第7話 『伝説の鍋蓋で経費を削減し、魔導の輝きを帳簿の闇に葬った話』
数字は嘘をつきません。
ですが、時として数字は、私たちに無慈悲な現実を突きつけてきます。
「……仕入れ値が二割増、ですって?」
開店前の静かな店内で、私は納品書をカウンターに叩きつけそうになるのを堪えました。
市場の魚の価格が高騰しているのです。なんでも、上流で『水鉄砲魚』が繁殖し、漁師が川に出られないのだとか。
夫のガストンは、素材の質を落とすことを決して許しません。「錆びた剣亭」の看板を守るためなら、原価率など無視して最高の一皿を出そうとする、経営者失格の職人です。
このままでは赤字。かといって値上げはお客が離れる。
私が眉間の皺を揉みほぐしていると、ふらりと昼下がりの常連が現れました。
「おや、マーサさん。顔色が優れないね。まるで澱んだ沼の底のような色だ」
魔法使いのフィスさんです。まだ店も開けていないのに、当然のようにカウンターに座っています。
「魚が高いのよ。これじゃあ今夜のオススメが出せないわ」
「ふうん。それなら、私が取ってきてあげようか? 源流まで行けば、脂の乗った極上品が泳いでいるよ」
「あなた一人で? 運搬はどうするの?」
「樽に詰めて川を下ればいい。水は高いところから低いところへ流れるものだからね。運賃はタダ同然さ」
……悪くない提案です。
ですが、この男はサボりの常習犯。途中で昼寝をして鮮度を落とす可能性があります。
私は即座に決断しました。
「採用よ。ただし、私も行きます」
「え?」
「商品の品質管理も女将の仕事ですから。さあ、すぐに出るわよ」
私が着替えに行こうとすると、フィスさんは厨房へ入り込み、ガストンが最も大切にしている『特注の真鍮製鍋蓋』を手に取りました。
「ちょっと、何を持っていこうとしてるの?」
「ん? ああ、川は日差しが強いからね。日傘代わりにさ」
嘘をおっしゃい。
まあいいでしょう。鍋蓋の一つくらい、仕入れ値の削減分で償却できます。私は帳簿を閉じ、エプロンを外しました。
◇
街から少し離れた渓谷。
私たちは即席の筏に、魚を詰めた樽を積み込み、激流を下っていました。
「さあ、しっかり掴まって! 流れに身を任せるんだ!」
フィスさんが櫂を操り、筏は猛スピードで岩場をすり抜けていきます。
水飛沫が上がり、私の悲鳴は轟音にかき消されます。
ガツン! ゴゴン!
筏が大きく揺れ、積荷の樽が岩に激突しました。
「ちょっと! 商品が傷つくじゃない!」
「大丈夫、大丈夫。私がかけた<硬化>の魔法は、そう簡単に砕けたりしないよ」
私は目を疑いました。
岩にぶつかった木の樽が、まるで鉄の鐘のように「キィン!」と澄んだ高音を響かせ、無傷で弾き返されたのです。
一般的な生活魔法の<硬化>に、これほどの強度があるでしょうか?
岩のほうが砕けています。あれでは中身の魚より、容器の樽のほうが凶器になりかねません。
「……フィスさん。その魔法、出力がおかしくありませんこと?」
「え? 気のせいだよ。マーサさん、経費削減のためにはスピードが命だろ?」
フィスさんは飄々と笑い、さらに速度を上げます。
違和感は募りますが、今は問い詰めている暇はありません。
川幅が広がり、流れが緩やかになったその時です。
バシュッ!!
水面が爆発し、巨大な影が飛び出しました。
『水鉄砲魚』です。それも、小舟ほどもある主クラス。
怪魚は口を大きく開け、喉の奥に水を溜め込みました。狙いは私たちの筏。
冒険者の話では、あの水弾は岩をも穿ち、鉄の鎧ごと人間を貫くといいます。
「フィスさん! 魔法で迎撃を!」
「おっと、それはできない相談だね。私は攻撃魔法が苦手なんだ」
この期に及んで、まだそんな戯言を!
水弾が放たれる寸前、フィスさんは懐から例の「鍋蓋」を取り出しました。
そして、あろうことか、それを盾のように構えて前に出たのです。
「馬鹿な真似はやめて! そんな鍋蓋で防げるわけが――」
ドォォォォン!!
大砲のような発射音と共に、圧縮された水塊がフィスさんを直撃しました。
私は思わず目を覆いそうになりましたが、経営者としての本能が損害確認のために目を見開かせました。
そこで、私は見てしまったのです。
水弾が鍋蓋に接触した瞬間、蓋の表面に、複雑怪奇な幾何学模様が青白く発光したのを。
それは見たこともない魔法陣、あるいは障壁のようでした。
本来ならフィスさんの腕ごと吹き飛ぶはずの衝撃は、その光に吸い込まれるように霧散しました。
水は勢いを失い、ただのシャワーとなって降り注ぎます。
「ふう。危ない、危ない。すべてを洗い流すには、少し水圧が強すぎたね」
フィスさんは何事もなかったかのように、鍋蓋についた水滴を払いました。
真鍮製の蓋の中央が、ほんの少し、親指の先ほど凹んでいるだけ。
……ありえません。
あの威力なら、鉄板でも風穴が開くはず。それが、鍋蓋一枚で? しかも、あの光は?
「フィスさん……今のは?」
「ん? ああ、ガストンさんの鍋蓋は素晴らしいね! さすが職人の魂がこもっている。頑丈さが違うよ」
フィスさんはニッコリと笑い、話題を強制終了させました。
私は彼の笑顔と、手元の鍋蓋を交互に見つめます。
あれは間違いなく、現代の魔法体系には存在しない技術。もし公になれば、国中の学者が押し寄せ、店は営業停止、平穏な日常は崩壊するでしょう。
――カチャ、カチャ。
私の脳内で、即座にソロバンが弾かれました。
『国家機密レベルの秘密』と『今日の仕入れの利益』。
天秤にかけるまでもありません。
「……そうね。ガストンの道具選びに、間違いはないわ」
私は見たものを記憶の底に沈め、笑顔で頷きました。
詮索は無料ではありません。余計なコストがかかるだけです。
◇
店に戻った私たちは、大量の魚を厨房に運び込みました。
新鮮で脂の乗った魚を見て、ガストンは珍しく口角を上げかけ――そして、フィスさんが返却した鍋蓋を見て、凍りつきました。
中央がわずかに凹んだ、愛用の鍋蓋。
ガストンが無言で包丁を握りしめ、その腕に血管が浮き上がります。殺気で厨房の温度が下がりました。
「おや、ガストンさん。怖い顔をしないでくれよ。名誉の負傷さ」
「…………」
ガストンが一歩踏み出した瞬間、私は二人の間に割って入りました。
「あなた、およしなさい」
「……!」
「鍋蓋の損耗費は金貨一枚程度。対して、今回の仕入れで浮いたコストは金貨十五枚分よ。差し引き、十四枚の大黒字」
私は帳簿を開き、その数字をガストンの目の前に突きつけました。
「この利益が出るなら、鍋蓋の一つや二つ、安いものです。……そうでしょう?」
ガストンは私と帳簿を交互に見つめ、やがて深いため息と共に包丁を置きました。
妻と数字には勝てないと悟ったようです。
やれやれ、今日も「錆びた剣亭」は平和です。
英雄だろうが魔王だろうが、私の店で飲み食いするなら、ただの「お客様」であり「経費」の対象。
それ以上でもそれ以下でもありません。
私は凹んだ鍋蓋を棚に戻し、今夜のメニュー表を書き始めました。
「減価償却された鍋蓋と、計上されなかった魔法の光に乾杯!」




