第49話 『筋肉も魔法も役立たずな毒の崖で、元衛兵隊長がロープ一本で胃薬をもぎ取った話』
痛みますな、最近はどうにも胃の腑が。
立て続けに王都の特務機関やら悪徳商人やらの相手をしていては、寿命が縮む思いですよ。私が「錆びた剣亭」のカウンターで、ピート香の強い酒で胃を誤魔化しながら静かにグラスを傾けていた時のことです。
「こんばんは。少し、ご相談がありまして」
現れたのは、街で個人の治療院を営む若き薬師、『先生』でした。彼は日々多くの患者を一人で抱え、その予約や予定の管理だけでも目を回すほど忙しいはずですが、今夜はひどく切羽詰まった様子で自ら足を運んできたようです。
「実は、珍しい薬草の群生地を見つけたのです。ですが、周囲の地形が不安定で、私ではどうしても近寄れなくて……」
場所を聞いて、私は顔をしかめました。そこは以前、私たちが大蛇を討伐した森の奥地。主を失ったことで生態系が乱れ、今は厄介な危険地帯と化しているはずです。
「よおし、任せとけ! 俺の筋肉が道を切り開いてやるぜ!」
隣で骨付き肉を齧っていた筋肉殿が、勝手に請け負ってしまいました。やれやれ、胃の痛みがまた一つ増えましたよ。
◇
翌日、森の奥地へ足を踏み入れた私たちは、言葉を失いました。
切り立った崖の中腹。南向きで日差しがよく当たる、まるで狭い箱庭のような高所の岩棚に、目的の薬草は生えていました。限られた土壌とはいえ、植物が育つには絶好の環境なのでしょう。
しかし、崖の下には大蛇が暴れた爪痕が深く残り、足場は最悪に崩れていました。さらに厄介なことに、周囲には僅かな振動や刺激を与えただけで猛毒の胞子を撒き散らす『紫煙の毒茸』がびっしりと群生していたのです。
「なるほど、崖を一気に跳躍して……」
「駄目です、筋肉殿。あなたの重い踏み込みでは、着地の振動で毒茸が一斉に破裂します。薬草もろとも、我々の肺が腐り落ちますぞ」
私が即座に制止すると、今度は細いの……フィス君が前に出ました。
「厄介だねぇ。解決の糸口が全く見えないよ。僕たちの強みが完全に縛られている状態だ。誰かが確かな結び目を作ってくれないと、手出しできないねぇ」
独り言のように呟きながら、彼は杖を弄びます。
「風で胞子を吹き飛ばすか、崖ごと乾燥させようか?」
「論外です。薬草の繊細な成分まで変質してしまいます」
私は深いため息をつき、背負っていた荷物を下ろしました。
「見ていられませんな、あなた方の極端な力押しは。いいですか、お二人はそこで一歩も動かずに待機していてください」
私は荷物の中から、強靭なロープとハーネス、そして数本の楔だけを取り出し、崖へと取り付きました。
ここで必要なのは圧倒的な力でも、規格外の魔法でもありません。最小の動きで最大の成果を上げる、計算され尽くした技術です。
岩の僅かな隙間に楔を打ち込み、指先の感覚と体重の移動だけで静かに体を持ち上げる。元衛兵隊長として、いや、かつての軍隊における特殊部隊として培った隠密の登攀術です。
毒茸の傘からわずか数寸の距離をすり抜け、息音すら殺して、私は南向きの岩棚へと到達しました。根を傷つけないよう、土ごと慎重に薬草を採取し、背中の袋へ収めます。
誰に称賛されることもなく、ただ任務だけを完璧に遂行する。これが、私のプロとしての仕事です。
◇
「錆びた剣亭」に戻った夜。
『先生』は持ち帰った薬草を素早く調合し、小さな丸薬を完成させました。
「皆さん、ありがとうございました。……ああ、ゴドさん。この薬草の成分は、疲労やストレスから来る胃痛にも劇的に効きますよ」
その言葉を聞いた瞬間、私の視界がパッと明るくなりました。
「……それが一番、ありがたいですな」
私は思わず丸薬を一つ口に含み、深く頷きました。スーッとした清涼感が、焼け焦げそうだった胃の腑を優しく包み込んでいきます。
ガストン殿が、今夜の仕事の労いとして特別な酒を出してくれました。いつもの強烈な泥炭の香りではなく、芳醇な甘みと樽の香りが美しく調和した、黒いボトルの豊かな蒸留酒です。
隣では、出番のなかった筋肉殿が「今日は汗をかいてねえからエールが不味い」とぼやき、フィス君が「君はいつもそうだねぇ」と笑っています。
薬草の確かな恩恵と、この極上の酒があれば、明日からの厄介事も少しは耐えられそうです。
私はグラスを持ち上げ、静かに笑みを浮かべました。
「熟練のロープ捌きと、胃袋を癒やす特効薬に乾杯!」




