第46話 『猟師を襲った不運な事故の裏で、王都の蜘蛛が糸を引いていた話』
騒がしいですな、今夜の「錆びた剣亭」は。
いつもならば、一日の疲れを癒やす冒険者たちの笑い声が響く時間ですが、どうにも空気が落ち着きません。
原因は明らかでした。地元の腕利き猟師であるロブ殿が、夕暮れを過ぎても森から戻っていないのです。
「ただの道迷いだろう。凄腕の猟師なら、森で一晩明かすなんて珍しくもねえ」
筋肉殿が、骨付き肉を豪快に噛み千切りながら言いました。確かに、一般的な遭難であれば、慌てるような時間ではありません。彼らは『七色雉』のような珍しい獲物を追って、予定を変更することなど日常茶飯事ですから。
「そうだといいけどねぇ」
隣でワイングラスを揺らしながら、フィス君が珍しく真剣なトーンで呟きました。
「今日はどうにも、風が淀んでいる。森の奥で、誰かが見えない糸を張り巡らしているような気がするよ。足元に気をつけないと、無関係な者まで厄介な事態に絡め取られる。冷たい悪意を紡いでいる輩がいるなら、ご免だねぇ」
独り言のようなその言葉に、私はウイスキーのグラスを置きました。
フィス君の冗談めかした比喩は、時に恐ろしいほどの真実を突くことがあります。そして何より、私の斥候としての勘が、先ほどから警鐘を鳴らし続けていたのです。
「少々、夜風に当たってきますよ。酔い覚ましにね」
私は席を立ち、誰にも気づかれぬよう、裏口から静かに夜の森へと向かいました。
◇
暗い森の中、私は愛用の『消音ブーツ』で足音を完全に殺し、木々の間を滑るように進んでいきました。
見逃しませんよ、私は。
ロブ殿の足跡はすぐに見つかりました。しかし、問題はその後です。彼の足跡の周囲に、別の何者かが残した痕跡が、不自然なほど綺麗に消し去られていたのです。
素人目には風で木の葉が舞ったようにしか見えないでしょうが、私の目は誤魔化せません。これは、訓練されたプロフェッショナルによる偽装工作です。
痕跡を逆算し、茂みの奥へと進んだ私の目に飛び込んできたのは、予想以上に凄惨な光景でした。
大樹の根元で、ロブ殿が宙吊りになって意識を失っていたのです。
彼を絡めとっているのは、猟師が使うような麻縄ではありません。極細の鋼線です。さらに厄介なことに、鋼線の結び目には精巧なガラス管が仕込まれており、そこから特殊な麻酔薬が微量ずつ彼の皮膚から浸透する仕組みになっていました。
「……これは獣を捕らえるものではありませんな。人間を、それも極めて熟練の戦闘者を『生け捕り』にするための代物です」
私は周囲を警戒しながら、素早く罠の構造を分析しました。
魔法に頼らない、純粋な物理的・機械的アプローチ。対象の動きを封じ、思考を奪い、無力化する。この辺境の森に生息する魔獣相手に、ここまで高度な機構を用いる理由がありません。
間違いありません。これは私たち……あるいは、私個人を狙って仕掛けられたものです。ロブ殿は、たまたまその作動範囲を踏み抜いてしまった、不運な民間人に過ぎないのです。
私は極細のピン抜きを取り出し、鋼線の張力を慎重に操作しながら、ガラス管を割らぬよう罠を解体しました。
解放されたロブ殿に、解毒と気付けを兼ねた薬草を嗅がせ、応急処置を施します。幸い、命に別状はないようでした。
◇
「おい、ロブが見つかったってよ!」
私が店に戻ってしばらくすると、表から喧騒が飛び込んできました。
「街の入り口近くで倒れてたらしい。珍しい鳥を追って足を踏み外したとかで、酷く疲弊してたが、怪我はねえそうだ」
その報告に、店内は安堵の空気に包まれました。
「ほれ見ろ、俺の言った通りだろ。平和なもんだぜ」
筋肉殿がエールのジョッキを高く掲げ、上機嫌で笑い声を上げます。
私はそれに曖昧に頷きながら、ガストン殿にいつものピート香の強いウイスキーを注文しました。
平和。実に甘美な響きですが、どうやら私たちの足元には、すでに深い影が落ち始めているようです。
私はポケットの中で、罠から密かに回収した小さな金属部品を指先でなぞりました。
そこには、王都の暗部……かつて私が身を置いていた軍の上層部と深い繋がりを持つ、特務機関の印が微かに刻まれていました。
アレク君を陥れようとした前回の調査官のように、法や理屈で追い返せる相手ではありません。連中は、確実に息の根を止めに来る、本物の『猟犬』です。
胃の奥が、ウイスキーのアルコールとは別の理由で熱く焼け焦げるのを感じます。
ですが、黙って狩られるつもりはありませんよ。ここには、私の守るべき平穏と、最高の酒があるのですから。
私はグラスを持ち上げ、誰にも聞こえない声で呟きました。
「忍び寄る王都の悪意と、束の間の平和に乾杯!」




