疲れてたから、口裂け女にビンタした。
その日は、とにかく疲れていた。
残業、残業、また残業。
電車は遅延。コンビニの弁当は売り切れ。
世界はどうして、こんなにも俺に優しくないのか。
夜道をふらふらと歩く。
街灯はまばらで、妙に静かだった。
そのときだった。
道の先に、女が立っていた。
長い黒髪。
白いコート。
顔にはマスク。
……うわ、出た。
嫌な予感しかしない。
女はゆっくりとこちらを向いた。
「……ねえ」
来た。
「私、綺麗?」
ああ、はいはい。
有名なやつね。
無視した。
俺は何も聞こえなかったことにして、そのまま横を通り過ぎる。
足音がついてくる。
……うん、知ってた。
「ねえ」
まただ。
「私、綺麗?」
無視。
無視無視。
徹底無視。
疲れてんだよ、こっちは。
だが足音は止まらない。
「ねえ」
しつこい。
「ねえ」
うるさい。
「ねえってば」
頼むから帰ってくれ。
そしてついに——
「無視するなあああああああああああ!!!!!!」
マスクを外し、裂けた口を晒しながら、口裂け女が襲いかかってきた。
ああもう。
プツン、と何かが切れた。
「うるせえええええええええええええ!!!!!!」
俺は全力で腕を振り抜いた。
バチィン!!!!!!
乾いた音が夜道に響いた。
思いっきりビンタ。
口裂け女が固まる。
俺も叫ぶ。
「疲れてんだよ!!!!!!!!」
静寂。
風が吹く。
口裂け女は、頬を押さえながら、ぽかんとしていた。
「……え」
俺は肩で息をする。
「残業三連続だぞ」
「……え」
「電車は遅延」
「……え」
「弁当も売り切れ」
口裂け女はしばらく黙っていた。
やがて、おそるおそる口を開く。
「……その……」
「なんだ」
「大変ですね……」
「だろ」
沈黙。
数秒後。
口裂け女はマスクをそっとつけ直した。
「……あの」
「なんだよ」
「……今日はもう帰ります」
「そうしてくれ」
ぺこりと頭を下げ、口裂け女は夜道の闇に消えていった。
俺はため息をつく。
「はあ……」
空を見上げる。
星が出ていた。
「……綺麗だな」
誰もいない夜道で、俺はそう呟いた。
——
次の日。
俺はまた同じ帰り道を歩いていた。
仕事は相変わらず地獄だった。
だが昨日の出来事のせいで、妙に精神が擦り切れている。
夜道。
街灯。
静かな住宅街。
そして——
いた。
昨日と同じ場所に。
長い黒髪。
白いコート。
マスク。
また、口裂け女だ。
俺は何も言わず、そのまま歩く。
「……あの」
聞こえない。
「昨日はすみません」
聞こえない。
俺は歩く。
「謝ってるじゃないですか」
聞こえない。
俺は歩く。
「無視するんですか」
聞こえない。
「ちょっと……」
ここでようやく俺は立ち止まり、ウザそうな目を向けた。
「……なんだよ」
口裂け女はムッとした顔でこちらを見ている。
「聞こえてますよね?」
「まあな」
「あなたに殴られた頬が死ぬほど痛いんですよ、いまだに」
そう言ってマスクを外し、顔をぐいっと寄せてくる。
裂けた口。
そして頬が赤く腫れている。
俺はそれを見て言った。
「元から裂けてたじゃん」
一瞬の沈黙。
「そこじゃない!!!!」
口裂け女がキレた。
「ビンタされて腫れてるんです!!」
「知らん」
「知ってくださいよ!!」
「なんでだよ」
「被害者ですから!!」
夜道に響く怒号。
俺は心底だるそうに頭を掻いた。
「ていうかお前さ」
「なんですか」
「昨日襲ってきたのそっちだろ」
「それは都市伝説としての仕事です!!」
「仕事だったのかよ」
「ノルマあるんですよ!!」
「口裂け女に?」
「最近競争激しいんですから!!」
俺はため息をついた。
「知らんがな」
口裂け女は頬を押さえてぶつぶつ言う。
「……ほんとひどい……」
「人の顔をいきなり叩くなんて……」
「襲ってきたからだろ」
「普通『私綺麗?』って聞いたら逃げるじゃないですか!!」
「疲れてたんだよ」
「だからってビンタ!?」
「うるさかった」
「理不尽!!」
しばらく沈黙。
俺はまた歩き出す。
するとまたついてくる足音。
「……なあ」
「なんですか」
「まだついてくるのか」
口裂け女は腕を組んで言った。
「当たり前です」
「なんで」
「治療費請求します」
「帰れ」
「医療費」
「帰れ」
「慰謝料」
「帰れ」
「せめて湿布」
俺は振り向いた。
そして言った。
「……コンビニ寄るか」
口裂け女の目が少しだけ輝いた。
「湿布買ってくれるんですか?」
「うるさいからな」
「優しいですね」
「違う」
「じゃあなんですか」
俺は歩きながら言った。
「今日は殴られたくないだろ」
口裂け女は一瞬固まった。
そして小さく呟いた。
「……怖いこの人」
——
その次の日。
また同じ帰り道。
また同じ夜道。
そして——
やっぱりいた。
街灯の下。
白いコート。
長い黒髪。
マスク。
口裂け女。
俺は何も言わず、その横を通り過ぎる。
「こんばんは……」
小さな声で話しかけてきた。
「……はい……こんばんは」
反射で返してしまった。
すると——
口裂け女の目が、見るからにぱっと明るくなった。
「良い天気ですね……」
「まあ、うん」
俺は歩くのを止めない。
スタスタ進む。
「どっかで話しません?」
無視。
歩く。
「ちょっと……」
無視。
歩く。
「もおおおおおおおおおお!!!!!」
無視。
歩く。
「止まれよ!!!!せめて!!!!」
俺は立ち止まった。
そして、うざそうな顔で口裂け女を見る。
「……疲れてるんだけど……」
口裂け女は腕をぶんぶん振りながら叫ぶ。
「それしか言わないな!!」
夜の住宅街に声が響く。
俺はため息をついた。
空を見上げる。
月。
街灯。
静かな夜。
そしてうるさい妖怪。
数秒考える。
それから、うんざりした顔のまま指を差した。
「……あそこの公園で良い?」
口裂け女は一瞬固まった。
「……え」
「話すんだろ」
「……え?」
「立ち話だるい」
沈黙。
数秒後——
口裂け女の目が、またぱあっと輝いた。
「行きます!!!!」
「声でかい」
「すみません!!!!」
「声でかい」
公園のベンチに座る。
俺は背もたれに体を預けた。
口裂け女は隣にちょこんと座る。
妙に姿勢がいい。
沈黙。
風が吹く。
数秒。
数十秒。
やがて口裂け女がそっと言った。
「……あの」
「なんだ」
「昨日の湿布……」
「ああ」
「ありがとうございました」
「うん」
沈黙。
また風。
ブランコがきい、と揺れる。
口裂け女がそわそわしている。
そして意を決したように聞いた。
「……私、綺麗?」
俺は即答した。
「うん」
口裂け女が固まった。
「……え?」
「綺麗」
また沈黙。
口裂け女の顔がみるみる赤くなる。
「……」
「……」
「……そ、そういう答え方されると思ってなくて」
「聞いたのお前だろ」
「普通は『口裂けてても?』とか続くじゃないですか」
「うん」
「驚いちゃって言えなかった……」
「……めんどくさい」
「言ったら乗ってくださいよ?!」
「疲れてる」
「またそれ!!」
夜の公園に声が響く。
俺は目を閉じる。
口裂け女は少し黙ったあと、小さく笑った。
少しだけ嬉しそうに言う。
「……今日はノルマ達成です」
「ノルマあんのかよ」
「ありますよ」
「妖怪も大変だな」
「あなたに言われたくないです」
俺はベンチにもたれながら空を見る。
「……疲れてる」
口裂け女は少し笑った。
「それもう聞きました」
夜の公園に、静かな時間が流れていた。
……
「話を聞いてくれてありがとう……」
口裂け女は、ぺこりと丁寧にお辞儀をした。
「大して聞いてないだろ……」
俺は無表情で答える。
「疲れてるから帰るわ……」
ゆっくり腰を上げる。
ベンチがきい、と鳴った。
「なんかいつも疲れてますね」
口裂け女が不思議そうな顔をする。
「まあ……大体みんな疲れてるんじゃない?」
「何にですか?」
俺は少し考える。
夜の公園。
ブランコが風で揺れている。
「……何になんだろうね」
ふっと笑う。
「仕事とか家事とかですか?」
「そう、よくわかってるじゃん」
俺が笑う。
「もう帰るよ……」
口裂け女は少し考えている様子で黙り込んだ。
俺は背を向ける。
そのまま帰路につこうとする。
歩き出す。
すると——
背後から声が聞こえた。
「私が……家事してあげますよ」
俺は無視して歩く。
足音。
また声。
「あなたの家で家事しますよ」
無視。
歩く。
「ちょっっっっっとおおおおおおお!!!!!!」
俺は振り向いた。
「いや、いらないよ」
「疲れてるって言うから!!!!!!」
口裂け女が腕をぶんぶん振る。
「助けようとしてるのに!!!!!!」
「じゃあほっといて」
俺が言う。
だが。
足音。
ついてくる。
「……まあ、ついて行きますね」
俺は露骨に嫌な顔をした。
「なんで」
「家事します」
「しなくていい」
「します」
「帰れ」
「しません」
「帰れ」
「しません」
沈黙。
俺はため息をつく。
「……お前さ」
「はい」
「妖怪だよな?」
「そうですよ」
「人の家入ったらダメだろ」
「なんでですか」
「怖いだろ普通」
「怖くないじゃないですか」
「怖いよ」
「嘘です」
「嘘じゃない」
「昨日ビンタしてましたよね」
「……」
俺は目を逸らす。
口裂け女は腕を組んだ。
「怖い人の行動じゃないですよそれ」
「疲れてたんだよ」
「またそれ!!!!」
夜道に声が響く。
数秒の沈黙。
そして口裂け女が小さく言う。
「……ご飯作れますよ」
俺の足が止まった。
「……」
振り向く。
「マジで?」
口裂け女は少し得意そうに言う。
「味噌汁とか」
「……」
「卵焼きとか」
「……」
「肉じゃがとか」
沈黙。
俺は空を見る。
そして言う。
「……口裂け女って肉じゃが作るんだ」
「作りますよ」
「妖怪だろ」
「妖怪でも料理くらいします」
「なんでだよ」
「なんでもです」
俺はしばらく考えた。
それから口裂け女を見る。
そして一言。
「……包丁持たないよな?」
「持ちますよ」
「怖いから持つな」
「どうやって料理したらいいんですか!!」
夜道にまた声が響く。
俺はまた歩き出す。
口裂け女は隣に並んできた。
「……ついてくるのか」
「行きます」
「……」
俺は露骨に嫌な顔をした。
口裂け女は少し笑っていた。




