調子に乗ったから、水着の口裂け女に詰められた。
あの日の休み以来。
仕事が急に忙しくなった。
繁忙期らしい。
正直よくわからないが、とにかく忙しい。
気づけば終電ギリギリの電車に乗っている。
家に着くのは大体、深夜十二時を回る。
毎日クタクタだった。
——
帰り道。
長い黒髪。
白いコート。
顔にはマスク。
暗い路地に、見慣れた女が立っていた。
「私、綺麗?」
見慣れた口裂け女だ。
「うん綺麗」
俺はそのまま通り過ぎる。
口裂け女も当たり前みたいに横に並んだ。
「……家で待ってなかったの?」
「帰ってくるの遅いんですもん」
「そうなんだよね」
「仕事忙しいんですか?」
「うん」
「……」
口裂け女はそれ以上何も言わない。
ただ、隣を歩く。
夜の道を二人で歩く。
静かだ。
少しして口裂け女が言った。
「……家帰ったらご飯用意してますよ」
「へえ、何作ったの?」
口裂け女がマスク越しに笑う。
「帰ってからのお楽しみです」
「それは楽しみだな」
実際、腹はかなり減っていた。
今なら何でも食べられそうだ。
自然と足が速くなる。
「ちょ、早いですって」
口裂け女が小走りでついてくる。
「口裂け女って脚速いって聞いてたんだけど」
「あーそれ思ってる人いますよね」
口裂け女がニヤニヤする。
出た出た、みたいな顔してる。
「え、違うの?」
「あれは口裂け女界で一番の記録です」
胸を張って言う。
「あぁ別の口裂け女なんだ」
「そうです」
「お前はどれくらいなの」
「100メートル11秒前後です!」
元気よく答える。
「速いね」
「それほどでもないです」
少し照れている。
「ちょっと待ってね」
スマホを取り出して調べる。
「……」
「どうでした?」
「ギリギリ人間でもいるレベルだね」
「でも速くないですか?」
口裂け女が首を傾げる。
静寂。
妖怪ならもっと規格外を想像していた。
とは言えない。
「早く帰ろっか」
「はい」
二人で足を速める。
夜の住宅街を抜けて。
アパートに向かった。
◇
家に着く。
玄関を開ける。
「ただいま」
「おかえりなさい」
口裂け女が先に入る。
何か言いたそうにこちらを見ている。
俺は先に洗面所へ向かう。
手を洗う。
ちゃんと石鹸も使う。
タオルで拭く。
振り返ると。
口裂け女が満足そうに頷いていた。
「よろしい」
「ずっと厳しいよね」
「衛生大事です」
「妖怪なのに」
「妖怪でも大事です」
「路上暮らしのくせに」
「……今は路上暮らしじゃないです」
口裂け女がムッとする。
よくわからない。
口裂け女がキッチンへ向かう。
「夜ご飯温めますね」
「結局、夜ご飯なんなの?」
「ふふーん」
上機嫌だ。
「肉じゃがです」
またか。
でも言わない。
「肉じゃが好きだね」
「大好きです」
「へえ」
「人間だった頃からよく作ってました」
「そうなんだね」
口裂け女は時々、人間だった頃の話をする。
俺はあまり深く聞かない。
気になるけど。
今はとにかく腹が減っている。
また今度聞けばいい。
「温まるまでちょっと待っててください」
「じゃあその間風呂入ってようかな」
「えー」
「ダメなの?」
「それだとご飯食べたらすぐ寝るじゃないですか」
「朝早いしね」
「構ってください」
「えー……」
「最近、全然構ってくれないし」
「仕事忙しいからね」
口裂け女が黙る。
少し俯く。
何か考えているようだった。
そして。
「あ、良いこと思いつきました」
顔を上げる。
ニヤリと笑う。
嫌な予感がする。
口裂け女がゆっくり近づいてくる。
距離が近い。
耳元に顔を寄せる。
小さな声。
「……一緒に入っちゃいます?」
「……お風呂」
固まる。
こいつは何を言っているんだ。
口裂け女がニヤニヤしている。
完全に面白がっている。
負けた気がする。
妖怪なんかに。
負けたくない。
俺は息を呑んだ。
「……じゃあ入る?」
「へ?」
口裂け女の顔が一瞬で真っ赤になる。
自分から言ってきたくせに。
本当に何なんだこいつは。
俺はさらに一歩近づく。
「一緒に入ろうよ」
強気だ。
退かない。
口裂け女が慌てる。
視線が泳ぐ。
「……夜ご飯温めて待ってます」
逃げた。
思い出したようにキッチンへ走る。
鍋の前に立つ。
髪の隙間から耳が見える。
そこも赤い。
「じゃあ入ってくるね」
俺は風呂場へ向かう。
ドアを閉める。
少しして。
ふう、と息を吐いた。
こうして。
俺は口裂け女に勝った。
……と。
この時は思っていた。
◇
髪を洗い終わる。
シャワーで流す。
そのまま身体も洗う。
……腹減った。
今日は本当に疲れた。
肉じゃが。
早く食べたい。
まあ、上がったら口裂け女が準備してくれているだろう。
さっさと温まって出よう。
そう思った時だった。
ガチャ。
バスルームのドアが開いた。
振り向く。
そこに立っていたのは——
もちろん、口裂け女だった。
「……え?」
「お邪魔します」
「なんで入ってきたの?」
「入るかって言ってきたのあなたじゃないですか」
「……」
勝ち誇った顔の口裂け女。
身体にはバスタオルを巻いている。
思わず視線がそっちに行く。
こいつ。
スタイル良いな。
服の上からだとわかりにくかったけど。
ちゃんと出るところが出ている。
……だが。
まだだ。
まだ負けていない。
「……バスタオル巻いてるじゃん」
「へ?」
「普通バスタオル巻きながら風呂なんて入らないでしょ」
「……」
口裂け女が固まる。
そして顔が徐々に赤くなる。
睨んでくる。
ふん。
こちらも女慣れしてないわけじゃない。
バスタオルで来たぐらいで動揺すると思うな。
「もういいから早く出て——」
「……わかりました」
ん?
口裂け女がふっと笑う。
そして。
パサリ。
バスタオルを床に落とした。
反射的に目を閉じる。
数秒。
ゆっくり目を開ける。
……ん?
……水着?
「じゃーん!」
口裂け女が胸を張る。
水着を着ていた。
昔のスクール水着みたいなやつ。
いつの時代の物だそれ。
だが。
バスタオル姿よりも。
むしろ身体のラインがくっきりしている。
「ふふん、一張羅です」
また勝ち誇った顔をしている。
だが。
甘い。
所詮。
水着だ。
「……普通、水着着たまま風呂入る?」
「身体洗えなくない?」
「……」
口裂け女がキョトンとする。
そして。
みるみる顔が赤くなる。
「あ」
今気づいた顔だ。
よし。
勝った。
もういい。
この勝負は終わりだ。
俺は身体を洗う作業に戻ろうとする。
だが。
口裂け女は諦めなかった。
しばらく黙る。
そして。
「……わかりました」
小さく言った。
「水着……脱ぎます」
沈黙。
「へ?」
口裂け女が涙目になっている。
手がゆっくり水着に伸びる。
肩紐をつまむ。
少しだけ引く。
また止まる。
ちらっとこっちを見る。
顔が真っ赤だ。
でも。
また水着に手をかける。
少しだけ下ろす。
また止まる。
完全に泣きそうだ。
俺は思わず叫んだ。
「ごめんなさい!」
頭を下げる。
「俺の負けです!」
口裂け女が固まる。
「水着は脱がないでください……」
沈黙。
数秒。
口裂け女の口元がゆっくり歪む。
ニヤァ。
「ふん、お子ちゃまですね……」
今日一番のドヤ顔だった。
だが。
どこか安心しているようにも見える。
くやしい。
でも。
これでいい。
勝つことが全てじゃない。
俺はこの争いから降りる。
「俺、身体洗うから……ちょっと出てって」
「背中流しますよ」
「……え」
「任せてください」
「じゃあ……お願い」
スポンジを渡す。
口裂け女が後ろに回る。
シャワーの音。
泡の音。
背中にスポンジが当たる。
「おぉ……」
思ったより優しい。
ゴシゴシじゃない。
丁寧。
ゆっくり。
傷つけないように。
一生懸命に洗っている。
「どうですか?」
「うまいね」
「ふふん」
少し誇らしそうだ。
湯気の中。
静かな風呂場。
背中を洗う口裂け女の手は。
思ったより。
ずっと優しかった。
……
◇
身体の泡を流す。
シャワーでしっかり洗い流す。
それから。
湯船に浸かる。
「はあ……」
思わず声が出る。
あったかい。
今日の疲れが、ゆっくり溶けていく感じがする。
口裂け女は水着のまま髪を洗っている。
シャワーの音。
風呂場に湯気が広がる。
この感じ。
なんだろう。
少し懐かしい。
気づくと。
まぶたが重くなっていた。
うとうとする。
「寝たらダメですよ」
口裂け女に釘を刺される。
「わかってる」
「寝そうでしたよ」
「眠いからね」
「早く夜ご飯食べましょう」
「うん」
「私もお腹減りました」
「そうなんだ」
しばらく湯船に浸かる。
それから立ち上がる。
腰にタオルを巻く。
風呂場を出る。
脱衣所で身体を拭く。
髪も軽く拭く。
そのままリビングへ向かう。
時計を見る。
もう一時を回っていた。
……こんな時間か。
ソファーに座る。
身体を預ける。
少しして。
「あがりましたー」
風呂場の方から声がする。
口裂け女が出てきた。
髪はまだ濡れている。
肌は湯上がりで少し赤い。
そのままキッチンに向かう。
鍋を覗き込む。
「あ」
口裂け女の声が響く。
「冷めてる……」
ゆっくりこちらを振り向く。
少し困った顔。
「また温めます……」
どうやら。
風呂場の攻防で時間が経ちすぎたらしい。
口裂け女がコンロに火をつける。
鍋の中の肉じゃがを温め始める。
グツグツ。
静かな音が部屋に広がる。
「待ってるね」
「……すみません」
「いや、別に」
「お腹すいてるのに……」
「全然大丈夫だよ」
「でも……」
口裂け女がしょんぼりする。
肩が少し落ちている。
俺は少し考えてから言った。
「背中流してくれてありがとう」
「へ?」
口裂け女が振り向く。
「また、お願いしても良い?」
一瞬。
きょとんとした顔。
それから。
表情がどんどん明るくなる。
「良いですよ!」
満面の笑み。
本当に嬉しそうだ。
こいつ。
本当に。
なんだろう。
変な感情になる。
胸の奥がムズムズする。
多分。
今の俺は顔が赤い。
「私も、背中流したいです」
少し間。
「じゃあ、両想いだね」
「……」
口裂け女が急に黙る。
俺も黙る。
口裂け女は鍋をかき混ぜている。
グツグツ。
肉じゃがの音だけが響く。
チラリと横を見る。
口裂け女。
耳が真っ赤だった。
……しまった。
少し申し訳ない気持ちになる。
「ごめん。変なこと言った」
謝る。
口裂け女が振り向く。
「なんで謝るんですか?」
「ん?」
「“両想い”って……」
「……」
「嘘ですか?」
言葉が止まる。
何も出てこない。
頭の中で言葉を探す。
でも。
うまくまとまらない。
そうしているうちに。
口裂け女が火を止める。
鍋を持ち上げる。
皿に肉じゃがをよそう。
湯気が上がる。
それを持って。
リビングに運んでくる。
俺は目を合わせられない。
心臓がうるさい。
今は。
顔を見られたくない。
◇
そのまま、何も言わずに椅子に座る。
二人同時に手を合わせる。
「いただきます」
「いただきます」
無言の食卓。
気まずい。
でも。
何を喋れば良い。
目も合わせられない。
全力で食事に集中する。
箸を動かす。
肉じゃがを口に運ぶ。
……ダメだ。
顔がチラつく。
「さっきの」
口裂け女の方から口を開いた。
「さっきの両想いって」
「なんだったんですか?」
無言。
何も返せない。
「いや」
「その」
「うん」
「じょ、冗談」
めちゃくちゃ吃る。
口裂け女の顔を見れない。
また。
申し訳ない気持ちになる。
でも。
耐えられない。
「……冗談で、あんなこと言わないでください」
「ご馳走様です」
早々に食事を終える口裂け女。
椅子から立ち上がり、寝室の方へ歩いていく。
俺は。
ようやく顔を上げられた。
その背中が見える。
少しだけ。
寂しそうだった。
……。
「ご馳走様」
小さく呟く。
食器を片す。
流しに置く。
歯を磨く。
口をゆすぐ。
それから。
ゆっくり寝室へ向かう。
ドアを開ける。
既に電気は消えていた。
暗い部屋。
ベッド。
口裂け女は横になっている。
こちらに背中を向けて。
静かに。
俺も布団に入る。
ゆっくり。
音を立てないように。
目の前には。
口裂け女の背中。
小さな背中。
……少し震えている。
申し訳ない気持ちになる。
でも。
それが。
堪らなく。
どうしようもなく。
愛おしく感じた。
つい。
後ろから抱き寄せたくなる衝動に駆られる。
……流石にダメだ。
自分を抑える。
向きを変える。
口裂け女に背中を向ける。
そのまま寝ようとする。
「……なんで、そっち向くんですか?」
静かな部屋に。
口裂け女の小さな声が響く。
背中越しに。
「……別に意味はないけど」
「じゃあ、こっち向いててください」
「……うん」
ゆっくり向きを戻す。
また。
口裂け女の背中が見える。
少しの沈黙。
気がつけば。
手が動いていた。
そっと。
背中に触れる。
ビクン。
口裂け女が小さく震える。
でも。
手は離さない。
謝らない。
「……さっきはごめん」
「……何がですか」
「冗談とか言って、ごめん」
しばらく沈黙。
それから。
口裂け女がゆっくり身体を向ける。
暗闇。
目と目が合う。
「じゃあ、両想いってことで良いんですか?」
真剣な目だった。
逃げられない。
少し考える。
それから言う。
「両想いってことで、良い」
口裂け女が微笑む。
「……よかった」
「じゃあ、また背中流してあげますね」
目を閉じる。
静かな呼吸。
そういえば。
最初の話は。
背中を流すことだった。
今さら思い出す。
思わず乾いた笑いが出る。
……こいつは強い。
絶対に勝てない。
手のひらの上で転がされている気分だ。
このまま負けたくない。
せめて——
最後ぐらいは。
手を伸ばす。
そっと。
頬に触れる。
ピトリ。
裂けている部分に。
口裂け女が少し驚く。
それでも動かない。
俺は言った。
「……綺麗だ」
その瞬間。
電源が落ちたみたいに。
意識が途切れた。
◇
気がつけば朝だった。
「……おはようございます」
リビングに行くと。
口裂け女が朝食を用意していた。
テーブルには湯気の立つ味噌汁。
焼き魚。
ご飯。
ちゃんとした朝ごはんだ。
……。
◇
「……お仕事頑張ってください」
玄関で見送られる。
口裂け女。
元気がない。
明らかに声に覇気がこもっていない。
関係あるかはわからない。
目の下には。
大きな隈ができていた。
俺は。
気づかないふりをする。
靴を履く。
ドアを開ける。
「いってきます」
「……いってらっしゃい」
静かな声。
振り返らない。
そのまま。
仕事に向かった。




