第37話 『指揮官が素手で魔獣をへし折り、ウイスキーの香りを気にして言い訳した話』
今日の酒は、やけに煙臭え。
ガストンが注いでくれた琥珀色の液体は、鼻を突くようなピートの香りが強烈だ。俺はエール党だが、たまにはこういうのも悪くねえ。隣で渋い顔をしてグラスを傾けている、不機嫌な髭面の横顔を見ながら飲むなら格別だぜ。
事の始まりは、昼下がりの森だった。
錆びた剣亭の看板娘のミナが、裏山の奥にしか生えない薬草を摘みに行くってんで、俺たちが護衛についた。俺が先頭で露払いをして、後ろをミナと石頭、それに細いのが歩く陣形だ。
平和な散歩道になるはずだったんだが、甘くはなかったぜ。
木々の間を抜ける風の音が、急に鋭く変わった。
頭上から降ってきたのは、刃物みてえな爪を持った厄介な魔獣、『風断ち鎌鼬』だ。俺の自慢の筋肉と大盾の死角を、滑るようにすり抜けやがった。
狙いは、最後尾のミナ。
「ちっ」
俺が舌打ちして剛斧を振り返そうとした瞬間には、もう手遅れに見えた。ミナの悲鳴が森に響くはずだった。
だが、悲鳴を上げたのは獣のほうだったぜ。
バサリと音を立てて、石頭が愛用のクロスボウを地面に放り捨てていた。
次の瞬間、あの低い背丈のドワーフが、目にも留まらぬ踏み込みで獣の懐に潜り込んでいやがった。無駄な動きが一切ねえ、地を這うような重心移動だ。
振り下ろされる鎌鼬の爪を半身で躱し、石頭のぶ厚い手刀が、魔獣の喉仏にめり込む。グチャリという嫌な音。獣が仰け反ったところへ、今度は関節を正確に撃ち抜く強烈な蹴りが叩き込まれた。
一拍の遅れもねえ。完璧な近接格闘術だ。
悲鳴を上げる間もなく、素早い魔獣は首と脚をへし折られ、ただの動かない毛皮に変わっていた。
「……ひっ」
ミナが腰を抜かして、へたり込んだ。無理もねえ、ただの斥候だと思ってた髭の小父さんが、熟練の闘士みてえに素手で魔獣を粉砕したんだからな。
だが、俺はニヤリと笑って斧を下ろした。
「お前、良い拳持ってんな」
昔とはいえ隊長を張ってた男が、後方支援しかできねえわけがねえんだ。あの無駄のない動き、何度となく死線を潜り抜けてきた本物の兵士の格闘術だぜ。
俺の横で、細いのが薄く笑いながら杖を突いた。
「ふふ、見事なものだねぇ。どんなに素早い風でも、隊長という分厚い岩盤には傷ひとつつけられない。大地に根を下ろした一撃は、すべてを重力の下に平伏させるのさ。ドワーフは頑丈だからねぇ」
奴は相変わらず、気取った言葉遊びを口にしながら、魔力をその細い体と杖に溜め込んでやがった。いつでも<質量付与>の乗った杖で殴りかかる準備ができていたんだろうよ。
当の石頭はというと、ひどく不機嫌そうな顔をして、懐から取り出した布でゴシゴシと手を拭いていた。
「……指揮官が剣を抜く、あるいは自ら手を下すというのは、防衛線が崩壊した証拠。本官としたことが、少々熱くなりましたな」
誰に言い訳してんだか。俺の対応が遅れたからフォローに入っただけだろうが。
「それに、獣の血の匂いは、夜に楽しむウイスキーの香りを著しく損なうのです。実に忌々しい」
◇
そして今、錆びた剣亭のカウンターだ。
石頭は、獣の血の匂いを上書きするかのように、わざわざ一番香りの強い、泥炭の煙をたっぷり吸い込んだ強烈なウイスキーを注文してやがる。
「おいおい、そんなに煙たい酒ばかり飲んでたら、明日まで鼻が馬鹿になるぜ」
「放っておいていただきたい。……まったく、筋肉殿の露払いが甘いから、余計な体力を使ったのですよ」
ブツブツと文句を言いながらグラスを空ける姿に、俺と細いのは顔を見合わせて吹き出した。
ミナが呆れたように、俺たちの前に新しいつまみの燻製肉をドンと置く。
「口の減らない元隊長殿の華麗な手刀と、強烈なピートの香りに乾杯!」




