19.
ロゼンの突き付ける無理難題に承諾する。
頷く。
嫌だと強ばった顔をしているそばから、カルシィはいいよと言い出す。
ロゼンには信じられないことだった。
自分ならそんなこと意地になって拒絶するだろう。絶対そんな風に意思は変えない。
一つ信じられないと思ったとき、すべてが信用できなくなっていた。
するりとロゼンの口からとびだした言葉だった。
「———誰でもいいんだろ、どうでもいいんだよな、本当は!」
苛ついた。軽く見られている気がした。
カルシィは自分の思いを翻してまで、ロゼンの言うことに従おうとしているのだけれどロゼンにとってそれは、自分のことなど心のうわべでしか考えていないように感じたのだ。
真剣に向き合ってなどいないとーーー人間臭い半端者だからーーーロゼンのことなど。
「なんで、そんなに怒ってるか、わかんないよっ・・・」
カルシィにしてみたら、高い崖から飛び降りてみるような決断だった。
空底ではなく、自分をうまく受け止めてくれる豊かな水面があると信じても、はじめての冒険は不安と恐怖が込み上げてくるものだけれど、ロゼンがそう言うから。
「馬鹿じゃねえのか、おまえっ!」
「馬鹿じゃないもんっ」
「小せえ頭んなか、なんも考えてねえんだろっ」
「考えてるよ、ちゃんと考えてるもんっ!」
考えて、嫌われないようにしている。邪魔だ、荷物だと言われたりしないように。
カルシィが必死になって、惨めな気持ちをさらけだして、そう伝えたときロゼンは憎々しげに笑っただけだった。
やっぱりだと、言いたかった。思った通りだ。
じゃあ、もっと楽にカルシィを運べる力持ちが現れたときは、どうなるんだろうか!
ロゼンにとってそれはただの例え話ではなくなってくる。
カルシィが求める力持ちとは人間臭くない奴らではないのか。里の者だ。
追われて、自分たちは逃げているつもりだったがロゼンの独りよがり、そう、ここにある現実はまったく違うのではーーー。
ロゼンは思った。こいつは、奴らにこそ、もっと嬉しそうに尻尾を振るのではないのか!
目の前にいるのに、取られそうな気分になっていた。
目に見えない奴に盗られかけているのだ。
里の者に奥にいるのは、———ひどく背中が寒かったーーー若王だ。
どんな奴だったかやはり思い出せなかったが、姿のない相手の脅威はどんどん膨れあがって大きくなっていった。
どうしたらいい。どうすればいい。
誰かに取られないようにするためには、自分が見つけたのに、自分のものなのに。
こういうとき、相手が女なら簡単だと思った。
ロゼンは、にいっと唇をいびつに歪める。
女じゃないけれど、同じものだと思った。
自分はできる。問題は無いようだった。
難があるのはカルシィの方で、こいつは弱っていてヤったら、死んじまうかもと思った。
でも取られて、失って爪を噛むことになるくらいなら、いいと思った。
本人だって、今、いいって言ったばかりじゃないか!
ロゼンは濡れそぼったカルシィの頬をべろりと舌を出して舐める。涙を拭ってやった。
カルシィは硬直していた。間近なロゼンの顔が変わっているからだ。
頬に固く尖ったものが当たった。それはロゼンの長く伸びた牙。
目も違う。瞳の色が赤みを帯びていて、それはロゼンではなかった。姿を変えたロゼンを見たことはあるけれど、これはあの夜のロゼンでもないとカルシィは感じた。
これは、知っている。酒の匂いをぷんぷんさせて、夜更けにカルシィの部屋に怒鳴り込む叔父の目、狂っている!
狂ってる!
「嫌だ!」
急に自分を押し退けようと暴れ出したカルシィに、ロゼンは喉で笑う。
「そら、どうするつもりだ、俺を押しのけれると思っているのか?」
無駄だと明らかなのに、やっぱり考え無しがやることだった。馬鹿だと、思い知らせてやるためにロゼンは上半身を起こした。
「片手だ、やってみろよ」
左手を伸ばして、カルシィの肩を指先でベッドに押さえる。それでカルシィなど十分だった。両手を掛けて外そうとしているが逃れられやしないのだ。
空いている右手。
なんだってできる。
ロゼンは、ぐふりと込みあげた嗤いを噛みころす。
今、ロゼンは絶対者だった。
大っ嫌いな目だった。
カルシィを蔑んで、酒に呑まれて正気を失った叔父ブラウニーのような。
譲れない最低線に抵触していた。
ロゼンの要求はまだ許せても、カルシィにだって受け入れられない矜持というものがあった。ロゼンがまだ知らないだけで。
カルシィだって怒るのだ。
怒ったカルシィがしたことはーーー。
力に負けて、ロゼンの手をはね除けることはできなかった。
でも、カルシィなど歯牙にもかからない、警戒する必要もないと舐めきってるのでその手を引っぱってずらすことはできた。そうなったときカルシィにもやれることができる。
攻撃。
ぱくっと。
口を開いて、ロゼンのような牙はないけれど、ロゼンの手に噛みつく!
むぎっと力一杯、カルシィはロゼンに噛みついたのだ。
相手がちっぽけで、ひ弱いカルシィなので、少々意外で驚いたが、腕にほんの少し力を込めて振り払ってやればすむことだった。
噛むといっても牙はない、たいした力もないのだ。と思った瞬間、ぐらりとロゼンの上の天井が揺れた。
そして有無を言わさず大きく回りだした。
「こういうロゼン、嫌いっ!」
ロゼンの力が緩んだことをカルシィは見逃さず、子ねずみの素早さでロゼンの下から抜け出していた。
ふっと立ち止まったのは乱れた髪や衣装を正す間だけで、そのあとはロゼンを振り向きもせず部屋を跳びだしていった。
「待てっーーー」
ロゼンは叫んだつもりだったが、実際には声は出ていなかった。
何が自分の身に起きているのか、ロゼンにはわからない。丈夫なロゼンはこれまで目まいなど経験したことはないのだ。
目まいだけではなかった。ロゼンの視界に闇が広がってゆく。
ずるりと傾いた。
どこかでどさりという音が聞こえた。
顔の横にある茶色の寄せ木の面は部屋の床なのだと知ったとき、ロゼンは自分の身体が横倒しにベッドから落ちて、床に伸びているのだと気づいた。
体が動かなかった。指一本が動かせなかった。ロゼンは目を開いたまま、気絶した。




