第19話 『沈黙の英雄たちは、名声よりも夕飯のシチューを優先する話』
「いいか! これは街の危機だ! 『黒い霧』の濃度は増すばかりだぞ!」
斡旋所長のバーンさんが、カウンターを叩いて叫んでいます。
今日の錆びた剣亭は、いつになく騒がしい雰囲気でした。
窓の外は昼間だというのに、墨汁を流したような濃い霧に覆われ、薄暗くなっています。
「所長、焦らないでくれよ。この霧の中、無策で突っ込むのは自殺行為だ」
そう答えたのは、大衆酒場「陽だまりの樽亭」を根城にしている若手冒険者のリーダー格、カイルさんでした。
彼は地図を広げ、仲間たちと熱心に議論しています。
「風向きからして発生源は北の森だ。前衛を二枚にして、松明を絶やさずに進む。報酬の配分は危険手当込みで……」
「そうだ、まずは編成だ! 各パーティの連携を確認してから……」
彼らの言い分はもっともです。慎重に計画を立て、リスクを管理する。それは冒険者として正しい姿でしょう。
でも、私は気づいていました。
店の隅、いつもの指定席に座る三人の常連客が、無言で席を立ったことに。
「……お勘定」
ガンツさんが小銭をカウンターに置きます。
その腰には、いつもの斧に加えて、予備の投げ斧が二本追加されていました。
ゴドさんは、鼻と口を覆うための分厚い布を水で濡らし、首に巻いています。
フィスさんは、愛用の杖の先端を入念に磨き上げ、ブーツの紐をきつく締め直していました。
彼らは一言も「作戦」を口にしません。
目配せ一つ。それだけで、互いの役割も、必要な準備も、全て共有しているようでした。
「あら、もう行かれるんですか? 外は危ないですよ」
私がわざとらしく声をかけると、フィスさんが悪戯っぽく微笑みました。
「なに、ちょっと散歩さ。この淀んだ空気を吸っていると、気分が曇ってしまいそうでね」
「運動不足解消だ。……夕飯のシチュー、残しておいてくれよ」
「戻る頃には、視界も良好になっているでしょう」
三人はバーンさんたちの熱い議論の脇をすり抜け、音もなく店を出て行きました。
カイルさんたちは、彼らが出て行ったことにすら気づいていない様子でした。
◇
それから一時間ほど経ったでしょうか。
若手たちの作戦会議がようやくまとまり、「よし、出発だ!」と意気込んで装備を整え始めた時でした。
「……あれ? おい、外を見ろよ」
誰かが声を上げました。
窓の外を見ると、あれほど濃かった『黒い霧』が、嘘のように薄れ始めていたのです。
雲間からサーッと太陽の光が差し込み、石畳を照らします。
「霧が……晴れた?」
「自然現象だったのか? それとも風が変わったのか?」
「なんだよ、拍子抜けだなあ。せっかく準備したのに」
若手たちは顔を見合わせ、安堵と少しの落胆が入り混じったような声で笑い合いました。
バーンさんも「な、なんだ。大事にならなくてよかった」と胸を撫で下ろしています。
その時、店の扉がカランコロンと鳴りました。
入ってきたのは、泥と植物の汁でブーツを汚した三人組でした。
「ふぅ……酷い目にあった。森中がカビだらけだ」
「全くです。あの『あやかし茸』の群生、胞子を撒き散らす前に焼却するのに骨が折れましたな」
「でもまぁ、胞子の元を断ったおかげで、空気も美味しくなったじゃないか」
彼らは入り口で汚れを払い、何食わぬ顔で元の席に戻ります。
誰も彼らに注目しません。若手たちは「運が良かった」と笑い、再び酒盛りを始めています。
私はおしぼりと、温かいシチューを三つ、彼らのテーブルに運びました。
「お帰りなさい。……お散歩、大変だったみたいですね」
私が小声で言うと、ガンツさんがニヤリと笑いました。
「ああ、いい運動になったぜ。腹も減ったしな」
彼らは、自分たちが街を救ったことなどおくびにも出しません。
称賛も、報酬も、英雄としての名声も求めない。
ただ、仕事を終えた後のこの一杯と、温かい料理があればそれでいい。
そんな彼らの背中が、どんなに高名な騎士様よりも、私には格好良く見えました。
ガンツさんがジョッキを持ち上げます。
「さて、喉も乾いた。……平和な街と、俺たちの晩飯に乾杯!」




