第22話 『潔癖な役人が法律を振りかざしたが、女将の黒革の手帳には勝てなかった話』
不愉快ですな、酒の香りを邪魔する雑音というのは。
私が愛してやまないピートの効いた琥珀色の蒸留酒。その芳醇な香りを台無しにするのは、オークの咆哮でもドラゴンの羽音でもない。
神経質な革靴の足音と、紙をめくる乾燥した音なのです。
「……汚い。実になげかわしい。これでは王都の衛生基準の第三条に抵触しますよ」
カウンターの向こうで、白い手袋をした男が指先をこすり合わせている。
王都から派遣されたという税務官だ。撫で付けた髪に、虫も殺せぬような細い銀縁眼鏡。背筋だけは立派に伸びているが、その目は値踏みするように店内を見回している。
「それに、この『ツケ』の山はどういうことですか。回収の見込みのない債権を資産として計上するなど、粉飾決算の疑いがある。これでは営業許可を取り消さざるを得ませんね」
男は分厚い帳簿をパラパラとめくりながら、まるで汚物を見るような目で言った。
隣で筋肉殿が「ああん? 俺のツケが悪いってのか?」と斧に手をかけようとするが、私はそれを目配せで制した。暴力はいけません。相手は『法』という名の、最もタチの悪い武器を持っているのですから。
ふと、店内の空気が凍りついたのを感じた。
見れば、カウンターの中にいるおかみのマーサ殿が、にっこりと笑っている。
口元は弧を描いているのに、目だけが笑っていない。絶対零度の微笑みだ。
「……お客様。うちは辺境の冒険者のための店です。王都の基準をそのまま当てはめられても困りますわ」
「法律に例外はありませんよ、店主代理殿。不潔で経営も杜撰。即刻、改善命令を――」
やれやれ。見ていられませんな、素人の自殺行為は。
私はグラスに残った酒を飲み干すと、音を立てずに椅子から降りた。
「お言葉ですが、管理官殿。貴殿の解釈には少々、誤りがあるようですな」
男が眉をひそめて私を見下ろす。
「なんだ、あんたは。ドワーフの酔っ払いが口を挟まないでいただきたい」
「酔ってはいますが、法は忘れていませんよ。……辺境特別措置法、第十二条四項。『最前線都市における飲食店は、冒険者ギルドの管轄下において独自の衛生基準を適用する』。貴殿が振りかざしているのは、平和ボケした王都の内地法でしょう?」
男の目が点になった。
私は畳み掛けるように、彼の持っていた帳簿を指先で弾く。
「それに、この『ツケ』は不良債権ではありません。『信用取引』です。彼ら冒険者が持ち帰る魔獣の素材は、換金されるまでのタイムラグがある。この店は、その素材の先物取引を行っているに過ぎない。……商業法、第七十八条の解釈によれば、これは正当な商行為ですが?」
男が狼狽して後ずさる。
「な、なぜ辺境のドワーフが条文を……!?」
「昔、少しばかり役人の真似事をしていたものでね。……それに、貴殿の手袋。先ほどからカウンターの汚れを気にしているようですが、そこにあるのは『竜の脂』の跡だ。通常の洗剤では落ちないが、殺菌作用は王都の消毒液の十倍はある。無知とは罪ですな」
理詰めで追い詰められた男は、顔を真っ赤にして叫んだ。
「ぐ、ぐぬぬ……! だ、黙れ! 私は王都直属の税務官だぞ! 私の権限があれば、こんな薄汚い店の一軒や二軒、どうとでも――」
ああ、言ってしまいましたな。
論理が破綻した時に権力を振りかざすのは、三流の悪役の常套手段。そして、この店でそれをやるのは、ドラゴンに素手で喧嘩を売るよりも愚かな行為です。
ドサリ。
重厚な音が響いた。
マーサ殿が、カウンターの下から一冊の黒革の手帳を取り出し、男の前に置いた音だ。
「……権限、ですか。立派なことですわね」
「な、なんだこれは」
「当店の『特別顧客』の皆様の、あ・る・い・は『裏』のツケ帳簿ですわ」
マーサ殿がパラリとページをめくる。
そこには、達筆な文字で日付と金額、そして署名が記されていた。
「あら、見てくださいな。ここにある署名……貴方の上司にあたる、財務局長様のサインじゃありませんこと? 『視察費』という名目で、随分と高級なワインを空けていかれたようですけど」
「なっ……!?」
「こちらのページは、街の治安判事様。あちらは、騎士団の補給担当官様……。もし当店が営業停止になれば、この帳簿も『公的な証拠品』として提出しなければなりませんわねぇ。そうなれば、皆様の『夜の交際費』が明るみに出てしまう。……困りますわねぇ?」
マーサ殿の声は、春の陽だまりのように優しい。
だが、その背後には漆黒の闇が見える。
税務官の顔色が、白から青、そして土気色へと変わっていく。彼の上司の弱みを握っている店を潰せば、翌日に消されるのは自分だと悟ったのだろう。
「ひ、ひぃぃッ……! も、申し訳ありませんでしたぁぁ!!」
男は脱兎のごとく店を飛び出していった。その速さたるや、ゴブリンよりも速い。
店内に静寂が戻る。
マーサ殿は黒革の手帳をパタンと閉じると、いつもの笑顔で厨房へ声をかけた。
「あなたー、邪魔者が消えたから、お酒を出してあげてちょうだい」
私は震える手で、空のグラスを差し出した。
隣では筋肉殿が口をあんぐりと開け、フィス君に至っては「僕、絶対にツケは溜めないようにするよ……」と青ざめている。
まったく、恐ろしい場所です。
魔獣よりも、税務官よりも、この店の「信用」という名の鎖の方が、よほど強固で逃れられない。
私は注がれたばかりの安いエールを掲げた。高級な蒸留酒を飲む気にはなれない。今は、この安酒で震えを止めたいのです。
「……さて。法律よりも恐ろしい、女将の記憶力と黒い手帳に乾杯」




