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第30話 『透明な魔獣のせいで厨房を粉まみれにして、親父の拳骨が落ちる寸前だった話』

 心地よい疲労感とともに、私はいつもの指定席でピートの効いた蒸留酒を転がしていました。

 閉店間際の「錆びた剣亭」。客は我々三人だけであり、静寂を愛好する私にとっては至福の時間です。

 しかし、本日の静寂は突如として破られたのです。厨房の方から、ミナ君の悲鳴が上がりましたからな。


「大変! 吊るしておいた極上干し肉が、宙に浮いてかじられてるわ!」


 見れば、確かに厨房の空中で肉の塊がひとりでに欠け、もぐもぐという咀嚼音だけが響いているではありませんか。


「出たな、『スケルトン・カメレオン』。骨格まで完全に風景に同化する、質の悪い泥棒魔獣だぜ」


 筋肉殿(ガンツ)が丸椅子から立ち上がり、背中の愛斧へ手を伸ばしかけました。

 しかし、その手を無言の圧が制止したのです。店主のガストンです。

 彼の双眸は、雄弁に語っていました。「店に少しでも傷をつければ、お前たちを干し肉にする」と。


「斧など論外ですぞ、筋肉殿(ガンツ)。力任せの攻撃は、店の備品を破壊して我々の首を絞めるだけです」


 私は静かに立ち上がり、厨房の隅にあった小麦粉の入った大袋を抱え上げました。


「策があるのかい、隊長(たいちょー)?」


 フィス君がワイングラスを置いて微笑みます。


「ええ。見えないのなら、見えるようにすればいいのですよ。ただし、店を壊すわけにはいきませんからな。……フィス君、少しばかり魔法で手伝ってもらえますかな」


 私が麻袋の口を開けると、フィス君は楽しげに頷きました。


「なるほどね。淀んだ空気を吸い続けるのは息が詰まるからね。見えない不安の種なんて、風に乗せて吹き飛ばしてしまおうか。あとは残った真実を、水に流して洗いざらい綺麗にするだけさ」


 フィス君の独り言のような言葉遊び。直後、彼が指を鳴らすと、生活魔法である<送風>が厨房内に巻き起こりました。

 私はそれに合わせて、抱えていた小麦粉を宙に向かって豪快に撒き散らしました。


「奴の足跡を見るのではありませんぞ、筋肉殿(ガンツ)。空間を見るのです!」


 真っ白な粉が渦を巻いて舞い散る中。

 不自然に粉が弾かれ、ぽっかりと「巨大な爬虫類の形をした空白の輪郭」が空中に浮かび上がりました。


「見えたぜ……! そこか!」


 筋肉殿(ガンツ)が、巨体に似合わぬ足運びでその輪郭の側面へと忍び寄ります。

 彼は武器を使わず、右手の親指と中指を固く結びました。極限まで圧縮された、筋肉のバネ。


「喰らいな。俺の繊細なデコピンだ」


 弾かれた太い指が、空中の輪郭の頭部らしき場所にクリーンヒットしました。

 パァン! という破裂音に似た乾いた打撃音。


「ギュェッ!?」


 空中に浮かび上がったカメレオンが白目を剥いて実体を現し、そのまま床にドサリと崩れ落ちました。周囲の鍋一つ揺らさない、見事な一撃です。


「やりましたな。完璧な連携でしたぞ」


 私が会心の笑みを浮かべたのも束の間。背後から、地鳴りのような殺気が膨れ上がりました。

 振り返れば、そこには顔を真っ赤にして巨大な両拳を振り上げるガストンの姿が。

 当然です。魔獣は無傷で捕らえましたが、厨房からカウンターに至るまで、店中が真っ白な小麦粉まみれになっていたのですから。


「お父さん、待って! 三人とも粉々になっちゃう!」


 ミナ嬢が叫んだその刹那。

 フィス君が、やれやれと肩をすくめて再び指を鳴らしました。

 発動したのは、生活魔法<全洗浄>。

 一瞬にして、店内にこびりついていた小麦粉が、長年の油汚れに至るまで一切合切光の粒子となって消滅しました。ガストンの振り上げた拳の汚れまで、綺麗さっぱりと。

 ピカピカに輝く厨房を前に、店主は呆気にとられたように拳を下ろし、気絶したカメレオンの尻尾を無言で掴んで調理台へ向かいました。


 数十分後。

 私たちの目の前には、カラリと美しく揚がった『スケルトン・カメレオン』の唐揚げが山盛りにされていました。


「俺たちの勝利だな! いやあ、今日はいい仕事をしたぜ!」

「全く……あなたの尻拭いは、いつも私が冷や汗をかきますよ」

「ふふ、たまにはこういうドタバタも悪くないね」


 私は新しく注がれた蒸留酒のグラスを持ち上げ、呆れ顔のミナ君に向かってウインクをしました。


「ピカピカの厨房と、極上の唐揚げに乾杯!」

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