第26話 『熱した大盾で滑り降りたら尻が焼け焦げたので、氷漬けにして酒を飲む話』
カウンターの木目はいつ見ても落ち着く。だが、今日ばかりはこの丸椅子が憎たらしくて仕方がねえ。
俺はジョッキに並々と注がれたエールを一気に呷り、ふうと息を吐いた。立ちっぱなしで飲む酒は悪くねえが、足腰にくる。筋肉の疲労じゃねえ。別の問題だ。
「ガンツさん、本当に座らなくていいの?」
カウンターの向こうでグラスを拭きながら、看板娘のミナが小首を傾げる。心配そうな目だ。
「ああ。立ち飲みってのは冒険者の基本だ。いつ敵が来ても動けるようにな。武人の戒めってやつだぜ」
俺は努めて低い声で答え、腕を組んだ。額から流れる汗は、決して痛みのせいじゃねえ。熱気のせいだ。そういうことにしておく。
「見栄を張るのも大概になさいな、筋肉殿。滑稽ですぞ、己の盾で尻を焼くとは」
隣で干し肉を齧りながら、石頭が鼻で笑った。相変わらず一言多いドワーフだ。
「うるせえ。あの断崖から素早く降りるには、あれしか方法がなかったんだよ。大盾をソリ代わりにするのは俺の得意技だろ」
「摩擦熱というものを計算に入れていないのが、あなたの致命的な欠陥です。見ていられませんでしたよ、煙を上げる尻を押さえて跳ね回る姿は」
痛いところを突かれ、俺はジョッキをドンと置いた。実際、昨日の廃寺からの脱出は最悪だった。
岩肌を滑り降りる速度は申し分なかったが、鉄製の盾が熱を持ちやがったのだ。ズボンの生地ごしに伝わるあの灼熱。今も尻の皮がひりひりと自己主張を続けている。
逆側の席で、細いのがワイングラスを揺らしながら薄く笑った。
「熱を帯びた無謀な行動は、時に人を破滅させるね。冷え切った現実に直面するまでは、自分だけは大丈夫だって思い込んじゃうのさ」
「誰が破滅だ。ちょっと焦げただけだぜ」
「強がるなよ。さっきから変な姿勢で立っているじゃないか」
ふん、と鼻を鳴らし、俺は残りのエールを飲み干した。ガストンに無言でジョッキを突き出し、おかわりを要求する。
カラン、と店特有の重い扉が開く音がした。
入ってきたのは、見慣れた顔だった。市場通りで青果店を営んでいるポポロだ。手には小さな陶器の壺を持っている。
「おや、いらっしゃい。今日は飲みに来たの?」
ミナの声に、ポポロは愛想よく笑って首を振った。
「いや、少し届け物があってね。ガンツさん、いるかい?」
俺は振り返り、軽く手を上げた。尻に激痛が走ったが、表情は崩さねえ。
「おう、ポポロか。どうした、野菜の余りでも持ってきてくれたのか」
「はは、違いますよ。実は、ガンツさんが怪我をしたって噂を聞きましてね。市場の連中の間じゃ、大盾で火竜のブレスを防いで火傷を負ったって話になってますよ」
噂ってのはどうしてこう盛られるんだ。ただ岩肌を滑っただけだぜ。だが、訂正するのも面倒だ。俺は「まあな」と曖昧に頷いた。
「以前、うちの子が熱病の時に薬草を採ってきてくれた恩がありますからね。今日はあいつ、学校で来られなかったんですが、代わりに見舞い品を持ってきました」
ポポロはそう言って、持っていた壺を俺に差し出した。
蓋を開けると、中には青白い半透明の軟膏が詰まっていた。ツンとしたハッカのような匂いがする。
「そいつは、北の森に出る『氷スライム』の粘液を煮詰めた冷却ジェルです。うちの親父から伝わる特効薬でしてね。どんな酷い火傷でも、一発で熱を引かせてくれますよ」
民間療法ってやつか。ありがてえ。だが、ポポロの尊敬の眼差しを前にして、「尻に塗りたいから便所に行ってくる」とは死んでも言えねえ。英雄の威厳が台無しだ。
「ほう、こいつは効きそうだな。大した傷じゃねえが、せっかくだから使わせてもらうぜ」
俺は涼しい顔を作り、壺からジェルを指ですくった。そして、カウンターの陰に隠れるようにして、ズボンの後ろにそっと手を回した。
痛む尻の患部に、ジェルを塗り込む。
その瞬間だった。
「――ッ!?」
声なき絶叫が喉の奥で爆発した。
凄まじい冷気。そして、傷口を直接氷の針で刺されたような鋭い刺激。
脳天を突き抜けるような衝撃に、俺の視界が白く明滅した。膝から崩れ落ちそうになるのを、カウンターの縁を強く握りしめて必死に堪える。筋肉が痙攣し、全身から滝のような冷や汗が噴き出した。
「どうしました、ガンツさん? 顔が真っ青ですよ」
ポポロが不思議そうに覗き込んでくる。
「い、いや……なんでも、ねえ。よく効く、薬、だ」
歯を食いしばり、俺は引き攣った笑顔を顔面に貼り付けた。
細いのが、俺の顔を見て楽しそうに口角を上げた。
「本当だ、顔色が悪いよガンツ。まるで氷河期に取り残された古代獣みたいだ。そのうちカチコチに凍りついて、酒場の彫像になっちまうよ」
うるせえ、エルフ。こっちの気も知らねえで。
「薬が患部に浸透している証拠ですね! よかった。じゃあ、私はこれで。また店にも顔を出してくださいね」
ポポロは満足げに頷くと、踵を返して店を出て行った。
扉が閉まり、静寂が戻った瞬間。
俺の足から完全に力が抜け、カウンターに上半身を突っ伏した。
「……ぎゃあぁぁぁッ!! 痛え、冷てえ、感覚がねえッ!!」
「見苦しいですぞ、筋肉殿。まるで陸に上がった魚のような無様な動きです」
石頭の容赦ない言葉も、今の俺の耳には素通りだ。尻の火傷の痛みは確かに消え失せた。だが、今は尻に巨大な氷塊を押し当てられているような極寒の苦しみに襲われている。霜が降りてんじゃねえのか、これ。
カウンターの奥から、ガストンが無言で俺の前に木の実の平皿を置き、続いて湯気を立てる小さな陶器の杯を差し出した。
熱燗にされた強い酒だ。立ち上る湯気が、今の俺には救いの光に見える。
「……すまねえな、親父」
震える手で杯を受け取り、一気に喉の奥へ流し込む。腹の中からじんわりと広がる熱が、凍てついた体を内側から溶かしていくようだった。
「ったく……寒くて、とてもじゃねえが座れやしねえ」
俺のボヤキに、ミナがクスクスと笑い声を漏らす。
冷え切った尻を庇いながら、俺は空になった杯を掲げた。
「凍てつく尻と、温けえ薬に乾杯!」




