第35話 『最強の魔獣よりも恐ろしい「風」に怯え、俺たちが草を食むヤギになった一週間の話』
朝、目が覚めた瞬間だった。
右足の親指の付け根に、とんでもねえ激痛が走りやがった。
敵襲か? いや、違う。部屋には誰もいねえ。
布団が擦れるだけで、針で刺されたような痛みが走る。風が吹いても痛えって言う、あの忌々しい病気だ。
「……マジかよ」
俺は脂汗を流しながら、愛しい孫の写真を差し入れた木彫りのペンダントを握りしめた。
まだ死ねねえ。孫が成人するまでは、この筋肉を維持しなきゃならねえんだ。
俺は足を引きずりながら、酒場へと向かった。
◇
「……ほう。ついに来ましたか、筋肉殿」
事情を話すと、石頭が深刻な顔で頷いた。
だが、嘲笑う様子はねえ。こいつの手元には、いつもの蒸留酒ではなく、白湯が置かれている。
「笑い事ではありませんぞ。実は私も先日、『先生』の定期検診で、肝臓の数値がレッドゾーンに突入しましてな」
「……お前もかよ」
「僕もだよ」
細いのが、ため息交じりにハーブティーを啜っている。
「エルフは病気知らずだと思ってたが?」
「長生きしすぎるとね、内臓も澱んでくるんだよ。最近、循環が悪くてね。体内を清流のように保つのは骨が折れる」
……こいつらも、ガタが来てやがったか。
俺たちは顔を見合わせた。
ドラゴンも、オークの群れも、筋肉と知恵でねじ伏せてきた。だが、自身の肉体の反乱だけは、物理攻撃が通じねえ。
「決行するぞ。……『デトックス作戦』だ」
俺の宣言に、二人が重々しく頷いた。
その足で俺たちは市場へ向かった。
「へい、いらっしゃい! ……って、皆さん顔色が悪いですね?」
青果店のポポロが、心配そうに声をかけてくる。
「ポポロ、店にある一番苦い野菜と、体にいい薬草をくれ。全部だ」
「えっ? あ、はい。じゃあ、この『苦行セロリ』と『毒出し根』なんかはどうです?」
「……頼む」
俺たちは大量の緑色の束を抱えて、それぞれの宿に戻った。
そこからの三日間は、地獄だった。
朝、セロリを齧る。
昼、苦い根っこを煮出した汁を飲む。
夜、ガストンの店で「蒸し野菜、塩なしで」と注文し、周囲が美味そうにビールを飲む音を聞きながら、ひたすら咀嚼する。
ストレスで筋肉が萎みそうだった。
肉が食いてえ。脂が滴る骨付き肉にかぶりつきてえ。
冷えたエールを、喉が鳴るまで流し込みてえ。
「……限界です。あの客の唐揚げを強奪してしまいそうだ」
石頭が、充血した目で隣のテーブルを睨んでいる。
「落ち着け。……孫の顔を思い出せ。長生きして、孫の結婚式で泣くんだろ?」
「私は独身ですがね……」
「僕もだよ。このまま洗い流してしまいたい欲求に駆られるけど、今は我慢の時だ」
細いのがブツブツと呟いている。
俺たちは戦友だ。戦場ではなく、食卓という名の戦場で、己の欲望と戦う同志だ。
◇
そして運命の診断日。
診療所の『先生』の前で、俺たちは借りてきた猫のように小さくなっていた。
ダンジョンの罠解除を待つ時より緊張するぜ。
先生は長い時間をかけて触診し、魔導具で数値を測り、最後に眼鏡を押し上げた。
「……驚きましたね。三人とも、数値が正常値に戻っています」
「ほ、本当か!?」
「ええ。特にガンツさんの尿酸値、劇的に下がってますよ。一体どんな修行をしたんです?」
「……草を食ってただけだ」
「まあ、無理は禁物ですが、この数値なら『適度な』飲酒は問題ありません」
適度! なんて甘美な響きだ!
その夜、「錆びた剣亭」の暖簾をくぐる俺たちの足取りは、スキップしたくなるほど軽かった。
いつもの席に着く。
ガストンが、何も言わずに冷えたジョッキを三つ、ドンと置いた。
黄金色の液体が、ランプの光を浴びて輝いている。
俺たちは無言でグラスを持ち上げた。
言葉はいらねえ。
カチン、とグラスが触れ合う音が、店内に響く。
ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ……プハァァァァッ!
「……染みるぅぅぅ!」
五臓六腑に、アルコールが駆け巡る。生きてる。俺は今、猛烈に生きている!
隣を見れば、石頭が涙目で天井を仰ぎ、細いのが恍惚の表情で頬を染めている。
結局、俺たちは戦いから逃げることはできねえ。
魔獣からも、老いからも、そしてこの美味い酒からもな。
俺は空になったジョッキを叩きつけ、ガストンに向かって叫んだ。
「おかわりだ! ……あと、今日はサラダも付けといてくれ!」
ささやかな抵抗だ。
俺たちは笑い合い、再びグラスを掲げた。
「健康診断の数値という強敵と、リバウンドの恐怖に乾杯!」




