第9話 『完治したはずの腕で斧を振るったら、刃こぼれよりも腰にヒビが入りそうになった話』
最悪だ。
俺の愛用している戦斧の刃が、派手に欠けちまった。
「……見ていられませんな。リハビリ初戦で商売道具を壊すとは。やはり筋肉殿の頭の中まで筋肉痛なのでは?」
「うるせえ、石頭。ちょっと感覚がズレただけだ」
俺たちは今日、久しぶりに街の外へ出ていた。
左腕の抜糸も終わり、薬師の『先生』からも「暴れてよし」の許可が出た。
だが、現実は甘くねえ。
動きの鈍い『岩ガメ』相手に、俺は会心の一撃を叩き込むつもりだった。本来なら首の付け根、柔らかい皮の隙間に斧を滑り込ませるはずが、数センチ──いや、数ミリのズレだ。
斧はカメの甲羅、一番硬い岩盤部分を直撃し、嫌な音を立てて弾かれた。
「『ズレた』んじゃないねぇ。体が『庇った』のさ」
細いのことフィスが、興味なさそうに欠伸をする。
「無意識に左腕への衝撃を恐れて、腰が引けてたよ。まるで初めてダンスを踊る子供みたいにぎこちなかった」
……痛いところを突きやがる。
確かに、インパクトの瞬間、俺は無意識に右腕だけで押し込もうとしていた。
これじゃあダメだ。斧も、俺の体も、ガタガタだ。
「……今日はもう切り上げだ。お前らは先に戻っててくれ。俺は寄る所がある」
俺は欠けた斧を肩に担ぎ、皆とは逆方向へ歩き出した。
◇
街の中心から外れた、川沿いの水車小屋。
カン、カン、カン。リズミカルな金属音が響いている。
ここは偏屈な鍛冶屋、ボルドの工房だ。腕はいいが、口が悪いのが玉に瑕の、俺と同じ50代の頑固親父だ。
「よう、ボルド。仕事中か」
「……誰かと思えば、ガンツか。その面構え、また厄介事を持ち込みやがったな」
ボルドは手を止めず、赤熱した鉄を叩き続けている。煤けた顔に、頑固そうなシワが刻まれている。
俺は黙って斧を作業台の上に置いた。
ボルドはようやく手を止め、布で汗を拭いながら斧を手に取る。一瞥しただけで、鼻を鳴らした。
「酷いもんだ。刃先が死んでる。……お前、腰やってるだろ」
「あ?」
「刃の欠け方を見りゃわかる。腕力だけで振った跡だ。足腰が入ってねえから、衝撃を逃がせず刃が負ける。……腕は治っても、目と腰が錆びついてるな」
いちいち癇に障る野郎だ。だが、図星だから言い返せねえ。
「うるせえよ。こちとら一ヶ月も寝てたんだ。お前こそ、少し背中が丸くなったんじゃねえか? 老眼で手元が見えねえのか?」
「はんっ、減らず口だけは達者だな。……貸してみろ」
ボルドは斧を受け取ると、炉の火加減を確認し始めた。
修理を受けてくれるらしい。俺が安堵して座り込もうとすると、ボルドが顎で裏庭をしゃくった。
「座ってる暇があったら裏に行け。炉の温度を上げるのに、良質な炭を作る薪が足りねえんだ」
「あ? 俺は客だぞ?」
「金がねえなら体で払え。それに……その情けないフォームを矯正するにゃ、薪割りが一番だ」
ボルドはニヤリと笑い、使い古された手斧を俺に放り投げた。
◇
カァーン! パァーン!
乾いた音が、川のせせらぎに混じる。
裏庭には、山のような丸太が積まれていた。俺は無心で薪を割り続ける。
「へっぴり腰だ! 力むな! 斧の重さを利用しろ!」
工房の中から、ボルドの怒鳴り声が飛んでくる。
最初はイラついたが、数本割るうちに気づいた。
左腕を庇おうとすると、斧が木の節に食い込んで止まる。
逆に、力を抜いて、斧の重量に身を任せ、インパクトの瞬間にだけ丹田に力を入れると──
パァーン!
抵抗なく、木が真っ二つに弾け飛ぶ。
この感覚だ。
若い頃、師匠に叩き込まれた「基本」。
長い冒険者生活で、筋力に頼る癖がついていたことすら忘れていた。
老いるってのは、筋力が落ちることじゃねえ。自分の体の使い方が、微妙にズレていくことに気づけなくなることだ。
汗が滝のように流れる。
左腕の傷跡が突っ張る感覚も、いつの間にか消えていた。
ただひたすらに、芯を食う。
その単純作業が、錆びついた俺の感覚を研ぎ澄ませていく。
◇
夕暮れ時。
山のような薪の山を前に、俺は大きく息を吐いた。
心地よい疲労感だ。不思議と、腰の痛みはない。
「終わったか、筋肉ダルマ」
工房から出てきたボルドが、研ぎ直された俺の斧を差し出した。
刃こぼれは消え、鈍く光る刃は以前よりも鋭さを増しているように見える。重心のバランスも調整されているようだ。
「……いい仕事だ」
「当たり前だ。代わりに、一週間分の燃料は確保できた」
ボルドは軒先のベンチに座り、足元の桶で冷やしていたエールの瓶を二本取り出した。
栓を抜き、一本を俺に投げてくる。
俺たちは並んで座り、瓶を合わせた。
「おう」
「ん」
言葉少なに、喉を鳴らす。
安いエールだが、労働の後にはどんな高級酒よりも染みる。
「……俺たちも、ガタが来る歳だな」
ボルドが夕日を見ながら呟く。
「ああ。徹夜で飲んだ翌日は使い物にならねえし、油っこい肉は胃にもたれる」
「目は霞むし、腰は痛む。だがま、手入れさえ怠らなけりゃ、まだ斬れる」
ボルドが俺の斧をポンと叩く。
その言葉は、斧のことでもあり、俺たち自身のことでもあるんだろう。
「無理すんなよ、ボルド。お前も変な希少金属の加工依頼ばっか受けて、腰を言わせるなよ」
「はん。お前こそ、デカい獲物にこだわって死に急ぐな。……メンテナンスが必要になったら、また来な。薪割りならいつでも歓迎だ」
俺たちは笑い合い、残りのエールを飲み干した。
店に戻れば、石頭の皮肉と、細いのの減らず口が待っているだろう。
だが今の俺なら、笑って聞き流せそうだ。
体も道具も、万全の状態に戻ったんだからな。
「研ぎ澄まされた刃と、錆びつかない悪友に乾杯」




