18.
人の話や情報に聞いて、識っているけど行ったことのない街。
そんなところに自分が行くあてなどまったくなかった。
だから、レムはカルシィにとって物語にあるだけの空想の街と同じだったのだ、数日前までは。ロゼンに会うまでは。
でも、ロゼンに出会ってからカルシィの生活は大きく変わった。
性格が悪くて、口も悪くてきついこと言うけれど、でも結構ロゼンは優しいのだ。
最初は嫌がったけれど、頼んだら許してくれた。
レムの街にゆけることになって、街について嬉しかった。
嬉しくて、もう本当に夢のようで、はしゃぎすぎてしまった自分は、現実に厳しくたしなめられた———。
でももう、平気。
「・・・苦しく、ない・・・」
嵐は去っている。
意識を取り戻したカルシィが目を瞑ったままじっと窺ってみた自分の体からは、不調は訴えられておらず、ほっと安心して目を開けて、ぎょっとした。
こんなことは前にもあった気がするけれど、今度はもっと近い。ずっと近い。
目を開けてみたら、目の前に自分を見据えて微動だにしない目———これはカルシィでなくとも心臓が竦みあがるはずだろう。それがたとえ知っている者の顔であっても、だ。
「ベッドが一個しか、ねえんだよ」
「・・・ベッド?」
言われて状況を思い出していた。
「レムは相場が高い。部屋も高い」
「あ・・・そっか・・・」
無頓着でいた街の弊害を突き付けられて、恥ずかしくなってカルシィは首を竦めた。
これではロゼンにまた馬鹿と言われても文句が言えなかった。
縮こまってみると、一層だった。すぐ横に身体を横たえているロゼンの大きさが、威圧感のように感じた。
カルシィの心の動揺が顔に出て、ロゼンに知られたのか、ロゼンが言う。
「俺も疲れてんだよ。一日中誰かを負ぶって歩いてさ」
「・・・うん。・・・そう、だね。じゃあ、もうわたしは平気だから、ベッド、一人でゆったり使ってね」
逃げるように起きあがろうとしたカルシィだったけれど、ロゼンの方が早かった。腕を掴んでさせなかった。
浮かべた笑顔はすぐに消えて、カルシィの白い表情を強ばらせているのは恐怖感だった。
ロゼンはにこりともしない。とっても怒っているようだった。
少し喋られるようになったと思っていたけれど逆戻りだった。
「・・・怒ってる・・・?」
「何を?」
「だから・・・歩かなかったこと・・・」
「べつに今日に、はじまったこっちゃねえだろ、そんなの」
そうだね、とカルシィは小さく頷いた。
ロゼンが言う通り昨日も一昨日もロゼンにおんぶして貰っていた。
「じゃあ・・・レムに来たいて言ったこと・・・」
ロゼンの反対を聞き入れず、主張したのは自分なのに、早々に人に酔って気分を悪くしていた。
治まれ治まれと密かに、必死にロゼンの背中で祈っていたけれど、願い虚しく喉が鳴り咳が出はじめた。呼吸が苦しくなってもうロゼンに取り繕うこともできないほど酷くなってしまって途中からは記憶も途切れ途切れというというありさまだった。
「・・・べつに。そんなけおまえは、来たかったんだろ?」
言われれば、すぐにうんと頷くことだったけれど、ロゼンの声は温かさがなくて、肯定されても責められている気は拭えなかった。
「・・・ごめん・・・怒らないでよ・・・。反省してるから・・・今度からあまり、我が儘言わないようにするから・・・」
嘘ではない。本気で言っていた。
けれどカルシィの言葉を聞いたロゼンは余計に腹を立てたようだった。腕を掴んだままになっている大きな手に力が籠もった。
「い、痛いよっ・・・ロゼンっ・・・」
「俺は怒っている。おまえに腹が立っているんだーーー」
訴えにロゼンの指の力はすぐに緩んだけれど、カルシィの泣きそうな顔は救われるどころかそのままで硬直していた。
氷のような冷たい声。
「だから、ヤらせろ」
氷のように冷たさを通り超して、痛みだった。
「ーーーって言ったら、おまえ、いったいどうするんだ?」
「意味、わからねえか?」
ロゼンはカルシィを捉えていた腕を放すと、細い背中に回した。
軽い身体は羽の詰まった枕を引き寄せるほど簡単にロゼンに寄った。
腕を付いて身体を起こしたロゼンが、体の下に覆い被さる形になったカルシィに額を寄せる。ロゼンは笑っていた。
「よくわかんねえこと、ぐちゃぐちゃあるけどさ、べつにこのまんまだって十分、愉しめるんだよな。俺にとって、ようは、突っ込めればいいんだ。———ガキっぽくても言っていることわかるんだろ? 答えろよ」
「・・・わかる、・・・少し、だけど・・・」
「そりゃあ、よかった。面倒な説明しなくていいわけだ。でーーー返事は?」
「・・・返、事・・・?」
「ヤらせろ」
「・・・」
「気晴らしに、ヤらせろ」
「・・・うまく、・・・できないかも、しれない、から・・・」
「おまえは転がってりゃいいんだよ。俺が勝手にやる」
「・・・でも・・・」
「キスする仲だろ。さっきもおまえ、寝ていたけどさんざんしたぜ。舌も入れた」
酷く浅い呼吸しかしていなかった。そのうち息をするのを止めるつもりなんだろうかという口を開かせて、何度も呼気を吹き込んでみた。
詳しいことなどロゼンにわかるはずがなかったが、自分のやっていることはこれで間違ってはいなかったと言うことはカルシィの苦悶の表情がとれて、呼吸も安定して静かな眠りになっていったことでわかった。
その間、ロゼンが一人どんな思いをしていたか。
自分の呼吸だって、普段どうやってしていたか思い出さなければできないような不安に支配された恐慌状態だったのだ。
こいつはこのまま死ぬのか?
———湧き起こった素朴な疑問に答えてくれる者など誰もいなくて、ロゼンは一人で、考えて悩んで、苦しくて。
「なあ、答えろよ!」
苛立っているロゼンの声は強くなった。
「・・・うん・・・わかった・・・・・・うん、いいーーー」
反対に消え入りそうなカルシィの声は。
「答えんじゃねえっ!」
ロゼンの激しさに弾きとばされていた。
カルシィは怯え、びくっと身体を震わせたが、ロゼンはそれすらも腹が立った。
「おまえは、卑屈なんだ!」
怒鳴りつけていた。
「鼻につく、ムカつく、卑屈なんだよっ!」
見ていて苛々する理由がわかった気がした。
卑屈、こっちの顔ばかり窺っている。
それはある意味、優越感に浸ることができて、人によっては嬉しく感じることになるかもしれないけれど、ロゼンは違うのだ。
ロゼンにとってより楽で、ロゼンがもっと居心地のいいもの、求めているものは、自分と同じという対等さだったのだ。
大きさのことじゃない。小さくたっていい。しかたない。
でもただ態度が、これはしかたないではなく、もっと自由になるはずなのに、どうしてわざわざこんななのか!、ムカつくのだ。とってもムカつく!
このカルシィという生き物は自分を居ても立ってもいられない心地にする!
でもそれはカルシィの所為ばかりではなかった。誰かの横にいることが慣れないロゼンの苦痛だった。人付き合いが不慣れで順を追った交流ができていないロゼンが一足飛びに体験しているから、心が追いつけなくて対処できないのだ。だから気分が疲れ切って悪くなる。
苛々する。苛々するけれど一緒にいたいと思っている。
一緒にいることを深く望んでいても、苛つき腹は立ってしまう。ループしてしまうのだ。
「おまえ、ヤらせんのかよっ」
頭の横を力一杯叩きつけていた。感情のままの大きな手はカルシィの頭など軽く潰しかねない勢いで、古いベッドは揺れるほどに軋んだ。
「怒らないでよ・・・怖いよっ」
カルシィにはどうしていいのかまったくわからなかった。泣きたくなっていた。
「泣くんじゃねえ!泣いて、何かかわるのか、泣くぐらいならなんか言え!」
「・・・怒らないで・・・」
余計に火に油を注ぐことになっても、他に浮かばないのだ。
「泣くな!」
「怒らないでっ」
不毛な繰り返しのなかで、カルシィの両目から涙が溢れ出していた。だくだくとすべやかに丸い頬を伝ってシーツに落ちてゆく。
「馬鹿、泣くんじゃねえっ」
ロゼンだって、言いたい。泣きたかった。




