第34話 『権力を振りかざす貴族様が、母さんの手帳一枚で脱兎のごとく逃げ出した話』
「錆びた剣亭」の看板娘、ミナです!
うちの店は、ちょっと強面だけど頼りになる冒険者さんたちが集まる、街の憩いの場。
特にカウンターの隅っこは、私の大好きなおじさんたち――ガンツさん、ゴドさん、フィスさんの指定席になっています。
今日も今日とて、三人はいつものようにお酒を飲んでいたんですけど……。
バンッ!
突然、乱暴な音と共に店のドアが開きました。
入ってきたのは、上等な服を着た太った男の人と、役人風の男たち。
「ここか! 犯罪者を匿っているという薄汚い酒場は!」
太った男――貴族でしょうか、ハンカチで鼻を覆いながら店内を見回します。そして、カウンターの隅で静かに飲んでいたゴドさんを見つけると、勝ち誇ったように指差しました。
「いたぞ! 元衛兵隊長のゴド! 汚職の罪で都を追放された恥知らずめ!」
店内が静まり返ります。
ゴドさんはゆっくりとグラスを置き、深いため息をつきました。
「……ゴルマン男爵ですか。わざわざこのような辺境まで、何の用ですかな」
「黙れ! 貴様のような危険人物が平然と街を歩いていること自体が許せんのだ! この店も同罪だぞ!」
男爵は父さんの方を向き、唾を飛ばしながら捲し立てました。
「店主! このドワーフは過去に公金を横領した大罪人だ! そのような『反社会的勢力』を客として招き入れるとは、この店もグルか!? 今すぐこいつを叩き出せ! さもなくば、営業停止処分にしてやる!」
営業停止……!
私が息を呑むと、ガンツさんがガタリと椅子を鳴らして立ち上がろうとしました。
「おい、手前ぇ……!」
「よせ、ガンツ」
それを制したのは、ゴドさんでした。
彼は寂しげな笑みを浮かべ、荷物をまとめ始めました。
「……店に迷惑はかけられん。私は出ていくよ」
「待てよ! お前がやってないことは、俺たちが一番知ってんだろ!」
「世間ではそうではないのだよ。……すまなかったな、ガストン殿、マーサ殿」
ゴドさんは父さんと母さんに頭を下げ、出口へと歩き出しました。
その背中はいつもより小さくて、私は胸が締め付けられる思いでした。ゴドさんは何も悪くないのに。誰かを庇って罪を被っただけなのに。
男爵はニヤニヤと笑っています。
「ふん、賢明な判断だ。二度と敷居を跨ぐなよ、薄汚い……」
ドンッ!!
重い音が響き、ゴドさんの足が止まりました。
父さんが、研ぎ澄まされた包丁をまな板に突き立てた音でした。
父さんは無言のままカウンターから出てくると、ゴドさんの肩をガシッと掴み、強引に席に座らせました。
「……注文は、まだ終わっていない」
低い、地の底から響くような声。
父さんの目は、男爵ではなく、ゴドさんの前の空いたグラスに向けられていました。
「な、なんだ貴様は! 私の命令が聞こえなかったのか! 営業停止だぞ!?」
男爵が顔を真っ赤にして叫びます。
「あらあら、随分と大きな声を出されますのね」
その時、奥から母さんが出てきました。
いつもの穏やかな笑顔。でも、私は知っています。母さんの目が笑っていない時は、父さんが包丁を握る時よりも怖いってことを。
母さんは手にした黒い革張りの手帳をパラパラとめくりながら、男爵の前に進み出ました。
「治安を乱すのは困りますわねぇ、ゴルマン様。……治安といえば、5年前の西部堤防工事の件、ご存知かしら?」
「な……何のことだ?」
男爵の表情がピクリと動きました。
母さんは手帳の一節を、歌うように読み上げました。
「『王歴〇〇年、5月。ゴルマン商会を経由し、堤防用資材費として金貨三千枚を着服。裏帳簿の保管場所は、別邸の地下金庫……』」
「ひ、ひぃぃぃっ!?」
男爵の顔から、一瞬で血の気が引いていきます。
「な、なぜそれを!? その手帳は一体……!?」
「この『黒革の手帳』は嘘をつきませんの。……ねえ? これ、監査局の方にお見せしてもよろしいのですけれど?」
母さんが首を傾げて微笑むと、男爵はガタガタと震え出しました。
「お、覚えていろぉぉぉ!」
捨て台詞と共に、男爵たちは転がるように店から逃げ出していきました。
嵐が去った店内。
ゴドさんは呆然と母さんを見上げ、それから深く項垂れました。
「……すまない。私のせいで、不愉快な思いをさせた」
父さんは何も言わず、コト、とゴドさんの前に温かいスープを置きました。ゴドさんの大好物の、根菜たっぷりのスープです。
「気にすることはありませんよ」
母さんは手帳をパタンと閉じ、いつもの優しい笑顔に戻っていました。
「当店は、代金を支払ってくださる『優良な常連客様』を守っただけですから。……それに、あの男爵、ツケを三回も踏み倒そうとした前科がありますしね」
最後の一言に、店内がドッと笑いに包まれました。
ゴドさんも、ガンツさんに背中を叩かれ、苦笑しながらスプーンを手に取りました。
私は、湯気を立てるスープと、おじさんたちの笑顔を見ながら、改めて思いました。
やっぱり私、この店と、この不器用で優しい人たちが大好きです!
「……ふふっ。というわけで、母さんの最強の武器と、父さんの無言の優しさに乾杯!」




