残業したから、口裂け女にスマホを持たせた。
繁忙期も、いよいよピークを迎えていた。
今日も残業。
気づけば、フロアにはほとんど人が残っていない。
やっと仕事が片付いた。
そう思って時計を見る。
……深夜十二時を回っていた。
「うわ」
思わず声が出る。
もうこんな時間か。
急いで帰らないと。
終電、ギリギリかもしれない。
慌ててパソコンを閉じる。
机の上を軽く片付ける。
鞄を掴む。
立ち上がる。
その時だった。
「……全然終わんない……」
近くのデスクから、小さな声が聞こえた。
ちらっと見る。
水谷さんだった。
同期の女子社員。
入社した頃は、同期がもっと沢山いた。
だが。
うちの会社はブラックだ。
気づけば。
残っているのは、
俺と水谷さんだけになっていた。
普通なら、
それなりに仲良くなっていてもおかしくない。
でも。
水谷さんと俺は、そこまで関わりがなかった。
飲み会で席が近かったら少し話す。
その程度。
別に仲が良いわけでもない。
悪いわけでもない。
普通。
本当に、普通の関係。
俺は視線を戻す。
帰る準備を続ける。
鞄を肩にかける。
その時。
また。
小さな声が聞こえた。
……すすり泣く声だった。
水谷さんの。
デスクに向かったまま、肩が小さく揺れている。
……。
しばらく立ち尽くす。
終電。
そして——口裂け女。
色々頭をよぎる。
でも。
流石に。
無視はできなかった。
……。
◇
「——佐々木さん。今日は本当にありがとうございました」
水谷さんが必死に頭を下げる。
「いや、いいよ。気にしないで」
とにかく早く帰りたかった。
「また今度、絶対お礼させてください」
「いやまじでいいって。困った時はお互い様だし」
「……やっぱり、」
水谷さんが、何か言いかけてやめる。
首を振る。
「……なんでもありません」
「まあ、これからも一緒に頑張ろうよ」
そう言った瞬間。
水谷さんの目が少し見開かれる。
「……っ……はい!」
元気に答える水谷さん。
笑顔を向けてくる。
目には大きな隈が張り付いている。
それでも。
水谷さんが、ボーッとこっちを見てくる。
……相当眠いんだろう。
少しして。
「……でも」
水谷さんが小さく言った。
「お礼は、させてくださいね」
俺は適当に頷いた。
とにかく眠かった。
そのまま、水谷さんと別れ、
やっとこさ、
帰路に着く。
……
外は、すっかり明るい。
始発の電車に揺られながら、
ぼんやり窓の外を見る。
入社間もない頃。
こんな時間まで会社にいたのは、
あの時以来だった。
……。
その時のことは。
正直、もうあまり覚えていない。
とにかく、必死だった。
……とりあえず。
今は眠い。
でも。
家に帰ったら、数時間だけ寝て。
また会社に行く。
……こればかりは仕方ない。
電車を降りる。
改札を抜ける。
駅前の通りを抜けて。
いつもの道へ入る。
家まで、あと少し。
その時だった。
前の方。
道の端に、女が立っていた。
長い黒髪。
白いコート。
顔にはマスク。
見慣れた格好。
口裂け女だった。
ゆっくり歩いていく。
距離が近づく。
口裂け女が、こちらを見る。
「私、綺麗?」
いつもの質問。
でも。
心なしか。
目が虚だった。
迷わない。
「うん。綺麗だ——」
言い終わる前に。
口裂け女が飛びついてきた。
抱きつかれる。
突然だった。
思わず体がよろける。
沈黙。
口裂け女の肩が、小さく震えている。
「……もう帰ってこないかと思いました」
小さな声だった。
大袈裟すぎて。
少し笑いそうになる。
でも、
笑わない。
「ずっとここで待ってたの?」
「……はい」
「何時ぐらいから」
少し間。
「……昨日の23時ぐらいからです」
……。
「……うわぁ、まじか」
正直。
ひいた。
かなりひいた。
でも——
胸の奥が。
少しだけ、温かくなる。
そして。
……ちょっとだけ。
嬉しかった。
「……馬鹿じゃん」
「馬鹿じゃない!!!!」
即答だった。
口裂け女は相変わらず怒りやすい。
それが、なんだかおかしくて。
とうとう。
笑いが我慢できなくなった。
思わず吹き出す。
「笑うな!!!!」
そう言って。
口裂け女が俺の胸元に顔をグリグリと埋めてくる。
「いたいって」
ますます笑いが止まらなくなる。
口裂け女も楽しそうに続けてくる。
……
……
……長い。
かれこれ。
五分ぐらい、こうしている。
「いい加減離れてよ」
「嫌です」
「お願い」
「嫌です」
即答。
——そこで。
ふと。
頭をよぎる。
「……顔見せてよ」
「それが嫌だから離れたくないんです!!」
必死だった。
急に腕に力が入る。
離さない、という意思がはっきり伝わってくる。
……。
俺は。
なんだか、頭がおかしくなりそうだった。
寝てないからじゃない。
朝帰りだからでもない。
ただ。
もう、どうしようもないぐらい。
離れたくなかった。
「じゃあ、くっついたまま帰ろうか」
そう言うと。
腕の中で。
口裂け女が小さく動く。
「……はい」
少し嬉しそうだった。
そのまま。
同じ姿勢で歩き始める。
俺は前。
口裂け女は胸に顔を埋めたまま。
ゆっくり歩く。
「歩きにくいね」
「我慢してください」
「まだ離れない?」
「離れません」
「もしかして家でもこのまま?」
「このままです」
即答。
迷いがない。
……。
「……お風呂入る時だけ離れてね」
少し間。
「……考えてあげます」
胸元から。
ふふっ、と小さな笑い声が聞こえた。
口裂け女が笑っている。
もう、離れても大丈夫だろ。
そう言おうとした。
でも。
何故か。
言いたくなかった。
……。
そんなこんなで。
やっと家に到着した。
本当に歩きづらかった。
口裂け女と脚が何度ももつれて、
何回も転びそうになった。
その度に。
二人で笑った。
いつもなら。
十分で帰れる道。
今日は二十五分かかった。
でも。
不思議と嫌じゃなかった。
アパートの前。
玄関のドアを開ける。
口裂け女がまだくっついたまま。
そして。
開口一番。
「今度の休みにスマホ買いに行こう」
沈黙。
腕の中の口裂け女が。
ゆっくり顔を上げる。
「……スマホって、あの光る板みたいなのですか?」
目が合う。
その瞬間。
少し驚いた。
口裂け女の目。
驚くほど、腫れていた。
ずっと泣いていたみたいだった。
……本当に。
一晩中、待っててくれたんだ。
「そうだよ」
俺は嬉しさを誤魔化すように返事をする。
「でもなんで突然?」
「連絡とれるように」
「へ?」
「遅くなる時は、遅くなるって連絡するから」
口裂け女がまた胸元に顔を埋める。
さっきより。
少しだけ強く。
「お前用のだから、ついてきてね」
少し間。
口裂け女が大きく息を吸う。
「やったー!!」
小さくガッツポーズ。
「うるさい」
「ごめんなさい!!」
反射みたいに謝る。
大きな声で。
「次の休みは絶対休むよ」
「約束ですよ?」
上目遣いで見つめてくる。
こいつは。
困ったらいつも見つめてくる。
心臓がはち切れそうだ。
「うん、約束」
すると。
口裂け女が鼻歌を歌い始めた。
上機嫌だ。
気がつけば。
いつの間にか離れている。
そのままキッチンへ向かっていく。
朝食の準備を始めるらしい。
……。
少しだけ。
寂しかった。
「あ!」
「え、なに」
振り返る口裂け女。
「まずは手洗ってください!」
元気よく言う。
指までビシッとさしている。
「お前も洗え」
「洗います!」
元気に返事。
そのまま洗面所へ向かう。
……。
本当に。
こいつといると。
飽きない。
いや。
違うな。
飽きる暇がない。
◇
休みの日。
約束通り。
スマホを買いに来た。
駅前の家電量販店。
スマホ売り場。
口裂け女は、ショーケースの前でしゃがみこんでいる。
目がキラキラしていた。
「どれがいいんですかね?」
ガラス越しに並ぶスマホを覗き込む。
「うーん」
俺も横から見る。
「安いのだと、すぐ壊れるかもしれないし」
「そうなんですか?」
口裂け女が首を傾げる。
「多分ね」
「うーん……」
口裂け女が腕を組む。
真剣だ。
「同じのでいいんじゃない?」
「同じのってどれですか?」
俺は自分のスマホを出す。
「これ」
そして。
ショーケースを指差し、
値段を見せる。
次の瞬間。
「たっっっっっっっっか!!!!!」
売り場に声が響いた。
「ちょ、やめて……」
周りの客がこっちを見る。
「……ごめんなさい」
口裂け女が小さくなる。
少し俯く。
「でも、こんな高いの悪いです……」
遠慮している。
珍しい。
「別にいいよ」
「お金ならあるし」
「長く使うこと考えたら、高い方が良いでしょ」
——その瞬間だった。
口裂け女の表情が。
一瞬、暗くなる。
ほんの一瞬。
でも、はっきりわかった。
「…………そうですね」
声が小さい。
「ん?」
「……私、安いので良いですよ」
ぎこちない笑顔。
「でも、壊れたら大変だよ?」
「壊さないので大丈夫です」
「壊しそうだから言ってるんだけど」
「大丈夫ですって」
「見るからに壊しそうだし」
「そんなことないです」
「いや、本当に壊しそうだから——」
「信頼しろ!!!!」
大声で遮られる。
「ちょ、声大きいって」
なんでこの人。
行き詰まると声がデカくなるんだろう。
……ああ。
人じゃない。
妖怪だった。
都市伝説って、そういう感じなのかもしれない。
よくわからないことを考えながら。
俺は店員に声をかけた。
「すみません。これください」
ショーケースを指差す。
自分と同じ機種。
店員が「かしこまりました」と頷こうとした瞬間。
「いや、いいです……。やめてください」
横から口裂け女が止めた。
店員が困った顔をする。
俺は口裂け女を見る。
「……一緒にいてくれるんじゃないの?」
「……っ!」
口裂け女の顔が一瞬で真っ赤になる。
「俺が、買いたいの」
「でも……」
「一緒にいてくれないの?」
沈黙。
口裂け女の視線が泳ぐ。
少しして。
「……仕方ないですね」
小さく呟く。
恥ずかしそうに背中を向ける。
耳まで赤い。
沈黙。
……。
「あの〜……色選んでもらってもいいですか?」
店員が申し訳なさそうに言ってくる。
俺のスマホには色があるらしい。
全く知らなかった。
「あ、私この金色のがいいです!」
口裂け女がすぐ振り向く。
指をビシッとさす。
さっきまで背中向けてたのに。
切り替えが早い。
……
家。
テーブルの上。
買ったばかりの箱が置いてある。
口裂け女が目を輝かせている。
ゆっくり箱を開ける。
「わー!光りました!光りました!」
スマホの画面が点いた。
「そうだね」
「これがスマホですか!!」
「そうだよ」
「リンゴのマークがかっこいいです!」
「そうだね」
「大事にします!」
「うん」
「壊しません!」
「それは本当にお願いね」
「はい!!」
元気よく返事。
◇
その後。
器用な口裂け女は。
驚くほど早く操作を覚えた。
電話。
メッセージ。
写真。
全部。
あっという間だった。
ただ。
一つだけ問題がある。
それは。
仕事中。
スマホが。
ずっと震えること。
画面を見る。
通知。
口裂け女。
口裂け女。
口裂け女。
口裂け女。
……。
三分で十五件。
鬼のように連絡が来るようになったことは。
言うまでもない。
【オマケ】
仕事が終わってからの、
口裂け女とのメッセージのやりとりを公開。
◇
口裂け女:
「ねえ」
口裂け女:
「ねえ」
口裂け女:
「まだ仕事終わらないんですか」
口裂け女:
「今日は残業しないって言ってましたよね」
口裂け女:
「もう終わってる時間ですよね」
口裂け女:
「寂しいです」
口裂け女:
「返事してください」
口裂け女:
「なんで返事してくれないんですか」
口裂け女:
「何かありました?」
口裂け女:
「会社行きます」
佐々木:
「やめて」
口裂け女:
「返せるじゃないですか」
佐々木:
「ちょうど今終わった」
口裂け女:
「怪しいです」
口裂け女:
「めんどくさがってるんじゃないですか」
佐々木:
「怪しくない」
佐々木:
「めんどくさくない」
口裂け女:
「女の人と喋ってませんか?」
佐々木:
「喋ってない」
口裂け女:
「じゃあ早く帰ってきてください」
口裂け女:
「美味しい肉じゃがが待ってますよ」
佐々木:
「また肉じゃがなんだ」
口裂け女:
「肉じゃがは間違いないです」
佐々木:
「うーん、そうかな」
口裂け女:
「あと」
口裂け女:
「綺麗な女の子も待ってますよ」
佐々木:
「それは楽しみ」
口裂け女:
「私、綺麗?」
佐々木:
「いつも唐突だよね」
口裂け女:
「ノルマですから」
佐々木:
「まだそれ言ってるんだ」
口裂け女:
「事実ですから」
口裂け女:
「早く答えてください」
佐々木:
「綺麗だよ」
口裂け女:
「ふふ、そうでしょそうでしょ」
佐々木:
「うん」
佐々木:
「だから」
佐々木:
「早く会いたい」
(突然、返信が止まる)
◇
スマホをポケットにしまう。
「ふう……」
会いたいって送ったら、
10分ぐらいメッセージが止まる。
最近得た処世術だ。
止まってる間に、早く準備して帰ろう。
どうせまたメッセージ地獄になる。
ちなみに。
口裂け女にスマホを持たせてから、
俺は3kg痩せた。
体重が。
⸻
ある日。
オフィスで。
あの日の残業以降。
俺は、水谷さんからよく話しかけられるようになった。
……心なしか、前より距離が近い気がする。
「佐々木さん、痩せました?」
「全然だよ……気にしないで」
「絶対痩せましたよ……働きすぎです……」
「そうかなぁ……」
水谷さんからへんな勘違いをされた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
作者のジュウヨンです。
今回は、とうとう口裂け女がスマホを手に入れました。
もちろん佐々木は、
口裂け女にスマホを買い与えたら、
鬼のようにメッセージが飛んでくることを予感していました。
ですが。
ここだけの話。
正直、佐々木も満更ではありません。
なので、後悔はしていません。
体重は減ったかもしれませんが、心は満たされているでしょう。
佐々木も、それなりに重い男です。
そんな二人の今後を、見守っていただけたら嬉しいです。
……次回ですが、水谷さんがガッツリ出てきます。
果たして、佐々木の日常はどうなってしまうのか。
それでは。
次回も是非読んでいただけると嬉しいです。
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