第8話 『逃亡した元上司と、出世しすぎた部下が置いていった銀色の忘れ物の話』
いらっしゃいませ! 冒険者の皆様、今日もお疲れ様です。
ここ「錆びた剣亭」は、荒くれ者たちの憩いの場。
ですが、たまに「場違い」なお客様がいらっしゃることがあるんです。
その日、店の扉を開けたのは、一人の旅人でした。
年齢は40代半ばでしょうか。身につけているのは使い込まれた革鎧と、何の変哲もないマント。一見すると、ただのベテラン冒険者です。
けれど、私にはわかりました。歩き方に音がなく、背筋が剣のように真っ直ぐ伸びている。
カウンターに手をつく仕草一つとっても、育ちの良さと、隠しきれない「強者」の気配が漂っていたのです。
「……ッ!?」
その客の横顔を見た瞬間、いつもの指定席で飲んでいたゴドさんが、あからさまに息を呑みました。
そして、まだグラスに半分も残っているお気に入りの蒸留酒を置き、ガタッと席を立ったのです。
「あー、すまん。急に腹が……いや、持病の『古傷』が痛み出してな。帰る」
「おいおい、石頭。さっきまでピンピンしてたじゃねえか」
「うるさいぞ、筋肉殿! そういう日もあるのだ、年寄りの体には!」
ゴドさんは帽子を目深にかぶり、まるで何かから隠れるように、厨房の裏口へと早足で消えていきました。
あんなに慌てるゴドさん、初めて見ました。借金取りでも来たのでしょうか?
残されたのは、きょとんとする私と、ニヤニヤ笑うフィスさん。そして状況が飲み込めていないガンツさん。
旅人の男性は、裏口のドアが閉まる音を聞いて、小さく苦笑しました。
「……逃げられましたか。相変わらず、逃げ足と勘だけは天下一品な方だ」
男性は静かにカウンターへ近づき、ゴドさんが座っていた席の隣に腰を下ろしました。
「看板娘さん、エールを一杯。それと、そこのドワーフの方が飲みかけだった酒も、私のツケにしておいてくれ」
「は、はい。あの、お客様はゴドさんの知り合いですか?」
私がエールを注ぎながら尋ねると、男性は懐から革の手帳を取り出し、ほんの一瞬だけ中身を見せてくれました。
そこに刻まれていたのは、黄金の獅子の紋章。
王国の軍事最高責任者、すなわち『王立騎士団長』の証です。
「――ッ!?」
「シッ。お忍びの旅ですので」
男性――アレク様は、人差し指を唇に当てて微笑みました。
騎士団長!? 雲の上の存在じゃないですか! そんな人が、どうしてあんな偏屈な酔っ払いのドワーフを?
「……お久しぶりです、フィス殿。お変わりないようで」
「やあ、アレク君。随分と立派な大樹になったね。昔は風に吹けば折れそうな若木だったのに」
フィスさんが親しげに手を振ります。知り合いだったの!?
アレク様は丁寧に頭を下げてから、エールを一口飲み、語り始めました。
「十数年前の話です。私は王都の衛兵隊に配属されたばかりの新人でした。正義感だけは強くて、無鉄砲で……すぐに、都市にはびこる『汚職』の闇に突き当たりました」
アレク様の声は、低く落ち着いていて、店内の喧騒を少しだけ遠ざけるような響きがありました。
「私と同期たちは、ある商会の不正を暴こうと暴走し、逆に罠に嵌められた。証拠を捏造され、投獄される寸前でした。……それを救ってくれたのが、当時の隊長です」
隊長。
まさか。
「隊長は、私たちが集めた証拠をすべて燃やし、代わりに『自分が賄賂を受け取って捜査情報を漏らしていた』という偽の自白書を上層部に提出しました。……すべての罪を一人で被って、私たちの身を守ったのです」
ガンツさんが「へえ」と意外そうな声を上げます。
あのお金に細かい、理屈っぽいゴドさんが?
「隊長は、泣きつく私たちにこう言いました。『泥を被るのは、泥に慣れた古狸の仕事だ。お前たちは清廉なまま、もっと上へ行け。そしていつか、私を裁いた連中を法で裁ける位置まで登り詰めろ』と」
アレク様は、グラスの中の泡を見つめました。
「その『命令』を守るためだけに、私は生きてきました。泥水をすすることなく、ただ真っ直ぐに。……そして先月、ようやく当時の黒幕だった財務大臣を、法の下に引きずり下ろすことができたのです」
それが、今回の「報告」だったのですね。
かつての上司に、任務の完了を伝えるための。
なのに、その上司ときたら……。
「……で、肝心の石頭は逃げちまったってわけか。照れ屋だからな、あいつは」
「ええ。ですが、元気そうな背中が見られただけで十分です」
アレク様は飲み干したグラスを置き、懐から古びた銀色のバッジを取り出しました。
傷だらけで、黒ずんだそれは、かつての「衛兵隊長」の階級章でした。
「これを、彼に。……『任務完了しました』と、お伝えください」
アレク様は席を立ち、ゴドさんが座っていた空席に向かって、背筋を伸ばし、美しく、完璧な敬礼を捧げました。
その姿は、この薄汚れた酒場には似合わないほど高潔で、まぶしいものでした。
◇
深夜。
店じまいをしようとしていた頃、裏口からそーっとゴドさんが戻ってきました。
「……ふん。ようやく帰ったか、あの堅物は」
「もう、ゴドさん! せっかくアレク様が会いに来てくれたのに!」
「会えばろくなことにならんのです。現職の騎士団長が、前科持ちの元衛兵と酒を酌み交わしたとなれば、また不要な噂が立つ」
ゴドさんは私の説教を聞き流し、いつもの席に座りました。
そして、カウンターに残された「銀色のバッジ」に気づきます。
「…………」
ゴドさんは何も言わず、そのバッジを手に取りました。
無骨な親指が、バッジの傷跡を懐かしむように、優しくなぞります。
その表情は、いつもの皮肉屋の顔ではなく、成長した息子を想う父親のような、とても穏やかなものでした。
「まったく……。上官よりも出世しておいて、まだ私に報告など必要ないでしょうに。これだから若造は、要領が悪いのです」
口では憎まれ口を叩きながら、ゴドさんは目を細めていました。
私は何も言わず、とびきり強い蒸留酒をグラスに注ぎました。
「さあて、今日はもう閉店ですけど、特別ですよ」
「ふむ。……では、いただくとしましょうか」
ゴドさんは、手の中のバッジを、グラスの隣にそっと置きました。
まるで、今夜の相棒にするかのように。
「時代遅れの銀色バッジと、立派に育った若木に乾杯」




