5.
「もういいな、もう十分泣いたな?」
きつい顔立ちを嫌そうにわずかに歪めて確認されて、それから手渡された布でカルシィが顔を拭って鼻をかんだ頃、ロゼンに突き飛ばされて壁に頭からぶつかって気絶していた叔父のブラウニーが低い呻き声を漏らした。
意識が戻ったのだ。
カルシィの顔にぱっと緊張感が走ったが、すぐに消えた。
それはカルシィの前で、叔父から守るようにロゼンが動いて立ったからだ。
カルシィの前には叔父ではなく、ロゼンの黒い背中になった。それが気恥ずかしいような嬉しいようなで、緊張感は吹き飛んでしまったようだ。
「君はっ、何ものだ!」
目を覚ました叔父は、当然の疑問を怒鳴っていた。
ロゼンという名前の人。中味はちょっと危ない系かもしれないーーーと、それぐらいしか知らないカルシィもロゼンの返答を待つものの一人だったろう。
黒豹みたいで、怪しい発言をするよくわからない人。
でも、こうしてカルシィの窮地に現れてくれてとても嬉しかった。だとしても、出会いの無礼なキスは別問題で、帳消しにはできはしないけれど。
そうして、もう一つ。見間違いではない輝きを放った目。叔父を突き飛ばした力は、到底尋常とは言えないと思った。壁がみしっと欠片を落としたほどの衝突を生んだのだから。
それであっても、畏怖とも言うような恐怖感はほとんど生まれてはいなかった。目が光って、普通じゃない強い力があると知っても、カルシィにあるのは不思議なことに安心感だった。
安らぐのだ。
よくわからない。
認めたくないけれど、これを恋をしているというのだろうか?
いや、違うと思う。
と心で、カルシィは即座にきっぱりと否定していた。それとは違うが、とにかくよくわからないけど、無条件で側にいたいと思うということ・・・。
ああ。ほら、可愛い子犬を見たとき、連れて帰りたいと思う気持ちのようなもので、自分の場合は子犬ではなく大きな黒豹だけど、いいなあと思って・・・そういうことなのだとカルシィは心で気持ちを整頓することができた。
果たして。
その黒豹とは、いったい。
「俺はこういうものだよ」
二カッと笑う様子が後ろに立つカルシィに声で伝わって、カルシィは慌ててロゼンの前に回り込んでいた。後ろからでは何かを示されようが見えないと気がついたからだ。
「おまえ!」
折角背中に庇ったはずのカルシィが飛びだしてきたのだから、ロゼンは苦々しげにした。
「・・・まあ、いいけどさ・・・」
と、あまり良くなさそうな口ぶりで言ったが、カルシィはあえて気にしなかった。
叔父が立ち上がっているのを目の端で捉えたが、酒の回りもあってふらふらだった。いきなり飛びかかられる恐れはないと踏んだ上で、カルシィも一緒になってロゼンを見つめるのだ。
「あなたって何者なの?」
「こういうかんじ?」
苦笑を浮かべたロゼンが次の瞬間、さらに口の端を吊り上げた。唇がめくり上がるように、それは犬歯だった。
白い牙だ。
瞳がさっき垣間見たように光を宿して輝きだした。
そして、だらんと前に提げていた両腕がわずかに震えたと思ったとき黒い袖から先に覗く手に変化が生じたのだ。
「爪っ!」
悲鳴ではなく歓声になったことが、カルシィ本人にも驚きだったが、めりめりと骨張ったと思った指の先のそれまで普通に切りそろえられていた爪がかぎ爪のように鋭く尖って伸びて、まるで獲物を捕らえる肉食の獣のようにーーー。
「・・・なんだ・・・やっぱり、黒豹?」
それは理屈を飛び越えて納得だろうか?
「・・・おまえ、面白いな・・・」
驚くかもっと悪かったら、悲鳴に怯えられるかと予想していたロゼンは拍子抜けだったろう。たぶん、嬉しい類の、だ。
その代わりに淡泊な空気に現実味を戻したものは別にちゃんと存在した。
「ば、化け物めっっーーー」
ブラウニーの引きつった悲鳴に、二人は二人の間に生じた妙な世界から引き戻されていた。
「うるさいな、あれを先に片づけるか」
独り言に呟いたロゼンが、肩が膨らみ爪が伸びて、牙もあるという不思議な姿のままで壁際まで、音もなく歩み寄って叔父を身体を片腕で軽々と持ち上げた。
大きな身体の叔父だったが、爪先も浮いて完全に襟元だけで吊しあげられているのだとカルシィも気づいた。
「ねえ・・・どうするつもり・・・」
はじめて不安を滲ませた声で、カルシィはロゼンに駆け寄っていた。
間近に見上げたとき、ロゼンの瞳はギラギラと強い光で輝いている。
暗い夜のなかで、星だと思った。闇を切り裂く小さいけれど、彼方から届く強い圧倒的な光、星だった。
「どうして欲しい?」
牙を生やすロゼンが少ししゃべり辛そうなくぐもった声で、男を片腕い本で空につり下げたまま、カルシィを見下ろしていた。
「おまえの好きなようにしてやるよ。して欲しいことを言えばいい。殴られてたな、じゃあ仕返しだ、俺がボコボコにしてやろうか、それともーーー」
「あっ・・・そんなのっ・・・」
昼間とは違って牙の生えているロゼンだからなのか、普通にしゃべる過激すぎる発言にカルシィは少なからず動揺したが、慌てず流されず、考えた。そして。
「なんでもわたしの好きなようにしてくれるの?」
小首を傾げるような確認顔を見下ろすロゼンは目を細めた。それはまるで、小さな鼠のような生き物を見るときみたいだと思ったが、そっちは心に抑えて別を口にした。
「じゃあね、衣装扉の中に閉じこめるの」
「はあ?」
「真っ暗で怖いよ。きっとわたしの気持ちがわかるね。逃げようとしとも扉が開かなくて蹲るしかできないように・・・できない?」
できないかしら、と真顔で聞かれたら、ロゼンの返事は一つだろう。
ため息混じりに、「よくわからんやつだな、おまえは」と呟きながら。
カルシィの要求は、一生懸命に考えてなるだけ穏やかで、そのうえ、カルシィの密かな怒りも満足して収まってゆくものだったが、いかんせん、ブラウニーが暴れて嫌がったものだから、業を煮やしたロゼンの拳が腹にめり込んで動かなくされてしまった。
カルシィは飛びついて調べたが、呼吸も普通にしているようで気絶しただけだとわかってホッと胸をなで下ろした。
意識を失ったブラウニーの手足をシーツの切り裂きで縛って、猿ぐつわも嚼ましてうえで、ロゼンは真っ暗な衣装棚の奥に放り込んだ。
扉の外には鍵の代わりに、取っ手をやはりシーツを裂いて作った紐で括って出られなくしたが、この光景を目にした者は間違いなく無視できずに開けてみるだろうし、大柄な叔父のことだから、簡単ではないにしても目を覚ませば体当たりして扉を破って出てくるのだろうと思った。
手際よくそんな作業がこなされているうち、ロゼンは昼間の普通の姿に戻っていた。
カルシィはランプに明かりを灯していた。
暗がりを怖がるけれど、カルシィは明かりがなくても部屋の隅々まで見通すことができる特技・・・の言えるのかわからないものを持っていたが、一応だ。
カルシィは常識を愛する一般小市民な少年だと自負しているのだ。
夜だから明かりだった。
今更で、ロゼンもてきばきと動いて、あまり必要なさそうだとは思ったけれども。そう言う問題ではないのだから。
叔父は衣装棚の中に。
ランプの明かりで部屋はほんのりと明るくなった。
まだ夜はまっただ中で、朝の気配はなかったけれど、そんなことはすっかり頭から忘れていた。
黒い昼間の普段着のロゼンの前で、白い薄手の貫頭衣のように心許ない物だったので、カルシィは肩掛けを一枚身体に巻き付けていた。そうでもしなければ、ひょろいと、口の悪いロゼンに悪口を言われてしまうのではないかと心配になったためだ。
昨日の夜と変わらないほど静かな夜が戻っていた。
でも、違う。
カルシィはベッドから出ていて、ロゼンが立って自分を面白そうな、意地悪そうな目で見つめている。
性格が悪いだけで、自分を嫌っている訳じゃないのだともう知っているから、平気だった。何も知らないのに、そんなことはわかっているのだ。
知らないことを知りたいと思った。
いろいろ。
すべて。
自分のことで、このロゼンが知っていると言うことなら、すべてを知りたいと思った。
「ね。話が聞きたいな・・・」
緊張に乾いてしまった唇をそっと舐めて潤したあとでカルシィは言うと、ロゼンは。
くくくっと笑った。
とても嬉しそうだったから、聞いてもいいことだと安心することができた。
「ああ、いいよ。いろいろ」
「ぜんぶ!」
「望むところだよ。そのかわり条件がある」
「・・・なに?」
にわかに不穏になった空気に、カルシィの頬は強ばったが、
「ここに居るならいい。でもそれ以外なら、俺と来るーーーそれが条件」
「ここか、あなたなの?」
よくわからなかったが、とても緩い条件だと思った。
無理矢理、連れて行く云々ではないのだから、十分に自由の余地はあると思ったから。
「・・・わかった・・・」
うんと頷くと、またくくくっと笑いだしたロゼンの歳を聞きたいとカルシィは思った。背が高いから大人のような感じがするけれど、わりと子どもで、もしかすると年齢は近いのかもと感じるような無邪気な嬉しそうな笑顔だったからだ。