3.
後ろを、自分を気にしつつ走ってゆく小柄な姿を見送るロゼンはくつくつと喉を鳴らしていた。
「前見て走らんと、コケるぞ~」
軽口はちゃんと聞こえたらしく、それからは前を向いて走って人ごみの中にカルシィの姿は呑み込まれて消えていった。
見えなくなるまでその場で立ち尽くして、ひらひらと手を振ってやっていたロゼンだったが、ふっとカルシィ専用の笑顔が消えると、まさに野性味のある黒い豹のような空気に変わっていた。
黒い豹みたいだと言われたことは初めてだったが、獣のようだ、なにかが違う、薄気味悪いと内容こそは違っていたが、知り合って時間がたつにつれ周りから一線を引かれて孤立していくのは、カルシィと同じだった。
同じ。
厳密には違う。
だけど、同じ。
同じ属性を持つ同じ時代の生き物の生き残りで、しかしカルシィとロゼンは別種の種族だった。
だけど無意識に互いに同じ空気を感じるから、もう本来生存すべきではない新しい世界のなかで暮らす古い個体が、同じ世界にあった者が身体にまとう空気、発する精気に反応しているのだ。
ひ弱いほうの種類であるカルシィ。昔なら粗暴で仲が悪い間柄だったとしても、今となったらその強い波動は唯一の拠り所だとは皮肉なものだったが、実際にカルシィはロゼンが近くに立ったことで身体が軽くなり、彼の呼気に触れたことで呼吸は楽になったのだ。
呪術とか薬草とか医術云々でなく。
もっと根本的なところで、カルシィにとって、ロゼンは救命物となるーーーということだった。
ロゼンではなくても、同じような存在であれば誰でもいいということになるが、それは何も知らないカルシィに言う必要のないこととロゼンは考えた。
もっとも、そういうロゼンも一年ほど前までは何も知らず、なぜか嫌われ追い立てられては牙をむいてフーフーと怒る日々を過ごしていたにすぎないのだ。まるで邪魔な野良猫扱いに。
だけどそれはもう遠い昔の話のようだった。
それからロゼンが迎えることになったこの一年。
ロゼンの生活も常識も大きく変わり、しかし、そこはもろ手を広げて迎え入れてくれた“里”だったが、逃げ出してきて、今がある。脱走する前に里で仕入れた知識と情報を元に、里の奴らよりも先に自分が見つけ出してやろうと思ったもう一方の一族の生き残り。
鼻をあかしてやろうという気持ちが先になって、嫁さん云々はあまり深くは考えてはいないことだった。
だけど、運と偶然の賜物を目前にしたとき気持ちは入れ替わってしまったのだ。
ロゼンは見つけた。
名前はカルシアラン。カルシィと呼ばれている。二親は死んで、親戚の叔父のところで暮らしているが、病弱で世話のかかるカルシィは鼻つまみ者扱いのようだ。
どれほどの価値のある存在か知らないで、蔓延る凡族のやつらは・・・。
腹立たしいような、しかし、そんな境遇だからこそ、自分の出現は、カルシィにとって大きな意味のあることになるのだから感謝しないといけないのかもしれないと思い直して笑った。
とにかくだった。
嬉しくて込み上げてくるのは笑みだ。
見つけた。まだ子供で、なりも男のようだったが、あれなら女になったとき、かなり美人になるだろうと断言できる。
見つけた。自分が先に、里の奴らの気配はなかった。里の奴らはまだカルシィの存在に気が付いていないのだ。
見つけた。
自分の花嫁。
ロゼンのものだ。誰にも渡さない、当然、里の奴らにもだった。
ロゼンの笑みは禍々しいほどに深まって、たまたま目を向けてしまった川渕の道を帰路に急いでいた男を酷く警戒した顔つきにさせた。
見ず知らずの男の人とキスをしてしまった。
それは、平和と普通を望む平凡だと己を分析しているカルシィにとって衝撃的なハプニングだった。
でもそれ以上に。
考えることに夢中になって、通りをずいぶん走り続けてしまい屋敷に戻っていた。
ロゼンから逃げようと少し走り出して、蹲らなくてはならない自分のはずなのに、気が付いたら家までずっと走っていて、少し足は震えた。心臓がどきどきと早く打って呼吸も上がっていたけれど、苦しい発作ははじまる様子はなかった。
こんなことは何時ぶりだろう。
力いっぱい走っても平気だったのは、五歳ぐらいまでのはずだった気がする。
それ以来、ずっとこのまま自分は弱ってゆくのだろうかという不安に苛まれて、そう遠くはない先、その不安は現実的な恐怖になるのだと思って、必死に考えないようにしていたことなのに。
それは、回避、できることなのだろうか。
よくわからないけれど、あの黒い豹のようなロゼンという人とキスすることで・・・?
「嫌だっ!」
ついベッドで叫んでいた。
嫌。
だけれど、嫌だからとさっくりと却下できないからこうして考え続けているのだとわかっていた。
嫌だ、なんで、男の人とキスしないといけないんだ!
と不満と訴える心の横にある冷静な部分が、もう一度、ロゼンに会えるだろうかと心配になっていた。
もう一度、キスするかなどと、からかわれて腹が立ってそのまま、フンと顔を逸らして帰ってきてしまったのだけど、もう一度キスしていたら、ロゼンが言ったように数日発作がない日々を過ごせられて、じゃあ、もっと何度もしたら?
毎日のようにキスしたら・・・どうなるというのだろうか。
でも、どうなるかという前の問題に、治療と割り切ろうとしてもカルシィの苦悶はかなり大きいだろうけれど。
「嫌だ嫌だいやだぁっ!」
今日は食堂で、夕食は上の空で早々に終えて、一人自室に戻っていた。広いけれどガランとして寂しい冷たいと感じさせる部屋のベッドにもぐりこんだが、まだ眠気は降りてはこなかった。
頭は冴え渡っていると思った。
興奮しているのだ。ロゼンのせいで。
会ったばかりなのに、名前をしていて、自分を嫁さん・・・などと言った少し怪しいロゼンが、キスなんてしたから。
キスなんかして、呼吸が楽になってしまったから。
もう頭の中がぐちゃぐちゃでなにがなんだかわからなくなっていた。
許可なくキスするような粗暴なロゼンなどにもう二度と会いたくないのか、そうじゃなくて自分は、彼に会いたいと考えているのか・・・。
自分の気持ちが自分でわからないなどという状況で、悩んで何度も寝返りをうっているうちいつの間にか、やはり久しぶりに走った疲れだろう。カルシィは眠りに落ちていた。
また、それもロゼンのせいだと思った。
このとき、カルシィはとても不思議で変な夢を見たのだから。
夢の中で、自分はもう少し大きくなっているとカルシィは思った。現実より長い腕、同じように頼りなげに白いけれどでも幾分かマシになっていると喜んだのだ。
なんだか不思議な世界だった。見たことのない大きな木々が立ち並んで、その上に広がる空はまるで緑色に見えた。
空気はとても甘くて身体が清んでいくような気がした。
カルシィはその不思議な光景の中で、白っぽい女の人の足首まで丈のあるドレスのみたいな服を着ていた。
そして、髪が長くなっていた。
今よりもとても長い。肩を過ぎて胸の前にこぼれてきているほどで、これには趣味に反するためどうしたことだと憤慨していると、誰かの声が聞こえた。
「・・・アラン、カルシアランっ!」
ああ、自分の名前だと、顔を上げてそちらを見て見ると途端にカルシィは余計、不機嫌にならなくてはならなかった。
間違いようなく、ロゼンだったから。
ロゼンも昼間に会ったときとは少し違う格好になっていた。服装がだった。少し上着丈が長く、なんだか物語の王子様の服装のように腰には銀色の細い剣を・・・。現実のロゼンも剣を持っていたが幅が広く飾り気のない実用的なものだった。
実用的な剣を振るう時とは、と考えるととても憂鬱なことになるのでやめた。
そんな現実とは少し違ったロゼンが、穏やかに笑ってもう一度、名を呼んだ。そのあとで戸惑うカルシィに大きな手が差し伸べられたのだ。
夢の中で馬鹿な自分は、カルシィの気持ちに反して、その腕に自分の手を重ねる。
強い力で引き寄せられた。
長身でかっちりとした体の大きなロゼンに抱きすくめられていた。
夢の世界の背が伸びて髪も伸びているカルシィはそれを喜んでいた。
そして自分を力強く、でもとても優しく抱きしめる相手の背にお返しとばかりにそおっと腕を回しそうになって、ベッドで苦悶に眉根を寄せていたカルシィは耐えられなくなって、悲鳴を上げて飛び起きたのだ。
嫁さんなんて発言を聞かされて、心に残っていた悪い邪気な言葉のせいで、悪夢を見てしまったようだ。
ベッドで身体を起こしたカルシィを包む時間はまだ朝にはなっておらずに、暗い夜の只中だった。
はう。
ため息を一つ、カルシィは再び掛け布の下に戻って身体を縮めた。
朝はまだだ。
だけど、冷や汗の出たほどの夢に眠気は吹っ飛んでしまっていた。長い夜になりそうだった。
眠れないと、今日のカルシィが考えてしまうのは、悪夢に現れたロゼンのことだった。
長くて嫌な夜になるのは確実だと、もう一度深いため息だった。