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夜の果てに  作者:
第一章
2/85

2.

「変態さん、さようなら」

 今度こそ、立ち去ろう・・・正確には逃げ去ろうとして邪魔をするように差し出されている足を飛び越えて駆け出していた。

 うまくいった。

 手が伸びたりしてこなかったので嬉しくて、良かったと喜びながらカルシィは土手を駆け上がっていた。

 走りながら首を捻じ曲げて見てみると視界の後ろの方で黒い姿はのんびりと慌てて追ってくる様子はなくその場からあまり動いてはいなかった。

 やった!そのまま、うまく逃げる!

 ことは、できなかった。

 河原から出る前に、カルシィは膝を折って地面に蹲り苦しむことになっていた。

 咳だ。

 呼吸。咳の合間に必死に呼吸を継ごうとするがゼイゼイと喉が鳴り、まともに吸うことも吐くこともできずに、ただカルシィは涙を流しながら泣き声も出せずに悶えるしかなかった。

 嵐は、過ぎるのを待つしかできない。ただじっと耐えるカルシィに悠々と近づく者がいた。ロゼンと名乗った黒い男だった。

 ゆったりと歩いて小さく身を丸めるカルシィの横に立った。

 涙の滲む目で必死に見ると、ロゼンは薄く笑っているようだった。苦笑だった。

「馬鹿だなあ。んなもん、そんなふうに走ったら、苦しくなるって自分でわかっているんじゃねえのかよ」

「お、まえが・・・っ」

 あとは言葉にならなかったが、それほどロゼンが危険と思ったのだ、おまえのせいだ、と精一杯睨みつけていた。

 動けない。だから、それが精一杯の抵抗手段。よくわからない、目的も得体も知れない相手の前で、自分は風前の灯なのかもしれない。

 でも、この咳より悪いことはあるのだろうか。

 すぐに思い知らされることになった。

 咳より悪いことはあった。かなり、厭で許せないことだった。

 最初、発作でいっそう呼吸が苦しくなって地面に額を地面に額を擦り付けて耐えなくてはならない自分を起こしてくれて、気遣ってくれるのかなと思った。違っても抵抗などできやしなかったけれど。

 ロゼンはカルシィの脇にしゃがむと腕を伸ばして震えて苦しむ細く小さな身体を抱き起こした。

「おい、大丈夫かよ」

 少し心配そうだった。

 しばらくすればきっと、治まるから、たぶん。優しさを見せてくれる相手に、言いたかった言葉だ。けれど、出るのは喉の冬のような音と咳と、涙ばかりだった。

 立てた方膝の上にカルシィを座らせて支えてくれていた。

 苦しい、苦しい。

 今日は少し楽だと思っていたけれど、急に張り切って走ったのは良くなかったと、心のそこから反省していた。結局、逃げようとした相手に手を借りてしまっているという情けなさと、逃げようとしたのに背を撫でてくれる掌の温かさに申し訳なさだった。

 でも、そんなもの必要なかった!

「馬鹿だなあ、ほんとに・・・。でも、まいっか」

 よくわからない、のほほんとした声で独り言を言ったロゼンは、そのあとどうしたか。

 怒髪天を突く、だった!

 動けないことをいいことに、ロゼンは。

 カルシィは片手で倒れないように肩を支えられていた。

 もう一方の手の長い指がカルシィの顎を軽く摘まんで、上を向けさせた。

 あれ、なに、と思ったが、思うだけでそれ以上の余裕はなかった。

 だから、カルシィの唇は、呆気なく相手の唇に重ねられてしまったのだ。

 接吻。

 ファースト・キス。

 黒い豹みたいな、会ったばかりの男と!

 冥府に沈みこんでしまったのような永遠の氷の時間。

 本当にカルシィが感じたほど長いものだったか、どうかは知れなかったが、なんとか。

 なんとか、相手の頬を爪を立てるようにして自分から引き剥がしたカルシィの顔は真っ赤だった。咳の発作で涙を流して、抱き起こされる前にももう赤くなっていたが今の赤さはそれにも増して、怒りだ!


「なにするんだっ!」

「何って・・・、知らんのか?」

 カルシィを怒らせようとしているわけでなく、素直に疑っているのだろうと思わせる表情で問われると、余計に腹が立つというものだろう。

「子ども扱いするなっ、そ、それくらい知ってるさっ」

「じゃあ、何?」

 反対に質問されてしまいカルシィは、腕を組んでどこまでも可愛げのないロゼンに、答えないと馬鹿にされると、口にするには恥ずかしい言葉を敢然と答えていた。

「キスだっ、訊くな馬鹿!そんなことを言っているんじゃないっ、なんでこんなことをするんだっーーー」

 自分のファーストキスが男。

 嫌がらせにも程があった。悲しすぎて、涙がだくだくと止まらないだろう。

 カルシィの少年らしい憧れと夢を踏みにじったロゼンは、その怒りすら一向に意に返さないという態度で、声だった。

「何って。知ってるなら訊くこともないだろうに、それに目的だって、訊かんでももうわかってるだろうに?」

 面白そうにふざけたような言われて、怒鳴り返そうとしたカルシィだったが寸でのところで踏みとどまっていた。

「え・・・嘘だ・・・」

「もう咳は止まった。もうそれほど苦しくもないよな?」

驚いている自分を見て、にたにたと笑っているロゼンの顔には腹が立ったが、カルシィには信じられないことだった。

 こんなに簡単に咳が止まって、楽になるなんて。

どんな薬も利かなかった。カルシィの母親の妹がこんな咳をよくしていて、二十歳になる前に喉を押さえながらのたうって死んでいったと聞いていた。母も咳は妹ほど酷くはなかったが、身体は同じように丈夫ではなくて、カルシィを生んでしばらくして死んでしまったのだ。だから、カルシィは母親の顔を覚えてはいなかったが、確かな不安感として母親に抱きすくめられている。自分も大人にはなれないのではないのか、大人になっても長くは生きられないのだろうと。

 そんな咳が、たかがキスで。

 急に、憧れのから、たかがと形容詞が変わっていた。

「呪術師さま、か・・・薬師さま・・・なの?」

 怒りは神秘の力に取って代わって、カルシィを掻き立てる。

「口の中に、なにかの味が残っている、微かだけど。薬草?そんなかんじがするものだ・・・」

 薬を調合したものを口に含んで、気がつかなかったけれど、そういう類のキスだったのだろう!

 しかし、カルシィの想像はあっさりと否定された。

「おまえ、女みたいなだけあって、想像力豊かだな」

 褒められたのか貶されたのか微妙に判断つかなかったが、今の問題はそれではなかったから、追求はしない。

「じゃあ・・・信じられないけど・・・魔法使い・・・?」

 呪術師の上の地位に魔法使いという存在が、伝説のように存在するが、もちろん、カルシィがお目にかかったことなどない。この街で魔法使いに会ったことがある人間が果たしているか、そんな稀な存在すら怪しい存在だったが、これも「俺は黒いフードはかぶっていないし杖も持っていないぞ」と鼻であしらわれた。

「じゃあ・・・なに・・・どうしてなの・・・」

「おまえ、いいのかよ、帰らなくて。日が沈むぞ」

 カルシィの質問に無視したロゼンは深い緑色の目は意地悪そうに茜色のから暗みを増しはじめた空に向けられてしまう。

「あっ・・・そうだけど。でも、このままではっ・・・」

 わけが知りたかった。

咳を止める方法があるなら知りたかった。

 自分たちは知らなかったけれど、代々に受け継いでいる苦悩から楽になれる手段があるのなら是非とも知りたかった。

 けれど、ロゼンにはそんなカルシィの切実な思いは通じないのだ。欲しい答えではなく、与えられたのは

「もう一回、キスしてやろうか。そうすれば数日間ぐらい咳に苦しむことないかもな」

 垂涎の誘惑はあったが、理性もあった。

「嫌だね、誰が!そもそも、あんなふうに無理やりしたの許してないからね!・・・ふざけるにも程があるよ、あなたにはどうでもいいことかもしれないけど・・・わたしはっ、男とこんなところで、わたしまで変態だとおもわれてるよっ・・・」

 途中からは声も小さくなって、文句ではなく周りを気にしながらの愚痴だったが、しっかり聞かれたようだ。

「ははん。安心しろよ。男同士なんて思われないさ、正当に男女だと思われるだろう、おまえなら」

「失礼な!」

我慢もそれまでで、つい怒鳴ってしまったカルシィにロゼンなケラケラと楽しげに声を上げて笑った。

 感じが良いとはいえない相手だったけれど、あまりに無邪気に笑うからカルシィは毒気がぬかけてしまった。


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