごめん・・・」
悲しくなって、ロゼンにいびられてもどうにか耐えた涙が、今度ははっきりとカルシィの両目から溢れ出した。
「謝ることじゃねえっ! そんなん、おまえがへちょこなのは全部知っていて、俺が連れ出したんだ!」
背中が雫に小さく濡れた。泣き出されてしまったことはロゼンも気づいていた。
ロゼンは苛立ちに加えて自己嫌悪を混ざって、さらにぶっきらぼうだった。
「少し歩いて、もうほんとはおまえ、ずっと身体しんどいんだろ!大人しく休んでいればいいんだよ!」
相変わらず優しさのない声だったが、カルシィはロゼンの背中にぎゅっとしがみついた。
ロゼンは腹を立てて置いて行かずに、背に乗っけてくれたのだ。
「・・・うん、わかった、・・・ありがと、ロゼン・・・」
歩くと意地を張ってみたものの辛くなっていた。
でもロゼンに言えば、ほら見たことかと馬鹿にされるから必死に歩いていたのだが、バレていたのだ。
そしてロゼンは怒っていて、口は悪くても、背中を貸してくれる。やっぱり優しいのだ。
カルシィの軽い身体を背に、ロゼンは再び街道を歩き出す。実際ロゼンにとって、まったく負担になるようなことではなかった。
ロゼンは人間に混じって生きてはいるが、人間ではない。古代の生き物末裔であるロゼンは人間と変わらない姿をしていようと体力、身体組織の出来が違うのだ。
ただし、ただの人間だろうと、男ならカルシィぐらい背負ったって平気だろうよ!とはこんなことを一つ納得させるだけで、なぜこんなに時間がかかるのかと憤怒なロゼンの思いだ。
カルシィを歩かせず、背に乗せたことで街道を進むペースは格段に上がった。
もう相手への配慮は要らない。長身のロゼンが大股で、のしのしと歩いて行けばいいのだから。
それはまるで何かに追われているような余裕のない歩みだった。
さっきカルシィを苛めてみたが、カルシィの叔父のブラウニーなど本当は、ロゼンはまったく心配してはいなかった。あんな奴など追ってこようが、自分でどうとでも対処出来る、退治可能だと思っていた。
ロゼンが恐れているのは、別の追っ手だった。
ロゼンを追ってくるだろう者、そしてカルシィを見つけてしまったとき、おそらく間違いなく自分から奪い去って行く者たち、里の者だった。
何にも知らないカルシィはしばらくすると、ロゼンの背に完全に体重を預けて動かなくなっていた。静かな寝息が聞こえてくる。
眠ってしまったようだ。
「ったく、気楽なもんだっ」
自分はこれほどあれこれと頭を悩まし苦しんでいるというのに、とロゼンは深いため息を吐いた。




