4.
途中で目覚めてしまった夜は予想以上に長かった。
コチコチと小さく大きく響いている音は時計で、分厚いカーテンの外は捲ってもまだ朝日の欠片もない真っ暗な世界だろう。ランプを灯そうかと考えたけれど、暗い部屋は目が慣れて見通せようとも不気味で知らない場所のようでベッドから一歩でも出てしまったらもう戻れないような気持ちすらする。
こんなことを言えば、心の病だと眉をひそめられることかもしれないけれど、そうカルシィは思ってしまうのだから。
なら、どうしたらいいのかわからないなら。
ただ辛抱強く待つしかない。
朝を。
解決を。
非力ならなおさら、じっと息を潜めて堪えて待つのだ。
そうすればきっと、そのうち事態は良くなると信じて、疑っては駄目。
ただ無心に信じていないといけない。
それが誰かに力を借りずとも、自分にできることだと思っていた。
だけど、それだけでは解決できないことはあった。悲しいけれど、非力で身体を竦めて堪えているだけでは到底収まらないこと。
それがまた今夜も、カルシィの元にやって来ようとしていた。
千鳥足のような不規則なリズムの大きな足音は近づいてきて、ベッドの掛布の中に潜って必死の祈りは天には通じず、扉のノブが乱暴に回されて、カルシィの身体がビクッと震えた。
鍵は掛けている。
けれど、そんなことは意味はないことだ。訪問者が外から開ける鍵を持っているなら。
ガチャガチャと鳴った。そして。
「おいっ!」
壁に打ち付けるように開けられた扉がたては音はカルシィの心の代わりの悲鳴だった。
「おい、起きてるんだろっ。寝てるなら起きろっ、役立たずめっ!」
熟睡のふりをすることは、より危険な結果を招くことをもう知っているため、カルシィはおずおずと掛布の下から頭を出して身体を起こしていた。
「・・・おじさん・・・なにか、ご用ですか・・・」
「はっ、ご用がなけりゃあおまえの部屋など来るものかっ!」
廊下の明かりに切り取られた枠の中、戸口に仁王立っている叔父・ブラウニーの酒の臭いが部屋の奥のベッドにいるカルシィまで届いていた。
今日も相当、呑んでやってきたことは明らかだった。
夜が嫌いな理由にはきっと、この人のせいもあると思っている。
「おい、クソガキが。今日はふらふらと外に出たそうだな。遊びほうけるほど元気になったとはめでたいことだ!遊ぶまえに役に立つことを考えないのか、無駄飯喰いがっ!」
カルシィの部屋に入ると辛気くさいものがのりうつりそうだと言う叔父が部屋に踏み込まないのは今までは救いだった。
けれど、今日は違っていた。
呆気なくカルシィの防波堤は乗り越えられて荒れ狂う大波のような酒気と怒気にまみれる男が足音も荒く押し寄せてきた。
慌てて足にシーツを絡ませてもたつかせてしまったカルシィの襟首が叔父の腕に捕まえられていた。
「・・・お、じさん・・・」
「思い出したか、遊び回る暇があったんだからなっ」
「なに・・・」
襟首を締め上げられてカルシィの声は掠れ、苦しさに無意気に涙が睫に滲んだが、叔父の良心にはなにも感じるものはなかったようだ。
ぐずぐずとしやがって、と怒って余計に締め上げながら
「金庫の番号だっ!」
「そ、それはっ・・・何度も、わたしも、知らないん、ですっ・・・」
「知らないわけがねえだろうが、兄貴の奴がおまえと一緒に俺に押しつけていったもんだ。おまえの生活費だとな」
多少、言葉が違っていると抗議したかったが身体を揺さぶられているカルシィにそんな言葉を紡ぐ余裕などなかった。
「知らないはずがないんだ、あれが開かなかったらおまえを預かって世話している意味が無いだろうがっ、クソっ!」
このところ、ほぼ毎日のように、酒を飲んだブラウニーが夜中わめきながら、カルシィの部屋にやってくるのだ。
彼の要求は、金庫の番号。
何度聞かれてもカルシィだって、言えないものは言えなかった。
母を幼い頃失って、そのあと父も数年で母を追うように逝ってしまった。
母の記憶はなくても、父の方は少しカルシィは覚えていた。
カルシィと同じように身体の弱かった母を、周囲の反対を押し切って妻にした父。長男だった父のこの屋敷で自分たち親子はつかの間の親子の優しい日々を過ごしたのだ。
けれど、父が死んでカルシィの穏やかな日々は完全に失われた。
父の死を悲しむカルシィの元に、世話をしてやるためと叔父が踏み込んできたのだ。
それまで疎遠だった叔父の元に手紙が行ったという。残される一人息子の世話を頼むと。そして、その手紙にはこんな言葉が添えてあったらしい。
『無事成人の祝いの日を迎えた日には財産の半分をお礼として贈ろうと』
けれど、だからこの屋敷は我が物顔で叔父が暮らしていようが本当は、カルシィの方に権利は強いはずなのに脆弱な子どもでしかない正当な一人息子は、乱暴に締め上げられてもただ許しを請うしかないのだ。
「ご、ごめん、なさい・・・おじ、さん・・・わたしはっ・・・本当に、何も聞いて、ないからっ・・・ゆ、許してっ・・・」
「クソ、役立たずな強情ものめっ!」
吐き捨てると同時にカルシィの身体は床に捨てられて強かに背中を打ったが、解放された喜びの方が大きかった。打ち身の痛みなど我慢はできるのだ
これでおわりだと思った。
今日はこれで、おじさんの気持ちも一応、収まって帰って行ってくれるとカルシィは思った。
騒ぐだけ騒いで、怒りにながら去ってゆく。
理不尽な暴君で、支配者だったが今日の分の火の粉は振り払えたと・・・。
でも今日は、そうはならなかった。
絨毯の上に尻餅をついていたカルシィの白い夜着の裾が乱れて、細い足が腿のあたりまで覗いてしまっていた。
細くて筋肉が無く頼りない本人曰く、恥ずかしい生っ白い脚。カルシィには自分の一部と言えど目にすると憂鬱になる身体だったが、本人以外にとっては少々違った心地を感じさせることになることもあるようだ。
叔父の気持ちの悪い視線を感じ取ったカルシィが慌てて脚を隠していた。
そのカルシィの顎を、父の弟というブラウニーという男はごつい指で掴み取っていた。
「あの女に良く似てきたもんだ、そっくりだ、かわいげのないところも」
すぐにカルシィはその不愉快な指を振り払おうとしたが力が足りなかった。
反対に、揺さぶられて頭の芯がぐらぐらして気持ちが悪くなっていた。
「ふらふらで頼りない案配だが、男を誘う腕だけは一流だと言うことだったな。兄貴をまんまとたらし込んだ」
「か、母さんを、悪く言わないでっ・・・わたしのことはいいけど、母さんと父さまのことはっ・・・」
「生意気なガキめっ」
除け損ねたカルシィは、太い叔父ブラウニーの腕をまともに頬に喰らって、軽い身体は後ろに吹っ飛んでいた。
血色の悪い白い頬がみるみる赤い色に染まっていった。
口の端も切れてしまったようで、赤い血がぽとりと滴ってよろよろと起きあがった白いカルシィの手の甲の上に落ちた。
銀色の髪と白すぎる肌、白い夜着。
カルシィの上で鮮血の赤は目に焼き付くほど鮮やかで、まるでアクセサリーかなにかの装飾のようだった。
ぞくりと背筋に衝動を感じたのは、ブラウニーも同じだったようで、自分の流血を目にして動揺を隠せず手の甲で切った口元を拭うことに気を取られるカルシィの細い肩を掴んでいた。
「な、にっ・・・」
「あの女、俺の誘いを断りやがって!兄貴に俺がどれほど劣るって言うんだっ!クソ生意気な女め、忌々しい。あんな女に差別される筋合いなどないわっ」
昔の思い出に憤るブラウニーと、カルシィの父親が双子だったことは知っている。
小さい頃はそっくりな双子だと言われていたそうだが、同じに生まれても、長男と次男と区別を付けられたことが原因にあるのか、カルシィが知っている父と叔父は髪色や目鼻立ち、造作こそは似ていようが表情の違い、目つきの悪さで到底そっくりな双子とは言えなかった。
その叔父も母を気に入っていた。
嫌っていたのではなく、実はそれ以前には違った感情があってのことだったと、この時はじめて知らされることになったカルシィは驚きを隠せなかった。
双子の男がいて、二人は一人の女が好きで、でもだからその女は一方を断るしかない。
しかし、そうして断られてしまった方は?
叔父が事に付けて自分を悪し様に言い、悪意をぶつけてくるのはそういう事情があったから・・・。
聞かされてしまって、なんだかうなだれる気持ちだった。
が、そうとばかりはしていられなかった。
悪意が迫っていた。
酒に呑まれた叔父に正気は失われていて無いのかもしれない。
「嫌だっ、なにをっ・・・」
「そっくりだな、いいや、あいつよりか数倍きれいだと褒めてやるぞ。おまえでもいいか。兄貴もそういうつもりで俺に残していったのかもなあ」
酒に赤黒く染まっている男の顔が、さらに醜く歪んでいた。
口元には醜悪な笑みが刻まれて、酒臭い息を吐く。濁った目に所在なげに見下ろされるカルシィは本能的な恐怖に震え上がった。
「嫌!嫌だっ!」
細い少年のカルシィの抵抗などブラウニーにとって赤子の手を捻るようなものだった。
カルシィは押されてどさっと絨毯の上に横たわることになった。
すぐ上には、カルシィの肩や腕を絨毯に固定する叔父がのし掛かっていた。
「へへへ。そういや、一度も確認したことなかったよなあ。おまえは本当に息子なのか?俺を喜ばせるために嘘で、本当は娘なんじゃあないのか?」
「ち、違うよっ、おじさん、わたしは男だと、ちゃんと男だっ!」
「どうだか!人は嘘吐きな生きものだからなあ。直々に確かめてやる!」
「嫌だ、なっ、いやだっ!」
大きく叫んだあと一瞬カルシィは身体を硬直させた。
そのあと咽せるように酷く咳き込んでいた。
コホコホといつもの咳の発作だったが、カルシィの咳にも慣れてしまっている叔父は、苦しげな咳にも、チッと舌打ちしたぐらいだった。
そうして逆に、暴れないことをいいことに、乱暴な指がカルシィの胸を揉みし抱いていた。
咳が一段落収まったときには喉をゼイゼイと鳴らしながらも今度は悲鳴を上げなくてはならなかった。
勿論膨らみなどない、もむ肉など無い薄い胸だったが、痛むほど強くまさぐられて咳で潤んだ瞳が屈辱感も加わって、さらに滲むことになる。
ブラウニーにだって、わかっているはずだったが、彼の中に積もっていた鬱憤が今、目の前のカルシィに嗜虐的に吹き出そうとしていた。
「ふん。痩せているからなあ、まだ胸は女らしく育っていないのか?なら、下を見ればわかるな」
「や、やめて、やめてくださいっ、おじさんっ!」
叫べば咳が喉を突いてでる。
ろくに叫ぶこともできないカルシィの夜着の裾が捲り上げられて、桃が空気に晒されていくのがわかった。
細い少年の足は、それでも懸命に相手を退けようと暴れていたが、びしゃりびしゃりと何度となくいたぶるように、大きな掌に叩かれて痛々しく肌色を変える頃には勢いを無くしてぐったりとなってしまっていた。
抵抗が終わったことを蔑むように笑った男の手が、脚の付け根の下着に向かった。
どこまでが本気で、歪んだ心に支配される男がどのくらい少年の自尊心を砕けば満足したかはわからなかったが、カルシィにはもう限界だった。
悪ふざけにしても、誰かに下着を下ろされるなど、考えられなかった。
堪えられないよ!
そのとき、カルシィの脳裏に浮かんだのはーーー。
叫んでいた。大声で。今日、会ったばかりの人の名前だった。
「ロゼンっ、・・・ロゼン!」
思い浮かんだのが彼だけともいう侘びしいものだったからと、あとで当人に言い訳することになるけれど、ロゼンだった。
咳が溢れて、苦しかったが彼がすべての救いだとばかりに呼んでいた。
「助けて、ロゼン!」
怪しいと思った男だ。
自分で置き去りにした来たのに、家だって告げていないのに彼が、今ここにやってくるなどそんな都合の良い事があり得るはずがない。
大声で誰か知らない名を呼び出したカルシィに激情して振り上げられた手に、男の下でどこにも逃げる余地のないカルシィは目を固く閉じて奥歯を噛みしめる。やってくる衝撃が少しでも軽いことを願いながら。
けれど。
カルシィが殴られることにはならなかった。
いつまでたっても来ないものに、恐る恐る目を開いたとき、カルシィを待っていた光景は、あり得ないと思いながら望んだものだった。
「・・・どうして・・・ロゼン・・・?」
「また喉をゼコゼコ鳴らしてんのかよ」
馬鹿じゃないのかと、と言わんばかりの口調だったが今は腹も立たなかった。ただ、目を大きく溢れるほどに見張った。
部屋の隅の闇の中から黒い姿は湧いて出たのだろうか。
廊下からこぼれる明かりだけの暗い部屋でロゼンの黒い上下は溶け込んで、顔だけが浮かんで見える様子は物語の怪物のようだった。
にやりと不遜に笑う怪物は、叔父の手を掴んでいた。
だから振り下ろされないのだと知った。
「治療が必要だな、これは」
深く意味を考える暇もなく、精悍な顔がカルシィに寄せられてーーー。
数回。
ロゼンの呼吸がカルシィに送り込まれて唇は離れていった。
「楽になったか?」
「・・・うん・・・」
言いたいことは他にいっぱいあったが、とりあえず質問の返事を頷いていた。
嘘のように、魔法のように、またロゼンによってカルシィは楽に空気が吸えて吐けるようになったのだから。
「そりゃあ、良かった。せいぜい感謝しろよ」
恩着せがましくロゼンは目を細めて言うと、カルシィの上から腕を掴んで捻り上げているブラウニーごと一歩退き立ち上がった。
「だっ、誰だ、君はーーー」
容赦ない力に捻られて苦鳴の合間に誰何の言葉があがったが再び、苦痛の声と変えられた。
カルシィの身体に自由が戻っていた。
けれど、まだ事態を飲みこみきれず、呆然と見上げるだけだった。
「・・・だけど、どうして・・・」
小さな声だったが、大きな疑問だろう。するとロゼンが聞きつけて顔をカルシィへと戻していた。
「・・・おまえさ。さっさと呼ぶくらいの気、使えよ。俺は、出るに出れねえだろうが」
それはどういうことだろう。こういうことだろうか?
「いたの?・・・ずっといたの?」
間抜けな問いだとは思ったが、ロゼンの口ぶりではそう聞こえてしまうではないか。
「ああ」
重々しく頷かれた。
返事に目を見開くことになるだろうて。
「いつから!?」
「ああん?この屋敷に到着したのはおまえを尾行してだぞ」
「・・・ずっといたの?」
「バルコニーとか、その辺にな。だから言ってるだろ。出るタイミングを失って困っていた!」
「・・・そ、そんなっーーー」
一人で怖い夜だと丸まっていた時も、本当は一人じゃなくてその様子をロゼンは見ていたと言うのだ。呆然どころではなく、むくむくと浮かんできたのは怒りだろう!
「どうしてっ!」
「だから、わっかんねえ奴だな、おまえがタイミング作らないし、そうこうしているうち変なおっさんがやってくるし・・・」
と、言い訳がましく訴えていたロゼンだったが、腕に捉えていた件のおっさんが暴れだした。
「なんだねっ、君は、人の家に勝手にっ、覚悟しろ、警邏隊に付きだしてーーー」
「うっせえよ、おやじ」
身長はブラウニーと変わらない、いや、より背が高かったが細い。体重は三分の二ほどしかないだろうロゼンだったが、一瞬で片を付けた。カルシィがはね除けられなくて泣く思いだった男を、ただ掴んでいた腕を無造作に払ったようにしか見えなかった。
それで小柄ではない大の男が勢いよく壁にぶつかって行き、呻き声を上げて崩れ落ちていった。そのとき、叔父を放り出す直前、ロゼンの目は物語の怪物のように爛と一瞬輝くのを見たが、驚いただけで不思議とカルシィは怖いとは思わなかった。
それよりもそのあとだった。
「そんなことよりもだっ!おい、てめえっ、黙って見てりゃあ、くだらねえおやじになにされてやがるっ!馬鹿か、さっさと呼べや!」
カルシィは烈火の如くのロゼンに怒られて首を竦めていた。
「・・・だって・・・そんな・・・」
「だっても、クソもねえだろ!」
「そんなこと言ったって、居るっていわないなら呼ばないよ、普通っ、そっちがちゃんと最初からいるって言ってくれていればっ、わたしだってちゃんと!言わないそっちが悪いんじゃないかぁっ!」
「なんだと!」
「そうじゃーーー」
そうじゃなくてと、最後まで言えなかったのは、叔父を放した腕がカルシィの方に迫ってきたから、口答えをした自分は殴られるのだと思ったからだ。
「・・・でも、呼んだ。呼ばなくてももうあれ以上俺の堪忍袋は無理だったがな・・・」
ため息混じりのロゼンの声は、それまでとは調子を変えていた。
優しい声というより呆れたとか、そういう響きだった。けれど、見え隠れしていたのは、安堵感。
よくわからない、それに出てくるならもっと早く出てきてと不満を抱かずにはいられない相手だったけれど、カルシィの身を心配してくれたのはわかったのだ。
「ほれ、起きろよ、いつまでやってんだ」
殴られると思った腕に掴まって立ち上がったカルシィの緊張感はぷつりと途切れてしまったのだろう。
あまり覚えていない。
だけど、気がついたときにはロゼンにしがみついて、ロゼンの胸元を自分の涙でずくずくに冷たく濡らしていた。
そして。
「ああ、もうわかったから・・・すぐ出りゃ良かったんだよな、俺が悪かったよ・・・もう、いいだろ・・・」
困ったようにぼやくロゼンの掌がカルシィの背中に温かだった。




