第21話 『森の主がくれた特製薬は、泥の味と青春の叫びがした話』
カラン、と氷がグラスに当たるような涼やかな音ではなく、ゴトッという鈍い音がカウンターに響いた。
「ああ、腰が。腰が砕けそうだ。ミナちゃん、悪いけどこの哀れな老人にお冷やじゃなくて、極上のワインを持ってきてくれないかなあ? 手が震えて財布が出せないから、ツケで」
カウンターの隅、「錆びた剣亭」の指定席で、しわがれた声が響く。
私はため息を一つついて、布巾でカウンターを拭きながら冷たい視線を送った。
「フィスさん。その白髪とシワ、数日前の冒険で魔法を使いすぎた反動ですよね? 先生も『栄養をとって寝てれば治る』って言ってましたよ」
「つれないなあ。君の心は冬の湖のように冷たいね。年寄りは労らないと、バチが当たるよ?」
そこには、いつもの飄々とした優男ではなく、白髪混じりの髪を振り乱し、急激に老け込んだフィスの姿があった。
先日の遺跡探索で、物理無効の『古代守護兵』を相手に大魔法をぶっ放した代償らしい。
問題なのは、その「老い」を言い訳に、ここ数日ずっと店に居座ってワガママ放題だということだ。
「おい、細いの。いい加減にしねえか。酒が不味くなる」
隣でジョッキを傾けていたガンツさんが、鬱陶しそうに眉間の傷を歪める。
「そうですよ、フィス君。君のその『枯れ木』のような泣き言を聞いていると、せっかくの蒸留酒が酢になった気分です」
反対隣のゴドさんも、編み込んだ髭をいじりながら呆れ顔だ。
「酷いなあ。かつての戦友に向かって。僕の体は今、砂時計の底のように重いんだ。ああ、誰かこの渇きを癒やす命の水…ワインを恵んでくれないかなあ」
フィスさんは大げさにテーブルに突っ伏した。
ガンツさんとゴドさんが顔を見合わせる。
二人の目には、明確な殺意ではなく、「逃走」の二文字が浮かんでいた。
「……ミナちゃん。俺たちはちょっと、森へ行ってくる」
「えっ、この雨の中をですか?」
「ああ。このままだと、俺の斧が老人の介護を始めちまいそうだ、物理的にな。頭を冷やしに、薬草でも採ってくる」
「私は筋肉殿の監視役として同行しましょう。森の空気を吸えば、この騒音も忘れられるでしょうから」
二人は逃げるように席を立ち、代金を置いて出て行ってしまった。
残されたのは、私と、老人(仮)のフィスさんだけ。
「やれやれ、薄情な人たちだ。……さて、ミナちゃん。彼らがいなくなったことだし、僕の若い頃の話をしてあげようか」
私は無言で、一番安いエールの樽を点検し始めた。
「あれは三百年前……じゃなくて、三十年前だったかな。深い森の奥でね、僕は『森の主』と呼ばれる精霊と飲み比べをしたんだ」
「はいはい、すごいですねー」
「主は強かったよ。何しろ、樹液を発酵させた酒を樽ごと飲むんだから。でもね、最後は僕が勝った。勝因はね、僕の魔法で酒を<蒸発>させて、飲んだフリをしたからさ」
「それ、イカサマって言うんですよ」
フィスさんのホラ話はいつものことだが、老け込んだ姿で言われると妙にリアリティがない。
ちょうどその時、店の扉が開き、往診帰りの『先生』が入ってきた。
「……随分と賑やかですね、ミナさん」
「あ、先生。いらっしゃい。もう、聞いてくださいよ」
私はカウンターに座った先生に、事の顛末を愚痴った。先生は苦笑しながら、聴診器のような器具でフィスさんを軽く診察する。
「……医学的に見て、ただの老化現象と魔力欠乏です。栄養のあるレバーでも食べていれば治りますよ。薬は必要ありません」
「ほら! 先生もそう言ってるじゃないですか」
「藪医者め。僕が必要としているのは、医学では解明できない魂の潤滑油なんだよ」
フィスさんが大げさに嘆いた瞬間、バン! と扉が勢いよく開いた。
雨に濡れたガンツさんとゴドさんが、泥だらけの姿で帰ってきたのだ。その表情は、どこか奇妙に強張っている。
「た、ただいま戻ったぜ……」
「……酷い目に遭いました」
「あら、おかえりなさい。早かったですね?」
二人はドカドカとカウンターに戻ってくると、ドン! と一つの「瓶」を置いた。
それは苔と泥にまみれた、古びた陶器の瓶だった。コルク栓からは、嗅いだことのない強烈な草の匂いが漏れ出ている。
「おや、それは? 森の土産かい?」
フィスさんが片目を開けて瓶を見る。
ゴドさんが、まだ震えている手で水滴を払いながら言った。
「……森の奥で、奇妙な『小人』に会いました」
「小人?」
「ああ。切り株の上に座ってやがった。俺たちが薬草を探していたら、いきなり目の前に現れてよ。『うるさい若造を黙らせたいなら、これを飲ませろ』って、この瓶を投げてきやがったんだ」
ガンツさんの言葉に、フィスさんの動きがピタリと止まる。
「……へえ。その小人、どんな見た目だった?」
「全身が苔のような緑の毛で覆われていて、頭に赤い花が咲いていました。……気味が悪いほど、魔力の気配がしなかった。気づいたら背後にいたのです」
「そいつは言ってたぜ。『あの時の借りを返してやるから、とっととくたばり損ないに飲ませろ』ってな」
フィスさんの顔色が、老人の蒼白さから、青ざめた土気色へと変わった。
「あ、赤くて……頭に花……? まさか、あの時の……まだ生きてたのか……?」
「おい、細いの。お前の知り合いか?」
「いや、まさか! そんな化け物……いや、偉大なる精霊様とは面識なんて……」
明らかに動揺している。
ガンツさんはニヤリと笑うと、瓶のコルクを歯で引き抜いた。
ボシュッ! という音と共に、店内に強烈な「雨上がりの腐葉土」のような匂いが充満する。
「うわっ、臭っ!」
私が鼻をつまむと、先生も眉をひそめて後ずさりした。
「成分分析不能ですね……少なくとも、人の飲むものではない気がします」
「つべこべ言うな! 精霊様のありがたい贈り物だ。飲めば治るってよ!」
「ちょ、待ってガンツ! それは死の沼の匂いがする! 僕の繊細な味蕾が……!」
「問答無用! 確保しろ、石頭!」
「了解しました。口を開けさせます!」
ゴドさんが手慣れた動きでフィスさんの背後に回り、関節技で動きを封じる。老体のフィスさんに抵抗する力はない。
ガンツさんが、ドロリとした深緑色の液体が入った瓶を、フィスさんの口にねじ込んだ。
「んぐっ!? んぐぐぐ……ッ!!!!」
液体が喉を通った瞬間。
フィスさんの目がカッと見開かれた。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!! 不味いぃぃぃぃぃぃ!! 土だ! これ百年ものの腐った土の味だぁぁぁぁ!!」
店内に絶叫が響き渡る。フィスさんはゴドさんの拘束を振りほどき、床をのたうち回った。
そのたびに、バチバチと緑色の火花が散る。
「うわあ……大丈夫ですかこれ?」
私が恐る恐る覗き込むと、驚くべき光景が目の前にあった。
のたうち回るフィスさんの肌から、見る見るうちにシワが消え、白髪がいつもの艶やかな金髪(に見える不思議な色)に戻っていくのだ。萎びていた体にも、活力が満ちていく。
「……急速な細胞活性化? いや、時間を巻き戻しているような……」
先生が目を丸くして呟く。
数分後。
そこには、完全に元の姿に戻った――ただし、口の周りを泥だらけにして涙目になったフィスさんが倒れていた。
「……酷い。酷すぎる。確かに魔力は戻ったけど、口の中が完全に…雨の日の裏山だよ……」
げっそりとした顔で起き上がるフィスさん。
ガンツさんは空になった瓶を振って、豪快に笑った。
「がはは! 流石は森の主だ。一発で治りやがったな!」
「しかし、あの小人がフィス君を『若造』と呼んだのは興味深いですね。……一体、どれほどの時を生きた存在だったのか」
ゴドさんが意味深な視線を送るが、フィスさんは「お水ください」と呻くだけで答えようとしない。
私は呆れながらも、新しい布巾を持って彼らの元へ歩み寄った。
どうやら、彼のホラ話のいくつかは、本当に真実なのかもしれない。あんな得体の知れないものを飲ませてくる友人がいるなんて、長生きも楽じゃないわね。
私はカウンターに、人数分のエールと、口直し用の甘い果実水をドンと置いた。
「はい、お水じゃなくて特製ドリンクです。ツケにしておきますからね」
「ああ、ミナちゃん……君だけが僕の天使だ……」
「お代はしっかり頂きますけどね。さあ、騒がしい常連客の復活と、森の小人さんに乾杯!」
私の音頭に、苦笑いの先生と、満足げな二人、そして泥味に顔をしかめる一人がグラスを掲げた。




