第6話 『筋肉が役立たずなので、元衛兵隊長が「法」という名の凶器で商人を追い詰めた話』
琥珀色の液体が、グラスの中で揺れている。
美しいですな、上質な蒸留酒というものは。香りを嗅ぐだけで、安酒場で出される泥水のようなエールとは格が違うことがわかります。
しかし、目の前の光景は美しくない。
「……おい、飲みすぎだぞ、筋肉殿」
「あ? まだ三杯目だぜ」
「左腕を見たまえ、左腕を。包帯でぐるぐる巻きの男が、昼間からカウンターで管を巻く。これでは店の営業妨害だと言っているのだ、私は」
ここ「錆びた剣亭」の昼下がり。
客足の途絶えた静寂を愛する私にとって、隣でナッツをボリボリと齧る大男は騒音公害でしかないのです。
先日の『碧毒蛇』の一件で、筋肉殿は左腕を負傷している。薬師の先生による縫合も済んでいるが、抜糸まではおとなしくしていろと厳命されていたはずだ。
だが、この男に「安静」という言葉は馬の耳に念仏。いや、オークの耳に詩集か。
「暇なんだよ。斧も振れねえ、盾も持てねえ。細いのはどっか行っちまうしよ」
「フィス君なら、裏でミナ君に文字を教えているよ。君と違って勤勉なことだ」
やれやれ、と私がグラスを傾けた時だった。
裏口の扉が開き、おかみのマーサ殿が不機嫌そうに入ってきた。手には帳簿ではなく、一枚の羊皮紙を持っている。
「あら、ゴドさん。ちょうどよかったわ」
「おや、何かトラブルですかな? マーサ殿のその目は、ツケを滞納した客を見る目と同じだ」
「似たようなものね。市場の『二本髭商会』って知ってるでしょ? あそこでボヤ騒ぎがあったのよ」
「ほう」
「ボヤ自体は大したことなかったんだけど、倉庫から『極上の熟成干し肉』の樽が三つ、消えたんですって」
ピクリ、と私の髭が反応した。
二本髭商会が扱っている干し肉は、塩加減とハーブの風味が絶品で、この辺境では滅多にお目にかかれない代物だ。あれを盗むとは、なんと風上にも置けない、いや、実に舌の肥えた犯人だ。
「衛兵は何と?」
「『ボヤの混乱に乗じた外部犯だろう』って。でも、店主のボークは納得してないみたい。犯人を捕まえたら報酬を弾むって言ってるけど……今のガンツさんじゃ無理ね」
マーサ殿がチラリとガンツの包帯を見る。
確かに、力仕事も荒事も今の彼には不可能だ。鼻息を荒くして立ち上がろうとしたガンツを、私は手で制した。
「座りたまえ、負傷兵。……ふむ。犯人を追う必要はありませんな」
「あ? なんでだよ石頭。干し肉だぞ」
「走って逃げた犯人を追うなら、斥候や狩人の領分だ。だが、既に逃げた後となれば、必要なのは足跡を追う目ではない」
私は残りの酒をあおり、ニヤリと笑った。
「矛盾を追う『頭脳』ですよ。久々に、古巣のやり方を思い出させてもらおうか」
◇
市場の一角にある二本髭商会の倉庫は、焦げ臭いにおいに包まれていた。
ボヤ騒ぎがあったのは昨晩。火はすぐに消し止められたが、その混乱の中で、高価な干し肉の樽だけが消えていたという。
店主のボークは、恰幅の良い小男だ。汗を拭きながら、身振り手振りで惨状を訴えてくる。
「いやあ、参りましたよゴドの旦那! よりによって一番高い商品がやられるなんて! これは商売敵の嫌がらせに違いない!」
「ふむ。見せていただきましょう、現場を」
私は倉庫内を歩き回る。
筋肉殿は入り口で仁王立ちして睨みをきかせているが、片腕が吊られているので、ただの「態度の悪い怪我人」にしか見えない。
そこへ、ふらりとフィス君が現れた。
「やあ。焦げ臭いねぇ。まるで凍りついた心が、熱で溶け出した後のような臭いだ」
「詩的な表現は結構だよ、フィス君。何か気づいたことは?」
「そうだねぇ。火元は入り口付近。でも、樽があったのは一番奥。冷たい風が吹き込む窓の下だ」
フィス君の視線の先。確かに、樽が置かれていた跡がある。
私は床を指でなぞり、埃のつき方を確認した。そして、ボークの方を振り返る。
「ボーク殿。衛兵には『外部からの侵入者が、火を放って注意を逸らし、その隙に樽を盗んだ』と説明したそうですな?」
「ええ、そうですとも! 裏口の鍵が壊されていましたからな!」
「なるほど。……では、筋肉殿」
「おう」
「あの樽は一つ、どれくらいの重さがある?」
「あん? 肉が詰まってんだろ? あのサイズなら、一樽で大人の男一人分はずっしりくるな。三つも抱えて走るのは、俺でも骨が折れるぜ」
ガンツの言葉に、ボークの顔が引きつる。
そう、重すぎるのだ。
火事の混乱の中、男一人が抱えるのもやっとの樽を三つも運び出す? しかも、誰にも見られずに?
私は髭を撫でながら、ボークに歩み寄った。
「奇妙ですな、これは。裏口の地面には、荷車やソリを引きずった跡が一切なかった。担いで運んだにしては、足跡が深くない」
「そ、それは……複数犯で、手分けして……」
「ほう? 複数犯なら、なぜ『一番高い樽』だけを正確に狙えたのです? 暗闇の中で、ラベルも確認せずに?」
私は懐から、衛兵時代の手帳を取り出した。ただの古いメモ帳だが、こういう手合いには「公的な記録」に見えるらしい。
「ここからは私の推測ですがね、ボーク殿。……盗まれた樽は、最初から『存在しなかった』のではないかな?」
「な、何を馬鹿な!」
「商工会の規定、第十二条。『火災による商品損失は、組合から補填金が出る』。……最近、仕入れ値が高騰して資金繰りが厳しいと聞いていますが?」
ボークの顔から、血の気が引いていく。
ここだ。ここが攻め時だ。私は声を荒げず、むしろ温度を下げて、淡々と「法律」を語り始めた。
「ボーク殿。虚偽申告による補填金詐欺は、窃盗よりも罪が重い。辺境伯領の法では、『商業資格の剥奪』および『鉱山での三年間の強制労働』と定められています」
「ひっ……!」
「ですが、もしこれが『勘違い』だったとしたらどうでしょう。実は樽は別の場所に移動させていて、ボヤ騒ぎで動転して紛失したと思い込んだ……。それなら、ただの『おっちょこちょい』で済みます」
私はボークの肩に、ポンと手を置いた。
ドワーフのゴツゴツした手は、言葉以上の圧力を語る。
「衛兵隊にこの矛盾を報告する前に、貴方自身の口から『真実』を聞きたいものですな。我々は冒険者だ。法の番人ではない。……手間賃さえ貰えれば、報告書の内容などどうにでもなる」
ボークの視線が泳ぐ。
その時、フィス君が涼しい顔で、ボークの背後に回って囁いた。
「正直に言ったほうがいいよ。嘘はいつか氷解する。冷たい牢獄で、カチコチに固まったパンを齧るよりは、ここで楽になったほうがいい」
「あ、あ、あああ……っ!」
ボークはその場に崩れ落ちた。
「す、すみません! 魔が差したんです! 在庫が合わなくて、つい……!」
……解決だ。剣も魔法も要らない。
必要なのは、少しの観察眼と、相手が勝手に悪い想像をしてくれる「余白」だけ。
私は手帳をしまい、ニッコリと笑った。
「賢明な判断です。では、口止め料……いや、『捜査協力への謝礼』として、最高級の干し肉を一樽、頂いていきましょうか」
◇
夕暮れの「錆びた剣亭」。
私たちのテーブルには、戦利品である極上の干し肉が山盛りにされていた。
噛みしめると、熟成された肉の旨味がじわりと広がり、蒸留酒のピート香と混ざり合う。至福の時間だ。
「けっ。結局、口先だけで終わらせやがって。俺なら斧で裏口の扉ごと尋問してやったのに」
ガンツが不満そうに干し肉を齧る。
「野蛮ですな、相変わらず。君のやり方では、解決どころか傷害罪でこちらが牢屋行きだ」
「なんだと? 筋肉がありゃ大抵のことは解決すんだよ」
「法の前では筋肉など無力です」
「いや、法を作る奴も守る奴も、結局は人間だろ? なら殴れば倒せる」
「……フィス君、この脳筋に何か言ってやりたまえ」
私が水を向けると、フィス君はグラスのワインを透かし見ながら、クスクスと笑った。
「まあまあ。ボークさんも反省して、隠していた在庫を吐き出したんだ。凍てつくような恐怖を与えたのは、ゴドの言葉だったけどね。……言葉の刃は、斧よりも深く刺さることもあるってことさ」
フィス君が指をパチンと鳴らすと、私たちのグラスの表面に薄っすらと霜が降りた。
キンと冷えた酒が、喉を心地よく通り過ぎていく。
これもまた、彼なりの「お疲れ様」という合図なのだろう。
私は満足げに髭を拭い、グラスを掲げた。
「さて、明日からはまた地味な依頼の日々だ。ガンツの腕が治るまでは、私の知恵に頼ってもらいますぞ」
「へいへい。わーったよ、石頭」
今日の勝利は、血なまぐさい戦場ではなく、埃っぽい倉庫の中で得たものだ。
だが、酒の味は変わらない。
「法律の抜け穴と、極上の干し肉に乾杯!」




