第32話 『散歩のつもりが黄泉の国への行進曲で、配達先が神話級の飲み友達だった話』
理解できませんな、この世界の理不尽さというものは。
私の目の前にあるグラスには、琥珀色の液体が揺れています。香り高い熟成されたブランデー。
ですが、私の手はまだ小刻みに震えているのです。まるで、生まれたての仔鹿のように。
「おい、石頭。さっきから酒がこぼれてるぞ」
隣で筋肉殿が、珍しく神妙な顔つきで指摘してきました。彼の手元を見れば、ジョッキを持つ手が白くなるほど強く握りしめられています。
「貴殿こそ、顔色が優れませんな。あの『怪物』の気配が、まだ背中に張り付いているのですか?」
「……思い出すな。鳥肌が止まらなくなる」
筋肉殿が身震いをして、エールを喉に流し込みました。
我々の向かいでは、フィス君がいつものように飄々とした薄笑いを浮かべ、ワインの香りを愉しんでおります。
「大げさだねぇ、二人とも。彼はただ、寂しかっただけさ。『古い根』は、時に絡まり合って語らいたいものなんだよ」
……これだから、長生きする種族というのは恐ろしい。
事の発端は、斡旋所長のバーンから持ち込まれた、奇妙な依頼でした。
◇
「森の指定場所に、この木箱を届けてくれ。中身は最高級の蒸留酒だ」
バーン所長はそう言って、厳重に封蝋された木箱を我々に託しました。
「報酬は金貨5枚。……高いだろう? だが、危険はない。依頼主は『森の住人』だ」
ただの配達依頼のわりに高額な報酬に引っかかりを覚えつつも、我々は街に隣接する深い森へと足を踏み入れたのです。
最初は、ただのハイキングでした。
ですが、森の奥深く、獣道すら途絶えたあたりで、世界が一変しました。
音が、消えたのです。
鳥のさえずりも、風が葉を揺らす音も、虫の羽音さえも。
私の『索敵』スキルが、何も捉えない。いや、正確には「何もない」という異常な反応だけを返し続けている。
「……おい、石頭。なんか変だぞ」
先頭を歩く筋肉殿が、足を止めました。
彼の背中からは、尋常ではない量の冷や汗が噴き出しています。
「気配がねえ。殺気も、敵意も、生命反応すらねえ。なのに、全身の毛が逆立ってやがる」
野性の勘が、警鐘を鳴らしているのです。ここは生物が立ち入ってはいけない領域だと。
私は冷や汗を拭い、背後のフィス君に声をかけようとしました。
「フィス君、君の魔法でなにか……」
振り返った瞬間、私の心臓は早鐘を打ち、呼吸が止まりました。
いつの間にか、いたのです。
フィス君のすぐ背後に。
音もなく、風も起こさず、空間から滲み出たかのように。
苔のような緑の体毛。頭には鮮やかな赤い花。身長は私の腰ほどもない、愛らしい姿。
以前、フィス君に飲ませるための薬瓶をくれた、あの『森の主』でした。
ですが、今の彼は違いました。
愛らしさなど微塵もない。そこにあるのは、圧倒的な「生物としての格」の違い。
巨竜を前にした時のような、あるいは、巨大な瀑布を見上げた時のような、抗いようのない大自然の圧力そのもの。
「ひっ……!」
歴戦の戦士であるはずの筋肉殿が、小さく悲鳴を上げ、直立不動で硬直しました。
私もです。動けない。膝が笑う。
ただの『小人』ではない。これは、この森そのものが具現化したような、精霊の上位種……いや、神に近い何かだ。
殺気などない。ただそこに「在る」だけで、我々のような矮小な生物を圧死させるほどの存在感。
我々が恐怖で魂を抜かれている中、フィス君だけが、ゆっくりと振り返りました。
「やあ、久しぶりだね。先日はどうも」
まるで、近所の老人に挨拶するかのような気安さで。
『森の主』は、しわくちゃの顔をニタリと歪めました。言葉はありませんでしたが、その意志は直接脳内に響いてきました。
『……遅かったではないか、若いの』
わ、若いの!?
この数百年生きているはずのエルフを捕まえて、若造扱いですか!?
フィス君は苦笑しながら、肩をすくめました。
「君の庭は広すぎるんだよ。『根を張り巡らせて』待っていたかい?」
フィス君はそう言いながら、私の持っていた木箱を受け取り、封を開けました。
中から出てきたのは、年代物の蒸留酒。
『……ほう。良い香りじゃ。我の作った泥水よりはマシかのう』
「あれは酷かったね。おかげで僕の『年輪』が狂ってしまったよ」
フィス君は懐から銀の杯を取り出し、なみなみと酒を注ぎました。
そして、あろうことか、その神話級の存在と「乾杯」をしたのです。
我々は、ただ立ち尽くすしかありませんでした。
森の静寂の中で、エルフと小人が酒を酌み交わす音だけが響く。
時折、フィス君が「そういえば、三百年前のあいつは……」などと、歴史書でしか見たことのない固有名詞を口にするたび、私はめまいを覚えました。
彼らは飲み友達なのです。
我々が必死に生き延びてきたこの世界で、彼らだけが違う時間を生きている。
その光景は、恐ろしくも、どこか神々しいものでした。
◇
どれほどの時間が経ったでしょう。
気がつけば、我々は森の入り口に戻っていました。
空になった木箱と、報酬の金貨だけが手元に残っています。
「……おい、フィス」
酒場で、ようやく口を開いた筋肉殿が、掠れた声で尋ねました。
「お前、あいつと……どういう関係なんだ?」
フィス君はグラスを揺らし、悪戯っぽく微笑みました。
「ただの古い友人さ。たまに生存確認をし合うだけのね」
友人、ですか。
あのような規格外の存在を友と呼べるのは、世界広しといえども君くらいでしょう。
私はため息をつき、震える手でようやくグラスを持ち上げました。
「……見過ごせませんな、君のその交友関係は。私の寿命が縮まりそうです」
「縮んだ分は、またあの泥薬をもらってくればいいさ」
「冗談じゃない!」
私と筋肉殿の声が重なりました。
やれやれ。今日は酔いが回るのが早そうです。
私は仲間たちを見渡し、この奇妙な一日に幕を引く言葉を選びました。
「底知れぬ森の深淵と、我々の知らない長い長い友情に乾杯」




