第43話 『名前も知らぬ若造が、教えた通りのデコピンで神話級の珍味を仕留めてきた話』
冒険者酒場の夜は、いつだって騒がしい。
エールの樽からあふれる泡、荒くれ者たちの笑い声、そして調理場から漂う香ばしい肉の匂い。看板娘の私、ミナにとって、それは日常のBGMみたいなものだ。
けれど今夜、カウンターの隅で一人、にやにやと気味の悪い笑みを浮かべている若手剣士の姿は、流石に無視できなかった。
「ちょっとネイト、さっきから顔が緩みっぱなしよ。何かいいことでもあったの?」
私が空いたジョッキを片付けながら声をかけると、彼は弾かれたように顔を上げた。
「ミ、ミナさん! 聞いてくださいよ、今日の俺を!」
ネイトと呼ばれた彼は、顔を上気させて身を乗り出してきた。彼は「陽だまりの樽亭」に通う若手の中でも、最近特にうちの店に顔を出すようになった一人だ。理由はまあ、あそこのカウンターの隅に陣取っている「生ける伝説」たちに憧れているからだろうけど。
「森で遭遇したんです。岩盤のように硬い甲殻を持つ『硬岩の巨鼈』に!」
その名を聞いて、周りにいた冒険者たちが息を呑んだ。ただの亀じゃない。物理攻撃が一切通じないと言われる、辺境でも一際厄介な魔獣だ。
「どうせ逃げ帰ってきたんだろ?」
「いいえ! 俺、やったんです。あのおっさ……いえ、ガンツさんに教わった本気の技術を!」
ネイトは興奮のあまり、エールを一口飲んでから続けた。
「突進を正面から受けちゃダメだ、衝撃を優しく受け止める緩衝防御を使えって言われたのを思い出して……それから、全身の力を一点に集める筋肉の連動を意識して、指先に込めたんです。あの時見た、極限圧縮の……」
「まさか、あのデコピンをやったの?」
私が尋ねると、彼は誇らしげに頷いた。
「はい! 巨鼈の首の、ほんのわずかな隙間に『回転デコピン』を叩き込んでやりました。甲羅を傷一つつけずに、一撃で気絶させてやったんです!」
◇
ネイトの話が最高潮に達した時、背後から重厚な足音が近づいてきた。
「……ほう、あの石頭よりの頭より硬い甲羅を、デコピンでな」
現れたのは、傷だらけの厳つい戦士、ガンツさんだった。その後ろには、呆れた顔のドワーフのゴドさんと、相変わらず掴みどころのない笑みを浮かべるエルフのフィスさんも続いている。
ネイトは一瞬で背筋を伸ばし、憧れの師匠(本人は認めていないが)を仰ぎ見た。
ガンツさんは、ネイトが仕留めて店に持ち込んだという巨大な獲物を一瞥した。そして、無造作に太い腕を伸ばすと、ネイトの肩をドスンと叩いた。
「完璧な物理だ。よくやったな、ネイト」
店内の空気が凍りついた。
誰よりも驚いたのは私だ。あのガンツさんが、若手のことを「おい」とか「坊主」じゃなく、ちゃんと名前で呼んだのだ。
「あ、ありがとうございます! ガンツさん!」
ネイトの目は、今にも涙がこぼれそうに潤んでいた。
「良かったねぇ。ガンツが名前を覚えるなんて、十年に一度な出来事だよ。君が積み重ねた努力の重みが、その指先に宿ったんだろうね」
フィスさんが隣から口を挟む。
「若いうちの苦労は、圧縮された魔力のように、いつか自分を助けてくれるものさ。君の硬い決意が、その結果を招いたんだよ」
フィスさんはいつものように、キザな言い回しを独り言のように呟いている。魔法を放つ気配はないが、その瞳には蓄積された魔力の深い輝きが宿っているように見えた。
その時、調理場からずっしりとした存在感が放たれた。
父、ガストンが、獲物の状態を無言で見定めていた。
若者が泥だらけになって、傷一つつけずに持ち帰った最高の食材。父の目には、料理人としての静かな情熱が灯っている。
父は、磨き抜かれた『伝説の蟹割り包丁』を握り直すと、これまでにないほど真剣な面持ちで巨鼈に向き合った。
◇
カィィィン、という澄んだ音。
岩盤をも凌ぐと言われた甲羅が、父の神業によって音もなく真っ二つに割れた。
父は無言のまま、だが驚くべき手際で調理を進めていく。素材の味を最大限に引き出すため、火力の調整から灰汁取りに至るまで、一切の妥協がない。
フィスさんが余計な手出しをすることもなく、ただ静かにガストンの包丁捌きを眺めている。
一刻も経たぬうちに、カウンターには巨大な土鍋が運ばれてきた。
琥珀色のスープの中で、白身の肉とプルプルのコラーゲンが踊っている。若者の手柄を祝うため、父が持てる技の全てを注ぎ込んだ、渾身のスッポン鍋だ。
「さあ、仕留めた本人が食わなきゃ始まらねえだろ」
ガンツさんに促され、ネイトは震える手で匙を取った。
「……う、美味い……!」
その一口で、彼は本当に泣き出してしまった。
師匠に認められ、その師匠たちと同じ鍋を囲む。若手冒険者にとって、これ以上の報酬はないだろう。
ガンツさんは豪快に肉を頬張り、ゴドさんは出汁の出たスープを慎重に味わい、フィスさんは美しくワインを傾けている。
父、ガストンは、空になったネイトの器を黙って指差し、もっと食えとばかりに鍋を近づけた。
私は、その中心で照れくさそうに笑うネイトの姿を見て、この酒場が「錆びた剣」だけじゃなく、新しく磨かれ始めた剣の居場所でもあるんだな、と改めて思った。
ネイトの初手柄と、父さんの最高の料理に、今夜はとっておきのお祝いが必要ね。
私は新しいジョッキを並べ、満面の笑みで宣言した。
「若き挑戦者の武勇伝と、名前を覚えたての弟子に乾杯!」




