誘われたから、水谷さんと飲みに行った。
ある朝。
出勤前。
口裂け女から話しかけられた。
「忙しいの終わったって、本当ですか……?」
スーツに着替えながら、答える。
「うん、多分ね」
「やったーー!!」
口裂け女が、
いつもの調子で大喜びする。
「……朝からうるさいなぁ」
思わず顔が綻びそうになるのを、
なんとか隠す。
「すみません!!」
何度したやり取りだろうか。
口裂け女は、謝罪の声まで大きい。
でも。
本当に可愛い。
今日は絶対、
早く帰ってこよう。
「早く帰ってくるんですよね?」
「うん」
「ご飯作って待ってますね!」
「ありがとう」
「何が食べたいですか?」
口裂け女は、スマホを覚えてから、
料理にハマったらしい。
色々な料理に挑戦している。
……ただ。
結局、異様なほどの
肉じゃが率は変わらなかった。
「……肉じゃが以外ならなんでもいいかな」
「……酷いです」
口裂け女がしょんぼりする。
慌てて言い直す。
「嘘だよ」
「ですよね!」
口裂け女の表情がぱっと明るくなる。
「じゃあ、今日は肉じゃがです!」
今日もだろ……。
心の中で思いながら、
「うん、わかった」
そう返事をして、
準備を続けた。
……
玄関で靴を履く。
「なるべく……早く帰ってきてくださいね」
口裂け女が上目遣いで見つめてくる。
……本当に慣れない。
俺は分かりやすく目を逸らしてしまう。
「……善処するよ」
「善処してください!」
そこで——
不意に、俺の頭に疑問が浮かぶ。
……遅くなったけど。
そろそろだよな。
「——ところで、お前の本当の名前ってなんなの?」
「……え?」
「だから、お前の名前……」
「……」
無言。
口裂け女の表情が、一気に暗くなる。
聴いたらまずかったか?
「いや、言いたくないなら——」
「……覚えてないんです」
「え?」
覚えてない?
なんで?
「実は……人間の頃のこと、あまり覚えてないんです」
え、肉じゃがのことは覚えてるのに……。
「……」
「私のことは、“お前”で良いです」
「……」
「私は、それで“十分”です」
口裂け女が微笑む。
……。
でも。
どこか、寂しげだった。
「じゃあ、思い出したら言ってね」
口裂け女がキョトンとする。
「へ?」
「名前で呼びたいから」
口裂け女が少し考える。
そして、
大きく溜息をつく。
やれやれ、と言わんばかりの顔。
だが、明らかに嬉しそうな表情だ。
「……仕方ないですねぇ」
「約束だよ?」
「はい。約束です」
指切りをする。
固く。
……。
そして。
名残惜しいが、
指を離そうとする。
……離れない。
口裂け女が、まだ俺の指を握っていた。
軽く引くと、
ようやく指が離れる。
口裂け女が、恨めしそうに睨んでくる。
俺は家を出た。
「じゃあ、いってきます」
「いってらっしゃいです!」
口裂け女が見送る。
背中に視線を感じる。
多分、俺の背中が見えなくなるまで見てる。
俺は振り返らない。
必死に、振り返りたくなる気持ちを抑えて。
会社に向かった。
◇
繁忙期を終え、
徐々に仕事が落ち着いてきた。
会社では、みんなの雰囲気が心なしか和らいでいる。
ちょっとした打ち上げムードだ。
だが。
俺には関係ない。
ロッカーに荷物を置き、
デスクに座る。
すると。
朝イチで、水谷さんから話しかけられた。
「佐々木さん、おはようございます」
丁寧にお辞儀する。
「あ、水谷さんおはよう。」
あれから水谷さんは、よく話しかけてくる。
会社の話や、テレビの話。
SNSや、好きな曲の話なんかも。
とにかく、色々話しかけてくるようになった。
水谷さんは会社内で評判が良い。
美人ということもあるだろうが、
誰にでも親切なので、社内で男女問わず人気があった。
そのため、水谷さんに話しかけられるようになってから、
やたらと同僚から睨まれることが多くなった。
俺は何も悪くないのに。
「今日の夜、空いてますか?」
「え、今日?」
口裂け女の顔が浮かぶ。
だが、予定があるというわけではない。
「空いてると言えば空いてるけど、なんで?」
水谷さんがモジモジし始める。
「……この前、仕事手伝ってもらった時あったじゃないですか」
「ん?」
「ほら、朝まで残ってくださった時の……」
「……あー、あったね」
「それで……その時、お礼するって言ってたと思うんですけど」
そういえば、そんなことを言ってた気がする。
死ぬほど疲れてたから、全然覚えてなかった。
「言ってたね。でも、大丈夫だよ」
「いや、でも……」
「困ったときはお互い様だよ」
「……」
水谷さんが黙り込む。
そして。
「いえ、お礼させてください!」
少し大きな声で凄んできた。
思わず、ビクッと反応してしまう。
「あ、すみません……」
「いや、全然……でも別にいいのに」
「そんなわけにはいかないです」
「うーん……」
「それと……佐々木さんとは、
一度しっかり話してみたかったので……」
「……」
周りの男性社員の目が、俺に集中する。
やめて。
俺が何かしたか。
「今日の夜……一緒にお食事でもどうですか?」
「え、俺と?」
「はい……ダメでしょうか……?」
水谷さんの目が潤い、
俺を見つめる。
そして。
周囲の男性社員の目が、さらに険しくなる。
どうすれば良いんだ。
とにかく。
この場から逃げたい。
多分……。
断っても長引くだけな気がする。
早く、この時間を終わらせたい。
「……わかった。じゃあ今日の夜で……」
「本当ですか!?」
水谷さんの表情が、一気に明るくなる。
「うん。本当。だから、もう自分のデスクに戻って……」
「はい!ありがとうございます!」
軽やかなステップで、自分のデスクに戻る水谷さん。
だが。
俺へ向けられる男性社員の目線が、
軽やかになることはなかった。
なんなら、重くなった。
複数の舌打ちの音が聞こえる。
ふざけんな。
その時、
スマホが震える。
手にとって確認する。
◇
(メッセージ)
口裂け女
「今日は肉じゃがですからね!」
「楽しみにしててください!」
◇
スマホの画面を下に向ける。
……。
喉元まで上がってきた溜め息を、噛み殺す。
もう。
これ以上、
男性社員達の機嫌を損ねたくなかったから。
……
ようやく。
昼休憩。
今日はとことん、肩身が狭い。
水谷さんからの視線を感じるし、
男性社員達も一切俺に話しかけない。
目で攻撃してくる。
そのため。
パソコンの画面を覗き込み、
ひたすら仕事に集中した。
昼休憩は、
休憩室でコンビニで買ったおにぎりを食べていた。
その時、携帯が振動する。
「あ……」
とんでもないことを思い出す。
口裂け女のメッセージを、しばらく返していなかった。
恐る恐る、携帯を確認する。
【 通知:999件+ 】
しまった……。
完全に忘れていた。
数自体は問題じゃない。
よく見る数字だ。
問題は、長い時間返さなかったことだ。
しかも。
今、また振動した……。
心臓がキュッと締め付けられるような感覚を覚えながら、
メッセージアプリを確認する。
◇
(メッセージ)
……
口裂け女:
「ねえ」
口裂け女:
「ねえ」
口裂け女:
「ねえ」
口裂け女:
「もうお昼ですよ」
口裂け女:
「お昼にはいつも返してくれるじゃないですか」
口裂け女:
「もしかして、何かありました?」
口裂け女:
「あ、既読つきましたね」
口裂け女:
「もしかして、返せない状況にあるんですか?」
口裂け女:
「大丈夫ですか?」
口裂け女:
「私の大切な同居人を傷つけるなんて」
口裂け女:
「許せません」
口裂け女:
「今、助けに行きます」
佐々木:
「やめて」
口裂け女:
「返せるじゃないですか」
口裂け女:
「本人ですか?」
佐々木:
「本人です」
佐々木:
「だからやめて」
口裂け女:
「信じられません」
佐々木:
「信じて」
佐々木:
「てか会社の場所知らないでしょ」
口裂け女:
「知りません」
佐々木:
「どうやって来るの」
口裂け女:
「ローラー作戦です」
佐々木:
「何それ」
口裂け女:
「総当たりとも言います」
佐々木:
「本当にやめて」
佐々木:
「お願いです」
佐々木:
「やめてください」
口裂け女:
「この嫌がり方は」
口裂け女:
「本人な気がしてきました」
佐々木:
「信じてくれてありがとう」
口裂け女:
「まあ」
口裂け女:
「そんなことはいいんです」
佐々木:
「そんなことはいいんだね」
口裂け女:
「今日は肉じゃがですよ!」
口裂け女:
「昨日、良いレシピを見つけたんです!」
口裂け女:
「いつもよりさらに美味しく作れるかもです!」
佐々木:
「ごめん」
口裂け女:
「ん?」
口裂け女:
「どうしました?」
佐々木:
「今日、会社の飲み会入っちゃった」
口裂け女:
「え?」
佐々木:
「だから、今日は遅くなる」
口裂け女:
「え?」
佐々木:
「だから、今日は先に食べて寝てて」
口裂け女:
「え?」
佐々木:
「ごめん」
口裂け女:
「え?」
口裂け女:
「え?」
佐々木:
「ごめん」
口裂け女:
「え?」
口裂け女:
「え?」
口裂け女:
「え?」
佐々木:
「本当にごめん」
口裂け女:
「……」
口裂け女:
「わかりました」
口裂け女:
「気をつけて帰ってきてください」
口裂け女:
「肉じゃが作って待ってます」
佐々木:
「寝てて良いのに」
口裂け女:
「嫌です」
口裂け女:
「起きて待ってます」
佐々木:
「ごめん」
佐々木:
「今度、絶対に埋め合わせするから」
……
◇
口裂け女の返信は、そこでピタリと止まった。
スマホをポケットに仕舞う。
心が痛い。
口裂け女に申し訳ない。
早く帰ると話していたのに。
……でも。
水谷さんは別に悪くない。
俺が全てを招いた。
俺の責任だ。
決断力が弱い。
……。
胃の中がグルグルする。
「うっぷ……」
吐きそう。
いや……切り替えるんだ。
次の休み、口裂け女を
美味しいパンケーキにでも食べに連れていこう。
それで、
帰りに服でも買ってあげよう。
いつも同じ服ばっかなんだよな。
……似合ってるけど。
……可愛いから。
今はとにかく、
明るい未来のことを考えよう。
拳を固く握りしめる。
よし、大丈夫だ。
だが。
気のせいか。
手が震えていた。
止まれ。
……ダメだ。
むしろ、さっきより震えている。
……。
◇
終業後。
残業も無く、俺は仕事を終えた。
水谷さんも同じようで、
仕事終わりにそのまま一緒にオフィスを出る。
「何食べたいですか?」
水谷さんがニコニコしながら聞いてくる。
「うーん……俺はなんでも良いかな」
「じゃあ、焼き鳥とかどうですか!?」
焼き鳥。
久しく食べていない。
ありがたい提案だ。
「いいね。じゃあ焼き鳥で」
「分かりました!」
水谷さんがスマホを開く。
「近くに、オススメの焼き鳥屋さんがあるのでそこに行きましょう!」
「ごめんね。何から何まで」
水谷さんが首を振る。
「私が誘ったので、私にさせてください」
真っ直ぐな目で俺を見つめ、微笑みかけて来る。
「……ありがとう」
水谷さん。
人気があるはずだ。
不覚にも、
少しドキッとしてしまった。
だが。
ふと、その時——
口裂け女の悲しむ顔が浮かんだ。
……。
本当に俺は。
どうかしてる。
自分のことが、よくわからない。
◇
焼き鳥屋。
「お疲れ様です!」
「お疲れ様。」
グラスを合わせ、乾杯をする。
「じゃあ適当に頼んでいきましょう!」
「うん。ありがとう」
「佐々木さんは何か食べれないものありますか?」
「特にないよ」
「よかったです!」
「ここ、すごい美味しそうだね」
「美味しいですよ〜」
「水谷さんのオススメは?」
「断然、ねぎまです!」
「おーいいね」
「私、ねぎま大好きなので、いっぱい頼んで良いですか?」
「勿論。俺ももらって良い?」
「当たり前じゃないですか!いっぱい食べましょう!」
水谷さんが笑う。
俺も釣られて笑う。
◆◇
その頃。
家で。
……。
「ふう……掃除って、一度やり始めると本当に止まらないですね」
あの人が帰るのが遅いとわかって、家の掃除をすることにした。
普段から掃除はしているけど、今日は特に気合を入れる。
床を水拭きして、窓の縁の黒ずみも、
ツルツルになるまで綺麗にした。
棚の上に積もっていた埃も、雑巾で丁寧に拭き取る。
テレビの裏。
冷蔵庫の横。
普段はあまり目につかない場所まで、今日は念入りに掃除した。
最後にカーテンを開けて、部屋の空気を入れ替える。
春の風が、部屋の中をゆっくりと通り抜けていった。
あの人に、少しでも喜んでほしかった。
家が綺麗だと、心まで綺麗になった気がする。
きっと、あの人も同じはずだ。
あの人も、もともと部屋は整頓されている方だった。
だけど。
仕事で家を空けることが多くて、最初は家中に埃が溜まっていた。
でも、私が来てからは、だいぶ綺麗になったと思う。
それが、なんだか嬉しい。
掃除が終わり、
次は料理の準備をする。
あの人は、私の作る料理をなんでも美味しいと言って食べてくれる。
私が肉じゃがが好きだから、ついそればかり作ってしまう。
あの人は、多少思うことがあるみたいだけど、
それでも毎回、美味しいと褒めてくれる。
それが本当に嬉しかった。
もっと褒めてほしい。
もっと喜んでほしい。
だから。
スマホで見つけたレシピを、さっそく試してみることにした。
これで、
あの人が私の作る肉じゃがをもっと好きになれば、
きっと、私のことも……
……。
考えるのをやめた。
時計を見る。
きっと今頃、会社を出た頃だろう。
今は、とにかく料理だ。
昨日見つけたレシピのページは、どこだっただろう。
見失ってしまった。
まだ、どうにも使いこなせない。
あの人が言っていた。
ネットで見つけたページにすぐ飛べる、
“ぶっくまーく”というものがあるらしい。
今日帰ってきたら、教えてもらおう。
しばらく探していると、意外とすぐにページは見つかった。
……。
昨日見たから知っているけど、
手順はいつもより複雑だし、使う材料も少し多い。
だけど、美味しく作れるなら別にいい。
あの人。
早く帰って来ないかな。
早く、私の料理を食べてほしい。
◇◆
……。
水谷さんは、よく喋る人だった。
会社で話すようになってから、結構喋る人なんだとは思っていたけど、今日はその比じゃない。
お酒が入っているからかもしれない。
水谷さんは自分の話をしては、よく笑い。
俺の話を聞いては、しっかり頷く。
そこから話を広げるのも、すごく上手だった。
口下手な俺でも、上手く話せているような錯覚に陥る。
……。
「……佐々木さん?」
水谷さんが、俺の顔を覗き込む。
「あ……水谷さん。ごめん」
「なんか、ボーッとしてた」
素直に謝る。
水谷さんが、少し暗い顔をする。
「私と一緒にいても、楽しくないですか?」
——その時。
この前、口裂け女と散歩に出かけた時のことを思い出す。
あいつも、同じようなことを聞いてきたな。
そう思われるような態度をしてる俺が悪いんだろう。
「そんなわけないよ」
「会社の男連中に、水谷さんと二人でご飯来てるなんて知られたら、羨ましがられるぐらいだし」
水谷さんの表情は、まだ暗い。
さらに、視線が下に落ちる。
「でも……だからって、佐々木さんが楽しんでくれてるってわけじゃないですよね……」
空気が重くなる。
言葉を探してしまう。
ダメだ。
考えろ。
とにかく考えろ。
……。
「楽しいよ」
「……え?」
水谷さんが顔を上げる。
「前までは全然話さなかったけど、最近よく話しかけてくれるようになって嬉しい」
「俺、暗いし。会社であんまり誰とも話さなかったんだよね」
「水谷さんは唯一の同期なのに、全然話さないのもどうなのかなって思ってた」
「今回きっかけができて、仕事手伝って良かったよ」
一人で長々と話す。
水谷さんの口が、ポカーンと開く。
会話が止まる。
そして。
水谷さんが笑った。
「佐々木さんは……優しいですね」
「え?」
「私の態度を見て、励まそうとしてくれて……」
「……」
「やっぱり、入社した時から……変わりません」
水谷さんが微笑む。
「え? 入社した時?」
何のことを言っているのか、さっぱりわからなかった。
「その様子だと……やっぱり覚えてませんよね」
水谷さんは、どこか懐かしむような表情になる。
「入社したての頃、
佐々木さんが私の仕事を手伝ってくれたことがあったんですよ?」
「え、そうだったっけ」
本当に覚えていない。
水谷さんの目が、少し遠くを見る。
「ありました……私がこの前みたいに仕事が終わらなくて、
デスクで泣いてたんです」
「そしたら、佐々木さんが話を聞いてくれて……
私の仕事を手伝ってくれました」
「今みたいに仕事もよくわかってないのに、
それでも私と一緒になって考えて、悩んで……手伝ってくれました」
水谷さんがクスリと笑う。
「結局、仕事は終わりませんでしたけど……」
少し肩をすくめる。
「でも、私。すっごく心強かったんですよ?」
水谷さんが懐かしそうに笑う。
少し、間が空く。
「……あの時から、ちっとも変わってません」
水谷さんが、ぼんやりと俺を見つめる。
まあ。
言われてみれば、そんなこともあった気がする。
あの時期は、何もかもが新しかった。
目の前の仕事に、ただ必死だった。
余裕なんて、一切なかった。
だけど。
目の前で困っている人を、放っておけなかった。
今になって考えると。
あの時期の自分に、何ができたんだと思う。
それでも、水谷さんは感謝してくれているらしい。
なんだか。
少し誇らしかった。
水谷さんが続ける。
「私……あの時から、
佐々木さんのこと少し気になってたんですよ?」
「……え?」
水谷さんが、俺を?
理解が追いつかない。
「ふふ……やっぱり、気づいてないですよね」
水谷さんが、少し意地悪に笑う。
「会社の人に聞いたんですけど……
前の彼女さんと別れたんですよね?」
……誰から聞いたんだろう。
「……うん」
「今も、いないんですか?」
——その瞬間。
マスクをしたアイツの顔が浮かぶ。
声が大きくて、うるさくて。
料理が得意で。
いつもマスクをしてるくせに、
やたらと表情が豊かなアイツのことが……。
でも、アイツは“そう”じゃない。
俺は……。
アイツがどこか一線を引いていることを知っている。
きっと、何か理由があるんだろう。
あれだけくっついてくるのに、
肝心なことは何も言ってこない。
俺は、ずっとヤキモキしていた。
だから——
「彼女は……いないよ」
……嘘はついていない。
でも。
なぜか、胸が痛い。
「本当ですか!?」
水谷さんの顔が、ぱあっと明るくなる。
「うん……でも、」
言葉が、喉で引っかかる。
「好きな人……いや、違うか」
あいつは人じゃない。
妖怪だ。
だけど。
言わないわけにはいかない。
「好きなやつなら、いるよ」
沈黙。
居酒屋は賑やかだ。
だが、俺たちの空気だけが、
静かになった。
「……付き合ってはないんですか?」
水谷さんが、ゆっくりと口を開いた。
「うん……付き合ってはない」
俺は、乾いた笑いをこぼす。
「付き合うとかは……多分、ないんだと思う」
「……そうですか」
「……うん」
雰囲気が、一気に重くなる。
……情けない。
水谷さんの表情が暗い。
せっかく誘ってくれたのに、最悪だ。
俺は普段から、こういう酒の場に慣れていない。
そんな俺が取った行動は——
グラスに残っていた酒を、一気に飲み干すことだった。
……ゴトン。
グラスを置く。
さっきまで満杯だったグラスが、もう空になっていた。
「佐々木さん!? 突然どうしました?」
水谷さんが驚く。
「せっかく誘ってくれたのに、なんか申し訳なくなっちゃって……」
我ながら、不器用で情けない。
でも。
なんとなく、水谷さんに笑ってほしかった。
「佐々木さんって……馬鹿なんですね」
水谷さんが笑う。
「じゃあ、私も飲んじゃおうかなー」
水谷さんが、お酒のおかわりを注文する。
度数が高そうなお酒だ。
「水谷さん……そんな強いお酒飲むんだね」
「私……本当は、普段お酒全然飲まないんですよ?」
「え、そうなの?」
「はい。でも……今日は張り切って飲んじゃいます」
水谷さんが、照れくさそうに笑う。
ちょうどその時、店員がおかわりを持ってきた。
水谷さんが受け取る。
そして。
グラスを持ち上げ、そのまま勢いよく飲んだ。
みるみるうちに、水谷さんの顔が真っ赤になる。
本当に、慣れていないらしい。
……。
水谷さんの目が、とろける。
でも、真っ直ぐだった。
俺の目を、じっと見つめている。
「……私、佐々木さんのこと好きでいてもいいですか?」
唐突に言われる。
だが——
さっき一気に飲んだ酒が、回ってきていた。
言葉が、どこかぼやけて聞こえる。
「……え?」
「お酒の力を借りて……
本当に情けないんですけど……」
水谷さんが顔を赤くして、俺を見つめてくる。
その赤さは、酒だけのせいじゃない気がした。
だが。
俺の方も、もう限界に近い。
「私……佐々木さんのこと好きです」
頭が、ぐわんぐわんする。
「元々気になってたんですけど、
この前また助けてもらって……本当に好きになりました」
水谷さんの声が、頭の奥で響く。
「だから、私と——」
ダメだ。
意識が——
……。
◆◇
「ふんふんふーん」
私の鼻唄が、静かな部屋に響く。
時計を見る。
時計は、十二時を回っていた。
流石に、そろそろ帰ってくるだろう。
肉じゃがも美味しくできた。
きっと、あの人も喜んでくれる。
ふと、さっき掃除した窓に近づく。
我ながら、綺麗に拭けたと思う。
そこから——
月が見えた。
満月だ。
……そうだ。
あの人が帰ってきたら、
一緒に月を見よう。
きっと、あの人も気にいるはずだ。
だから。
「……早く帰ってきて。」
つい、声がこぼれる。
胸が、きゅっと締め付けられた。
ピカピカに磨いた窓に息を吐き、
曇ったガラスに、あの人の名前を書く。
私が呼べない。
あの人の名前。
隣に、私の名前を書こうとする。
でも。
名前が思い出せない。
私の名前……
人間だった頃の名前。
……なんだったっけ。
もし。
思い出せたら。
あの人に呼んでほしい。
……でも。
それはきっと。
叶わない、
……。
窓には、あの人の名前だけが残った。
……
……
そして。
一時間が経った。
口裂けは女は、
リビングで机に突っ伏していた。
「……おそいよ……」
言葉を、小さく溢す。
冷めた肉じゃがから、甘い匂いがまだ残っていた。
でも、大丈夫。
また温めればいい。
ふと、玄関を見る。
まだ帰ってこない。
少しだけ、不安になる。
その時。
——コン。
玄関のドアが鳴った。
「帰ってきた……?」
違う。
さっき聞こえたのは、
あの人の音じゃない。
だって。
その足音は——
私が、知らない足音だった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
ジュウヨンです。
今回は、予告通り水谷さん回になりました。
書いていて、口裂け女の健気さに胸が締め付けられます。
「佐々木ふざけんなよ」と思いながら書いていました。
ですが、佐々木は優しい男です。
水谷さんの気持ちを無碍にはできません。
男性社員の目があったのも大きいですが、
おそらく無くても同じ答えをしていたと思います。
ちなみに、なぜこんな優しい佐々木が
初対面の口裂け女をビンタしたのかというと……
あの時の佐々木は、本当に疲れていました。
彼女と別れ、仕事は残業続き。
帰るのは終電ギリギリ……。
ボロボロでギリギリの状態で帰宅してるところに、
怪異にしつこくウザ絡みされたわけです。
結果、彼の中のヴァイオレンスが爆発しました。
なお、佐々木はその時のことを
死ぬほど後悔しています。
ただ、なんやかんやそれが同棲のきっかけになったので、
口裂け女的にはあまり気にしていません。
……とはいえ、その時の話をしたら
きっと怒るとは思いますが。
物語は、ここから少しずつ動き始めます。
果たして、口裂け女の前に現れるのは——
次回もお楽しみいただければ嬉しいです。
お気に入り登録、評価やコメントをいただけると励みになりますので、
よろしければお願いします。
少しだけ余談なのですが、
口裂け女を書くときにイメージしていた曲があります。
YouTubeにも上がっている曲で、
個人的にはこの曲が口裂け女のイメージに近いなと思っています。
芹澤優さんの『最悪な日でもあなたが好き。』という曲です。
甘酸っぱい雰囲気の曲なので、
よかったら聴いてみてください。
私は、口裂け女のことを思い浮かべながらこの曲を聴いて、
思わず泣いてしまいました。




