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第28話 『最新式の魔導錠を無視して、金庫の偽造書類だけを抜き取った夜の話』

 鼻腔をくすぐる泥炭の香り。喉の奥を熱く焼く、琥珀色の液体の刺激。

 静寂の中で味わうこの一杯こそが、私の至福の時間なのです。


「痛え……まだ尻の感覚が戻らねえ。あの薬、絶対に成分がおかしいぜ……」


 隣の席では、筋肉殿(ガンツ)が丸椅子に浅く腰掛けながら、相変わらずブツブツと文句を垂れています。向かいの席では、フィス君が微かに笑みを浮かべながらワイングラスを傾けていました。

 平和ですな、今日の「錆びた剣亭」は。

 私が干し肉を齧りながらそう思っていた矢先、カランと控えめな音がして、見知った小悪党が店に入ってきました。二本髭商会の店主、ボークです。

 彼は周囲を警戒するように見回した後、私の隣にするりと滑り込みました。


「ゴドの旦那、邪魔するぜ。少しばかり、耳寄りな話がありましてね」

「遠慮しておきますよ、あなたの持ち込む話は。大抵がろくでもない厄介事なのです」


冷たくあしらおうとしましたが、ボークは諦めずに声を潜めました。


「いや、今回は旦那の耳に入れておくべきだと思いましてね。最近街にやってきた新興の商会が、教会の裏手にある孤児院の土地を狙ってまして。どうやら、孤児院の院長名義で精巧な『偽造借用書』を作り上げたらしいんです。明日にも、借金のカタとして立ち退きを迫る手はずだとか」


 ……ほう。

 私はグラスを置き、ボークを静かに見据えました。


「確かなのですか、その情報は」

「ええ、裏社会のツテでね。連中、かなり強引な手口で勢力を拡大してる悪党ですよ」

「……そうですか。ご苦労でしたな、ボーク。今日の酒代は、私が持っておきましょう」


 ボークがニヤリと笑って席を立つと、私は再びグラスを手に取りました。

 静かに燃え上がるのです、私の胸の奥底で。かつて王都で衛兵隊長を務めていた頃の、理不尽な悪を憎む血が。

 孤児院の子供たちを路頭に迷わせるなど。許せませんな、そのような外道は。反吐が出ます、その浅ましい企みに。


 ◇


 月が厚い雲に隠れた、深夜。

 私は単独で、新興商会が拠点としている豪奢な館の塀を乗り越えました。

 今回、筋肉殿(ガンツ)の暴力も、フィス君の魔法も必要ありません。隠密行動において、彼らは目立ちすぎるのです。純粋な技術のみで成し遂げてこそ、一流の斥候というものです。

 足元には、足音を完全に殺す『消音ブーツ』。腰には、手入れの行き届いたピッキングツール。

 庭には数人の警備が巡回していましたが、私から見れば案山子も同然でした。


「規則正しすぎるのです、歩くルートが。まるで時計の針のようですよ」


 死角を縫うように進み、私は二階のバルコニーから音もなく館内へと侵入しました。

 目指すは、商会長の執務室の奥にある隠し金庫室。

 廊下の暗がりを滑るように進み、目的の部屋へと辿り着きました。分厚い鉄扉の前に立ち、私は目を細めます。


「厄介ですな、これは」


 扉の中央には、複雑な幾何学模様が描かれた魔導錠が設置されていました。微かに青い光を放っており、不正な手段で<解錠>を試みれば、即座に<警報>の魔法が作動する仕掛けのようです。

 フィス君であれば、術式ごと<破壊>してのけるでしょう。筋肉殿(ガンツ)であれば、愛用の斧で扉ごと叩き割るはずです。


 しかし、私は違います。


「手抜きが見えますな、職人の仕事に。魔法に頼りきりで、物理的な構造がおろそかになっているのです」


 私は魔導錠には一切触れず、扉の端――蝶番の部分にしゃがみ込みました。どんなに強固な鍵がかかっていようと、扉は開閉するために壁と接続されていなければなりません。

 懐から取り出したのは、私が独自に調合した『超高粘度潤滑油』です。

 それを蝶番の隙間に垂らし、特製の極細ピン抜きを当て、小さな革張りのハンマーで音を立てずに叩きます。


 コツ、コツ……。


 潤滑油のおかげで、金属同士の摩擦音は全くしません。数分後、上下二つの蝶番から、太い鉄のピンが静かに抜け落ちました。

 「簡単なことです。鍵が開かないのなら、扉そのものを外せばいいのです」


 私は分厚い鉄扉を慎重に持ち上げ、蝶番側から手前にずらしました。鍵はかかったままですが、扉の片側が壁から外れたことで、腕一本が通るだけの隙間が生まれました。

 その隙間から金庫の中に手を伸ばし、束になった書類の感触を探ります。

 ありました。羊皮紙の手触り。孤児院の偽造印が押された借用書です。

 私は書類だけを抜き取ると、再び扉を元の位置に戻し、蝶番のピンを正確に差し込みました。

 傷一つ、指紋一つ残していません。


「完璧ですな。盗まれたことすら、明日この扉を開けるまで気づかないでしょう」


 私は闇に溶けるように、静かに館を後にしました。


 ◇


 翌日の夕刻。

 「錆びた剣亭」の定位置で、私はいつものようにピートの効いた蒸留酒を味わっていました。


「いやあ、傑作でしたよゴドの旦那!」


 店に駆け込んできたボークが、私の耳元で楽しそうに囁きました。


「あの新興商会の連中、朝になったら真っ青な顔をしてましてね。金庫の鍵は完璧に閉まっていたのに、肝心の偽造借用書だけが忽然と消えていたそうです。幽霊か悪魔の仕業だと怯えきって、孤児院の件からは完全に手を引くそうですよ」

「そうですか。それは重畳ですな」


 私が静かに頷くと、隣で大盛りの骨付き肉を平らげていた筋肉殿(ガンツ)が、不思議そうにこちらを見ました。


「おい、石頭(おやじ)。さっきから何をニヤニヤしてやがる。気味が悪いぜ」

「別に。ただ、今日の酒は格別に美味いと思いましてね」


 私はグラスを持ち上げ、琥珀色の液体を光に透かしました。

 誰に手柄を誇る必要もありません。この静寂と美味い酒さえあれば、それで十分なのです。


「どうしたんだい、隊長(たいちょー)。何かいいことでもあったのかい?」


 フィス君が面白そうに首を傾げますが、私は答えません。ただ、口の中で転がす干し肉の旨味を噛み締めながら、心の中で静かにグラスを合わせました。


「愚かな悪党と、見落とされた蝶番に乾杯。」

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