69.
「ほんと?」
くるりと振り返って見上げる心細げなカルシィを見て、あらためて思った。
「大丈夫だろ。大丈夫じゃなければ」
そっと声を潜めて
「逃げ出せばいい」
驚いた顔をされたが、即答に咎める言葉は返ってこなかった。
「だってそうだろ。ぜったいここにいなくちゃならないことはないんだ。会いたいから来てみた、住みやすいからと来てみた。会いたくなくて、住みやすくなかったらいる必要ないんだ」
「・・・でも・・・」
カルシィが言いたいことはわかったから、ロゼンは続けた。
「気分がいいだけいて、体調が良くなったら抜け出せばいい。外に行ってまたしんどくなったら戻ればいいんだろ」
「そんな都合のいいことできるかな・・・」
不安そうに首を傾げているけど、笑顔が戻っていた。悪戯を仕掛けるときのようないたずらっ子のものだったけれど、支配者に怯えきっている顔よりずっといいと思った。
他に道があるのだという逃げが、心のゆとりになっていた。
カルシィが言う通り、そんな簡単に、都合がいいことが通用するのかロゼンにもわからなかったが、必要なら自分は全力でまたここ、里を抜け出すと思った。
今度はカルシィを抱えて。
一人で出来たことが、二人で出来ないはずがないとも思った。
二人であれば、自分は実力以上の力が出せそうだと。
「じゃあ決まりな。最悪、我慢が出来なくなったら抜けだろう。それまでは、まあ、必要なことをするーーー」
体力を付け、知識を得る。
衝撃に心がついて行けていないけれど、自分たちについて知らないことについて、学び、知ることは大切で必要なことだと判断したことだったはず。
「うん」
カルシィは頷いた。
「必要なことをちゃんとするね・・・」
前向きな言葉のあとに、でもね、があった。
今度は、泣きそうな声ではなかったけれど、もう一度言った。
「メルヴィアさん・・・なんか、凄いの、ほんと。———前言ったあれ、取り消す・・・」
「あれ?」
あれじゃわからないのは当然だったけど、直接言い出すのも恥ずかしかったのだ。
「だから・・・恋人、かなって言ったこと・・・」
はっと、ロゼンは笑う。嫌そうに。いつものようにだ。
「別に取り消さなくていいじゃないのか。きっと好きなんだろ、あいつは。でもかなり一方的、面白い」
カルシィが困ることでもないだろうに、困った顔になって
「そんなこと言っちゃ駄目だよ・・・」
レネドを毛嫌いするロゼンらしい口の悪さをカルシィはやんわりと窘めたが、一方通行だということは否定しない。
真剣な横顔を見てきているから、こんな展開になろうとは信じられないぐらいだけど、あのメルヴィアと噛み合わなくて仕方がないとも思ってしまう。
相手が悪いとも言う。
「一生懸命で大好きだよね・・・ちょっと可哀想なぐらいだよね・・・」
「いや、ぜんぜん、いい。俺は見てて楽しかった!」
「ロゼンったら・・・」
勿論、かなり小声で間違っても部屋の外に漏れないように注意した会話だった。
『人の不幸は蜜の味』はきっと正しい。
レネドの不幸話に触れて、すっかり二人の気分が明るくなったことは否めない事実だった。
翌日の昼すぎまでカルシィとロゼンは、二人、部屋で静かに過ごしていた。
昨日までのロゼンたちの仕事が一段落し、休みだったこともある。
相変わらず、メルヴィアを訪ねてだろう、人の出入りが激しいので引きこもり気味になっていたけど、一つの新たな出来事もあった。
朝ご飯にセランダータに呼ばれたときだった。
カルシィはセランダータに強く抱きしめられたのだ。
抱きしめ、謝られた。
セランダータは、昨日、事の発端が自分がカルシィを館に一人残して外出し、その間に忍び込んだアビールにあると気が付いていた。
アビールがカルシィを追い詰めた。カルシィの窮地にメルヴィアが目を開けたのは偶然ではないのだろうと考えられた。
カルシィの危険、恐怖感が伝わってメルヴィアは叩き起こされたのだというのがレネドやトランザたちが密かに話しあって出された結論だった。
大怪我もなく、結果的に良しと、比較的楽観的なレネドの一方、セランダータは割り切れなかった。
「ごめんなさい、私のせいだ。怖い思いをさせてしまった。メルヴィアが起きてくれなければ大変なことになっていた。・・・ごめんなさい、本当に・・・」
涙を浮かべて謝罪するセランダータに、カルシィの方が驚いて焦ってしまったほどだ。
「そんな・・・違います・・・誰かのせいとかじゃなく・・・誰かのせいとかなら、アビールのせいでセランダータさんのせいじゃないです・・・」
「あんたの様子がずっとおかしかったのは、アビールを気にしていたからなんだよね。気付いてあげられないうえにこんなことのになって・・・」
セランダータは、カルシィが鋏を握りしめていたことを知っている。裁縫箱に返した鋏に、カルシィは少し汚してしまったと気に病んでいたが、問題はそんなことではなかった。
優しく責任感が強いこの女性が、メルヴィアが目を覚ましたというのに暗い顔をしていたのは自分が原因となっていたのだ。
もっと早くセランダータと話をするべきだったと反省した。
ロゼンの自分たちだけのことでいっぱいになっているうち、メルヴィアのところのいいながらセランダータはカルシィのことで、ずっと苦しんでいたのだ。
カルシィのために涙を流すほどに。
心がじんと熱くなった。里をロゼンと二人逃げ出す話をして和んでいたことが恥ずかしくなっていた。
いじけていたことが馬鹿みたいだった。
「大丈夫、です。アビールも、メルヴィアさんに怒られて感じ、変わったし・・・」
「そう言ってくれると、ありがたいけど・・・」
腕の力を解き、涙を拭って微笑んだセランダータに、カルシィも笑顔を返していた。
怯えてばかりはいられなかった。
メルヴィアに会いたかった気持ちは本当だ。
自分と唯一同じ種族だと聞かされ、そういった相手が存在していることは心強い。
ロゼンの仲間であるこの里にやってきて、カルシィが最後の生き残り、自分だけで独りぼっちなのだと教えられるのと、メルヴィアがいるとではやっぱり気持ち的にはまるで違う。
メルヴィアが、容姿的にも肌で感じる感覚的にも近い存在なのだとわかるから、一夜明けて心が少し落ち着いてくると、メルヴィアが怖いという泣き言はやはりとっても恥ずかしかった。
捕って喰われるわけでもないのに、不思議だったけれど、とにかく昨夜はロゼンと二人震えあがってしまった。気になってカルシィはロゼンの方へ視線を向けると、どこかバツの悪そうなロゼンと目が合ってすぐにお互いそっぽを向いたけど、二人とももう心にゆとりは戻ってきていると感じられた。
「あの、メルヴィアさんの具合は・・・」
「ええ。安定しているみたい。自分の家に戻るって言い張るのをもう少し待って貰っているところ」
「家?」
「ええ。メルヴィアの家ね。ああ、あの部屋は眠ったきりのメルヴィアに、わたしたちが不安で来てもらった。意識もない状態で一人にはできないから。でも本当はこのままここで暮らしてくれると嬉しいのだけど、・・・きっと無理でしょう・・・」
どうしてと首を傾げるカルシィに、セランダータは苦笑を浮かべた。
「人通りがありすぎて煩いから、嫌だと、断られる。メルヴィアの住処は里の中でも少し離れた場所にあるの。でもそれだと、会いたいと思ったときにあなたが大変だからと、頼んでみるつもりでいるけど、どうなるか・・・」
困った顔をしたあと、セランダータは気を取り直してにこっと笑った。
「どう?メルヴィアは!なかなかでしょ」




