第29話 『老犬が無理して森に出かけた理由が、主人の引退を阻止するためだった話』
雨の音が、窓ガラスをひっきりなしに叩いている。
こんな土砂降りの夜は、「錆びた剣亭」の客足もまばらだ。カウンターの隅の指定席には、いつもの三人組が静かにグラスを傾けていた。
ガンツのおじさんは丸椅子に浅く座ってエールを飲み、ゴドさんは手持ち無沙汰にピーナッツの殻を剥き、フィスさんはワインの香りを確かめるように目を閉じていた。
「静かな夜ね」
私がカウンターを拭きながら呟くと、ゴドさんが顎髭を撫でながら頷いた。
「ええ。雨音というのは、余計な足音を消してくれますからな。落ち着くのです、こういう夜は」
カラン、と重い扉が開いた。
吹き込む冷たい風と一緒に店へ入ってきたのは、ずぶ濡れの古い外套を羽織った老冒険者だった。そして彼の足元には、一頭の大きな犬が寄り添うように歩いている。
かつては艶やかだったであろう漆黒の毛並みと、額に小さな角を持つ『黒妖犬』だ。冒険者の良き相棒として知られる賢い魔獣だが、その歩みはひどく遅く、息は荒い。
「……空いてるか、お嬢ちゃん」
「はい。ストーブのそばの、暖かい席へどうぞ」
私は急いでタオルを取り出し、彼らのテーブルへ向かった。老冒険者は自分の顔を拭くよりも先に、丁寧に相棒の毛皮を拭いてやる。
「こいつに、何か食べやすくて温かいものを頼めるか。最近はずっと寝たきりで、食欲もなくてな。この店に行こうと誘っても、首を振るばかりだったんだが……」
老冒険者は、少しだけ嬉しそうに目を細めて相棒の頭を撫でた。
「今日に限って、どうしても森に行きたいって玄関で吠えてな。少し歩いたら満足したのか、今度は珍しくこの店に行きたいってきかなくてよ。ようやく元気が戻ってきたみたいなんだ」
その言葉を聞いて、厨房の奥から父さんが無言で歩いてきた。その手には、湯気を立てる木製の深皿が握りしめられている。
砕いた豚の骨髄をじっくりと煮込み、滋養のある薬草を溶かし込んだ特製のスープだ。肉を噛み切る力がない老犬でも、舐めるだけで栄養が摂れる。
「……すまねえな、親父さん。ほら、お前の好きなスープだぞ」
老冒険者が皿を犬の口元へ寄せる。『黒妖犬』は重い瞼を少しだけ開け、ピンク色の舌を伸ばしてスープを数回、ゆっくりと舐めた。
そして、老冒険者の顔をじっと見上げ、パタパタと弱々しく尻尾を振ると――ふう、と深く息を吐き、主人の膝に重い頭を乗せて静かに目を閉じた。
「……おい。どうした、疲れたのか?」
老冒険者が声をかけるが、老犬の胸はもう上下していなかった。
「嘘だろ……。お前、食欲が戻ったんじゃなかったのかよ。元気になって、また一緒に……」
老冒険者の震える声に、店内の空気がピンと張り詰めた。
誰も、これが最期だとは思っていなかったのだ。もちろん、長年連れ添った老人も。
弱り切った体で土砂降りの森へ出かけ、街まで歩き、そして酒場までやってくる。それは、寿命の尽きかけた老犬にとって、命を削るほどの無茶な行動だったのだ。
「……無理、してたんだな。俺を心配させまいと、元気なふりをして……」
老冒険者の目からポロポロと涙がこぼれ落ち、動かなくなった毛皮を濡らしていく。だが、膝の上で眠る『黒妖犬』の顔は、ひどく穏やかで、大仕事を終えて満足しきったような表情を浮かべていた。
ガンツさんが、静かにジョッキを置いた。普段は豪快なあの人が、口を真一文字に結んで天井を見上げている。ゴドさんは静かに帽子を取り、胸に当てて黙祷を捧げた。
私もたまらず目頭を押さえた。急すぎる別れ。あまりにも悲しい、雨の夜の出来事だ。
誰もが言葉を失っていた、その時だった。
キュゥ……。
微かな、本当に微かな鳴き声が聞こえた。
老冒険者がビクッと肩を震わせる。
「……今、鳴いたか? お前、まだ……」
彼がすがりつくように『黒妖犬』の体を抱き起こそうとした瞬間。
ゴソゴソと、すでに動かなくなったはずの豊かな毛皮の下が波打った。そして、黒い前足の隙間から、ひょっこりと小さな顔が顔を出したのだ。
灰色の、まだ目も開いたばかりのような仔狼だった。魔獣ですらない、ただの動物の仔狼。
「な、なんだこりゃあ……!?」
老冒険者が素頓狂な声を上げる。
「おい、もしかして……お前、森でこいつを拾って、自分の毛皮の中に隠して温めながらここまで運んできたのか……?」
老犬はもう答えない。だが、全てが繋がった。
死期を悟っていた老犬が、今日に限って無理をして森へ行きたがった理由。そして、そのまま家に帰らず、温かい食事と人がいる「錆びた剣亭」へ向かった理由。
最期の力を振り絞って、身寄りのない小さな命を安全な場所まで送り届けること。それが、気高き相棒の命を懸けた最後の冒険だったのだ。
しんみりとしていた空気が、一瞬にして弾けた。
「おいおい! なんだよそのチビすけ! めちゃくちゃ可愛いじゃねえか!」
涙で顔をぐしゃぐしゃにしたガンツのおじさんが、丸椅子から立ち上がって鼻水をすすった。
「驚きましたな。命の灯火が消える間際に、自らを削って新たな命を懐に抱えてくるとは」
ゴドさんが目を丸くして、帽子を被り直す。
フィスさんはワイングラスを優しく揺らしながら、口元にいつもの飄々とした笑みを浮かべた。
「どんなに深い悲しみの夜でも、必ず夜明けは来るものさ。小さな命の輝きが、僕らの沈んだ心を温かく照らしてくれる。ほら、彼が最期に残した光が、あそこで元気よく鳴いているじゃないか」
老冒険者は、呆然としたまま仔狼を両手で抱え上げた。仔狼はキュンと鳴いて、老犬の遺したスープの匂いを嗅ぎ、老人の親指をチュパチュパと吸い始める。
「……お前、腹が減ってんのか」
老冒険者は鼻をすすり上げ、外套の袖で乱暴に涙を拭った。そして、先ほどまでの枯れ木のような表情を吹き飛ばし、力強く笑ったのだ。
「親父さん、すまねえが俺はまだまだ引退できそうにねえ! こいつには骨髄のスープじゃなくて、温かい山羊のミルクが要る! まったく、人使いの荒い相棒だぜ。残された俺に、こいつのミルク代を稼がせようってんだからな!」
その言葉に、店の中が一気に明るい活気に包まれた。父さんが微かに口角を上げ、無言で厨房へミルクを温めに向かう。
ガンツさんがジョッキを高々と掲げた。
「へへっ、そういうことなら仕方ねえな! 先輩の現役続行を祝って、飲むしかねえだろ!」
おじさんの声に、店にいた全員がグラスを持ち上げる。私もカウンターの中から、木の実のジュースが入ったコップを掲げた。
「託された命と、最高にお節介な相棒に乾杯!」




