7.
「信じないなら、それはそれでいいさ」
その押しの弱さが、今のカルシィにはとても心許ない。
そうなんだと、断言してくれたら、自分で判断を下すよりも自由は無くても、楽なことだった。
膝の上に並べる自分の握り拳を見つめてじっと考えるカルシィは、泣きそうな気分になっていた。
本当か、嘘か。
この馬鹿げた物語のような話が、真実か。
自分は、信じたいのだ。
信じたいのだ。否定じゃなく肯定したいのだ。縋るように。
多少の問題も付随している気がするが、微々たるものだろうと、今のカルシィは考えている。
カルシィとしては喜んで飛びつきたいお伽噺なのだから。
少年にとって、もうすぐ死ぬかもしれないという可能性は恐怖以外の何ものでもない。心を押し潰さんばかりの現実で、大人でも怯え、生まれ落ちた者には必ず与えられるこの永遠の苦悩から逃れようと励む熱意が魔法使いの起源となったとも言われている。
自分には早々と訪れると思っていたそれ・『死』がもう少し先に先延ばしできるというのなら。
でもそんな素敵な都合の良い話を鵜呑みにしてしまって、嘘だとわかったときに訪れる失望感と絶望感は計り知れない大きさになってしまうだろうから。
せめぎ合う思い。
希望と絶望。信じたいのは希望でも裏切られてやってくる絶望に尻込みしてしまうのだ。
永遠に終われない苦悩とも思われたカルシィの思考を中断させたのは、一人ほっぽかれていて暇になってしまい、次第には腹が立ってきたロゼンだった。
「いい助言してやろうか?」
うん、と不安そうな表情を上げてロゼンの精悍な眉の男っぽい顔を見つめたカルシィは頷いた。
藁にも掴みたいとはこう言うときだろう。
相手が、このロゼンであっても、助言が欲しいと。
「ああ、じゃあありがたく拝聴しろよ」
こういうときにも、勿体ぶる男はやっぱり嫌な性格だと思った。
そういうカルシィの気持ちを知ってか知らずか、重々しく告げられていた。
「ぐだぐだ悩むのはおまえの趣味なら、それはそれでいい。俺は止めたりしないが」
実に腹が立つ性格だ。
「現実的なところに目、向けたらどうだ?」
「現実的?・・・」
「ああ」
カルシィは首を傾げていた。どこもかしこも現実的だと思っている。避けられない死だって、弱ってゆく身体だって現実で、目を背けてはいないのだ。逆に今は、他ごとに逃げずに真っ向から向き合っているぐらいなのに。
「一番現実で、今、考えなくちゃならないことはーーーと考えるんだ。いいか?」
素行は悪い、にわか教師が生徒を諭す。
「今、重要なこと。おまえ、あれが、衣装棚から出てきたあと、上手くやってゆく自信あるのか?」
あれ、と顎で指されたのは扉の奥で姿は目にできないが、今でこそ、こうして二人静かに話ができるほど穏やかな態度でいてくれるが、ブラウニーだ。
叔父・ブラウニー。
カルシィを助けるためだったが、当て身を喰らわされて意識を失っているあの男は、ロゼンをどのように思ったか。
そういうわけではないけれど、そのロゼンを手引きして部屋に連れ込んだと誤解は必須だろうから、カルシィに対してもどんな態度になるか。
簡単に言って、痛い目に遭わされたおじさんは報復にでたりとか、そんな大人げないことはーーー。
と、言いたいロゼンだった。
とてもとても不思議そうに、対処できんの?と、ロゼンに問われたカルシィは。
一瞬で頭の中でぐるぐる犇めいていた現実的だと自分では思っていたけれど、難しくも幻想的な事柄たちは吹っ飛んでいってしまっていた。
ああうっ・・・。
声にならない悲嘆が、カルシィのうちにいっぱいに隙間無く広がっていた。
さっき、二者選択のようなことを、ロゼンは言っていた。
それは真っ赤な嘘だった。
しかも、ぜったいわかっていて言ったのだとカルシィは思った。気づかなかった自分はとても恥ずかしい。元々、カルシィにはあの時点で選択肢など無かったのだから。
叔父の前に姿を現したロゼン。
叔父の性格からして、もうカルシィにはこの屋敷に留まるということはかなり困難なことに変わってしまっていたのだ。
いびりは以前よりも増して、陰湿で激しくなるだろう。
衣装棚に手足を縛って閉じこめた性悪な甥っ子として、もし言い訳や和解が通じるなら、現在の関係に陥ってはいないだろうて・・・。
「ひどい・・・謀ったよね・・・」
「なんのことだ?」
わざとらしく驚いた顔で言い、嘯くロゼンの前で、カルシィの表情は苦々しかった。
そんなカルシィの様子を面白そうに眺めていたロゼンだったが、堪らなくなったようにくっくっくっと笑い出した。
「だとしたら、おまえ、どうするんだ?」
しばらく笑って、納めたあと少し改まったロゼンがいた。
「言ったはずだ、最初に。俺は嫁さんを捜しに来たんだと」
「そ、その嫁さんってなんだよぉっ。あんたはホモってことっ!?」
そういう事を聞いた気がするが、そういう説明はここでは全く出てきていないのだ。ただの性癖ということか。
「一度にいろいろ言っても信じられないだろうから言わずにおいてやったんだろうが」
「なにをっ!」
悪びれない大きな態度のロゼンは、今回最大の衝撃発言を宣った。
「だからさ、おまえたちは女王を戴く種族なわけよ」
女王、という言葉も河原で聞いた気がする。
深くは考えなかったけれど。
「変な奴らでさ、女王以外、大抵が男で生まれるんだよ、あんたらは。女王が子を産む。
だけどその群れ的組織が維持できなくなったとき、一番は女王が死んで不在になったときとかだが、そうなったらそれ以外が繁殖期になったら、女に変わる。で、子を産み出すーーーということらしい」
「・・・」
カルシィはしばしの沈黙の末。
「なんだか、蜜蜂のことみたいだね・・・。本で読んだことがあるよ、女王蜂が死んだりしたら働き蜂が、急きょ、卵を産み出すんだって。ほんとに緊急手段で、決して代わりにはなれはしないけれど・・・」
「へえ。知らなかった。よくそんなこと知ってるな、物知りだ」
ロゼンにとても感心されてしまったが、全然違うだろう!
「働き蜂は雌だ!」
「ああ、ほんとだ、違うな。おまえは男だろ、一応」
「一応、じゃあない!」
驚きすぎると、腹が立ってくるものだとこの日、ロゼンに会ってカルシィは知った。
「無理矢理覗かれるの、かなり腹立つから最初に見せてやるっ!」
「・・・は?」
何を、とロゼンは訊こうとして、次いですぐ気がついて、止めようとしたようだった。
しかし、寸前のところで間に合わず。
いろいろ口ではマセたことを言っていたが、実はロゼンは純情少年ーーー青年だったのか。
「ちゃんと見たな。わかったな!」
衣類を捲り上げ、下着は止める暇は与えず躊躇無く下ろして、おがませてやった鼻息荒いカルシィに、カルシィほどではないが肌色の白いロゼンは首もとまでみるみる赤く染まっていった。
「・・・おまえな・・・するか、そういうこと・・・」
「虐めのように押さえられて見られるよりか、よっぽどマシだよ!」
片手で顔を覆ってしまったロゼンに、カルシィは強く確認した。
「見たね、わかったね。わたしは男だからね!」
「・・・ああ。わかった・・・おまえって、かなり気が強いんだな・・・もうわかったらしまえ、それ、ちょんちょりん。見てるとこっちが恥ずかしくなる・・・」
「どういう意味だ!」
「だから、あってもなくてもかわらないぐらい、小さいってこと」
男の沽券に関わるような暴言に、肩を膨らませていったカルシィに
「冗談だ」
おまえ、おもしれえ。
くくくっとまた顔を覆いながら笑ったあと、
「女みたいだと思っていたが、あんまりそういうのとは違ったみたいだ」
ーーー性格は、と続けられたことは少しカルシィとしては不満だったが、許してやるとする。
「ひ弱い“女”じゃ無理だと思っていたけど、おまえなら、友人、とかそんなんにもなれそうな感じだ・・・」
黒豹がそんなことを言ったのだ。
強くてきれいな獣が、自分にだって劣等感を感じるありさまのカルシィに向かって。
これ以上ないくらい嬉しい褒め言葉を貰ったみたいで、噛みしめて隠すのに必死にならなくてはならなかった。
なぜって。そんな、喜んでいるのがばれてしまったなら、弱みを握られてしまっているようなものだと思ったからだ。
ロゼンとカルシィはそのあと、握手をした。
黒い衣服の背の高いロゼンと、白い夜着を着たままで小柄で細いカルシィが向かい合っていると、まるで男の子と女の子のように見えたが、そうではないのだという握手だった。
カルシィを嫁さんなどと言って現れたが、一人の少年と認めたロゼンから、差し出された手を、カルシィは驚きながらも手を伸ばして握ったのだ。
ロゼンの手は大きくて重ねた自分は貧弱で顔を顰めたが、取り合わず強い力に握り返されて、えへへっと、カルシィは照れくさくなった。
幼い頃から病弱で、負い目となっていたカルシィが自分から同世代の子どもに近づいてうち解けることはなく、だからカルシィにはほとんど友人というものがなかったから。
友人ができた。
それだけでも嬉しいし、その上、平気だ苦しくないと誤魔化す必要なく体調の悪さを当然と知っているロゼンの存在は気分を楽にさせてくれるだろう。
もう一つとして。もし、その相手がそうなりたいと密かに憧れるような格好いい容姿をしている者だったとしたら。嬉しさは倍増だった。
その先は、知らない。
ロゼンは言った羽とか、女王とか、性別がかわるとか・・・。そんなこと知らないさ!
カルシィは大雑把に割り切っていた。
わかるときがくることがあるかもしれないけれど、それは今ではなさそうだった。
今、重要なことは。
そう。
急がないといけない。ぐずぐずとしているわけにはいかなかった。
夜着を脱いで着替えていた。
着替えるとき、いきなりその場で脱ぎだしたカルシィの横で、なぜか慌ててそっぽを向いたロゼンの性格にも、カルシィには、だから男同士なのに、変なの、と思わざるを得ないものだったが、突っこむのは次の機会にして、着替え終わったあとは小さな鞄に旅支度だった。
心は決まっていた。
もう、この屋敷に入られない。叔父とは一緒に暮らしていけなかった。
だから、ロゼンと行く。
幸い、それをロゼンは迷惑足手まといだとは思わず望んでくれているので、一刻も早くだ。
叔父が起き出す前に、の他に、ロゼンの気が変わらないうちに、ということもあったが、それはまったくのカルシィの杞憂だった。
たぶんこの状況を一番深く喜んで、長い時間、待ちに待っていたのはロゼンだったのだから。
カルシィの性格は予想とは少々違っていたが、違って面白い、一層執着は増した気分だった。
こいつが俺のものーーー。
この思いはなんら変わってはいないのだから。
生い立ちと確執によって、いくらか歪んで曲がっている性格のロゼンの厄介さを、カルシィが、困ったなあ、と思い知るのはもうしばらくあとのことになる。
やっぱりヤバイ性格だよなぁ。悪い奴じゃないけど・・・でもそれとこれとは別の話でーーー。という、大きな問題に直面するのももう少し先のことだ。
今しばらく、連れ出すことを最大優先事項として、猫を被っている黒豹はカルシィの荷造りされた鞄を親切に自分からひょいと持ってやり、後に続いて廊下を歩いていた。
大きな屋敷だった。立派だったが、閑散として笑顔も消えて久しくなってしまった。もうカルシィにあまり未練もないものとなっていた。屋敷だけでなく、父母の思い出は胸にもある。胸の思い出なら、叔父に悩まされることなく浸ることができるのだから。
歩んで行き着いた先は大きな扉の部屋の前だった。彫刻が施される重厚な扉は鍵が掛けられてはいなく、カルシィの前でゆっくりと押し開かれていった。
真っ暗な部屋。
壺や絵。彫刻。花瓶。
ロゼンに言わせればかび臭い物置のような部屋だった。
まっすぐに奥に進んでいったカルシィの前にカーテンだった。
脇に下がっている紐を引くと捲りあがるように作ってあり、その奥は。
窓ではなかった。
「・・・金庫か?」
「そう。さっき言っていた話題の金庫」
大きな鉄のかたまりは、小柄なカルシィだけでなくロゼンもすっぽりと中に納められるほどの大きさだった。
「おい、どうするつもりだ?・・・」
金庫の前にしゃがみ込んだカルシィに怪訝な声だった。
「開けて、少し貰ってゆくの。生活にお金は必要でしょ?」
「・・・おまえ、知らないって・・・」
「知ってるよ。あれ、ロゼン、信じたの、それ」
驚いた顔で仰がれてしまうと、ロゼンはガリガリと頭を掻いた。
金庫の番号。
ちゃんと、カルシィは教えられて知っていた。覚えていた。
ただそれを、乱暴に問いつめられようと、言ってはならないこともちゃんと知っていたということだ。
口が裂けたって言わないのだと、固い覚悟は決まっていたのだ。
金庫を開ける。
三つのダイヤルを回して、複雑にかみ合わせて、手順は頭にしっかりあっても動かすのははじめてだったので心配だったが、失敗することなく、かちゃっと金庫は小さい音を立てて口を開けた。
「やったあ!」
カルシィの歓声と、息を呑んだロゼンだった。
金銀宝石、首輪、指輪、宝冠。
色取り取りの大きな石はランプの明かりを弾いて暗い箱の中で様々な色に輝いていた。
「きれいだねえ。・・・やっぱり、全部貰っていく?」
「・・・止めとけ。二、三個で十分だろ。それに全部といったら重いぞ・・・」
「うん・・・そうだね。じゃあ、四個か五個にしておこう」
宝石のアクセサリーを取り出して、そのあとは元通り金庫を閉めた。ダイヤルもめちゃくちゃにまわして、本当に元通りだった。
こうして生活資金も無事補給したカルシィを取り巻く世界は、ようやく朝日が顔を出し、あたりを明るく照らしはじめる時刻になっていた。
小鳥の声が遠くに聞こえる。
夜が去っていったのだ。
カルシィがいつも固唾を呑んで待つ夜明けの到来だったが、今朝は少し違っていた。
外套を着て玄関に出て重い扉を開けたとき、出迎えた眩い太陽の光。朝日。
でも、今日のカルシィは、眩しいと手を翳しただけで抱きしめて感激するほどの物では無くなってしまっていたのだ。
夜は明けていた。
もうとっくに、だった。
ロゼンが現れたときから。
たぶん、それは少し違うのかも、とも思った。
夜はロゼンだった。黒い豹のようなロゼンは夜の匂いがした。夜そのものだったけれど、カルシィの前には彼はいなくて、カルシィは一人。
カルシィの“夜“の不在は、アンバランスで不安定となって怯えなくてはならなかったのだろう。
けれど、現れた今となれば、カルシィにとっても、夜は夜として、安定したものに変化したのだ。
締め付けられるよう恐怖はいつの間にか消え去って、カルシィはロゼンと二人、夜の屋敷の中を歩き回ったのだから。
「どこへいくの?」
玄関で足を止めたカルシィは傍らのロゼンを見上げていた。
「ああん。・・・そうだなあ、とにかくあのおやじが起き出して追いかけてきても追いつかれないよう、ここから離れることだろうな」
「うん。・・・それが一番だけど・・・」
「あとは追々、でいいんじゃない?」
にっと笑ったロゼンに引っかかりも感じたが、わからないことばかりのカルシィだった。
ロゼンの言う、追々はとても正しいのだとは思った。
とまどいがないわけではなかった。
こんな風に飛びだしてしまって、ロゼンに頼る生活になるとは思いたくないけれど、たぶんきっとそうなる。まともに外に出たこともない自分がロゼンのように上手くいろいろこなしていけるとは考えられなかった。
でも、そんなカルシィの弱気から後押ししてくれたのは。
「おい、いくぞ」
当然のように長い腕が伸ばされていた。
玄関の階段を数段駆け下りていったロゼンが、立ちつくしていたカルシィを振り返って、呼びかけたのだ。
「行くぞ。・・・なんだ、早速オンブしろとか言うつもりか?」
「言わないよっ!・・・・・・まだ、ね」
くくくと笑ったロゼンは、
「お、一応、強がるか。俺はおまえみたいな細いの、始終オンブにだっこだろうとまったく構わないがね~」
「わたしはかまうよっ!」
「姫さまだっこしてやるぜ」
「殴るってやるっ!」
犬っころがじゃれ合うように走り出して、二人の姿は人の姿もまばらな通りの果てに消えていった。
朝日はとても優しかった。
朝日はとても眩しくて、明るく、世界が灰色に包まれる雨や嵐の日があるなんて信じられなかった。
この日。
カルシィは、ロゼンときれいな雲一つ無い晴れ渡った朝日の中に踏み出していったのだ。
門出を祝福するようによく晴れた朝だった。
第一章 終