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第42話 『過去を嗅ぎ回る猟犬を、黒い手帳と古びた法典で追い払った夜の話』

 実に重たい芳香ですな、この泥炭の香りが強いウイスキーは。胃の腑の痛みを散らすには、これ以上の薬はありません。


 私がカウンターの隅で、琥珀色の液体を転がしていた時のことです。


 店の扉が、いささか落ち着きのない音を立てて開きました。現れたのは二本髭の商会主、ボーク殿です。


「隊長、まずいですよ。王都から『猟犬』が来ました。あなたの過去……あの汚職事件の件を嗅ぎ回っている」


 ボーク殿の髭が、不安げに震えています。


 王都。汚職。


 懐かしい、と言い切るには少々泥の味が過ぎる単語ですな。私はかつて、部下たちを守るために無実の罪を背負って王都を去りました。今更その古傷を抉ろうという輩がいるとは。


「私を探して、わざわざこの辺境まで? 酔狂なことですな」


「笑い事じゃありませんよ。奴の名は調査官ハルバート。現騎士団長のアレク閣下を失脚させようとしている派閥の犬です。閣下の『かつての上官』であるあなたから、都合のいい証言を引き出そうとしている」


 なるほど。アレク君は出世しすぎましたか。


 正義感の強い彼のことです、王都の伏魔殿では敵も多いのでしょう。


 ◇


 ボーク殿が去ってから一刻も経たぬうちに、その男は現れました。


 糊の効いた上着に、革靴。この辺境の街には不釣り合いな、インクと紙の匂いをさせた男です。ハルバートと名乗った調査官は、私の向かいに座るなり、嫌な笑みを浮かべました。


「元衛兵隊長ゴド。あなたの汚職に関する新たな証拠が見つかりましてね。協力次第では、その罪を帳消しにしてもいい」


 突きつけられた書類には、いかにももっともらしい嘘が並んでいました。私がアレク君から賄賂を受け取っていたという、お粗末な捏造です。


「見ていられませんな、あなたの仕事は。詰めが甘いのです、論理の構築に」


 私はウイスキーを一口含み、溜息をつきました。


「何だと? 貴様、自分の立場が分かっているのか。拒むなら、この店ごと潰すこともできるのだぞ。不衛生な環境、不透明な帳簿。王都の権限を使えば、営業停止など容易い」


 男が声を荒らげ、周囲の客が顔を上げました。


 筋肉殿(ガンツ)が、酒を飲む手を止めて斧の柄に手をかけています。フィス君も、薄笑いを浮かべたまま指先を遊ばせている。


「空気が(おも)苦しいねぇ。まるで重石にでも(しば)り付けられているみたいだ。そんな不自由な(くさり)、僕なら真っ先に断ち切ってしまうけれど」


 フィス君が独り言のように呟きました。キザな比喩ですが、空気が妙に張り詰めたのは気のせいではないでしょう。


 私が反論しようとした、その時です。


 カウンターの向こうから、女将のマーサ殿が静かに歩み寄ってきました。


 彼女の手にあったのは、使い込まれた一冊の黒革の手帳です。


「調査官様。当店の帳簿が不透明とおっしゃいましたか?」


 マーサ殿の声は穏やかでしたが、その目は全く笑っていませんでした。


「ついでに、あなたの上司であるゴルマン伯爵の『裏帳簿』についても、不透明な点がないか確認して差し上げましょうか。王都中央広場から三つ目の通りの、地下貯蔵庫の奥にある三番目の箱……そこに隠された金の流れは、実に興味深いものでしたよ」


 ハルバート調査官の顔から、一気に血の気が引きました。


「な、なぜそれを……」


「帳簿は嘘をつきません。そして、私の耳に届く噂もまた、数字と同じくらい正確なのです」


 私はここぞとばかりに、軍隊時代の癖で指を鳴らし、入り口の方へ視線を向けました。


「調査官殿。王立保安法第十七条によれば、捏造された書類を用いた脅迫は、重労働刑に相当します。そして……」


 私は軍の隠語で『退路遮断』を意味する符丁を、テーブルを叩く音に混ぜて示しました。


「この街の衛兵所には、私の教え子が何人かおりましてね。彼らがあなたの滞在先を検問するのに、そう時間はかからないでしょう。どうしますか? 今すぐその紙屑を持って、王都へ逃げ帰りますか?」


 調査官は、もはや返事をする余裕もなかったようです。


 彼はマーサ殿の手帳を、まるで恐ろしい魔道具でも見るような目で一瞥すると、転がるように店を飛び出していきました。


 ◇


 静寂が戻った店内に、筋肉殿(ガンツ)の豪快な笑い声が響きました。


「はっはっは! いい気味だぜ、あのインク臭い野郎。ゴドの理屈も凄いが、女将さんのあの手帳、ありゃあ一撃必殺の魔道具より恐ろしいな!」


「……全くですな。私も肝が冷えましたよ」


 私は改めて、マーサ殿を仰ぎ見ました。


 彼女は既に、何事もなかったかのようにグラスを磨いています。一介の酒場の女将が、なぜ王都の大貴族の隠し資産の場所まで知っているのか。


 聞き出そうとするのは、野暮というものでしょう。あるいは、命がいくつあっても足りない。


「フィス君。君も少しばかり、加勢してくれたようですな」


「さあ、何のことだい? 僕はただ、空気が淀んでいたから少し<換気>をしただけだよ。重苦しいのは、お肌の天敵だからね」


 エルフの友人は、核心をはぐらかして笑いました。


 私は残りのウイスキーを飲み干し、ガストン殿に声をかけました。


「ガストン殿、すまないが……もう少し、高いやつを。今日は胃をいたわってやりたいのです」


 無口な店主は、黙ってラベルのない古びた小瓶を取り出しました。


 私の過去を知る者は、この店には二人(と、手帳を一冊)いれば十分です。


 不器用な平和が守られたことに感謝しつつ、私は新しく注がれた杯を掲げました。


「女将の恐ろしい情報網と、私の平穏な胃袋に乾杯!」


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