第16話 『静寂の洞窟で筋肉が悲鳴を上げ、我々は油まみれで空を飛んだ話』
美味いのです、タダで飲む酒というものは。
特に、友人の失敗を肴にし、その友人の財布から支払われる一杯となれば、これに勝る美酒はありませんな。
私はグラスを傾け、琥珀色の液体が喉を滑り落ちる感覚を楽しみました。ここは「錆びた剣亭」。私の指定席。
隣では、筋肉殿がこの世の終わりのような顔で、自分の膝をさすっています。
「……悪かったよ。まさか、あんなデカい音が鳴るとは思わなかったんだ」
「言い訳は無用ですぞ、筋肉殿。貴殿の膝は、もはや時限爆弾も同然。冒険者として、体のメンテナンスを怠るとはどういう了見か」
「うるせえな! 寄る年波には勝てねえんだよ! ……それにしても、あんな方法で逃げるとは思わなかったぜ」
ふふん、と私は鼻を鳴らしました。
筋肉で解決できない問題こそ、私の領域。本日は、その鮮やかな手並みを振り返るとしましょうか。
◇
依頼場所は、街から北東へ進んだ先にある『眠りの洞窟』でした。
目的は、最深部に群生する希少鉱石『夜光石』の回収。単価は高いが、誰もやりたがらない厄介な仕事です。
理由は単純。そこには『地獄耳の吸血コウモリ』が、天井を埋め尽くすほど巣食っているからです。
「いいですか、二人とも。ここから先は『音』こそが死です」
洞窟の入り口で、私は二人に厳命しました。
靴底には、何層にも重ねた厚手のフェルト生地を貼り付けてあります。
装備の金具という金具には布を巻き、接触音を完全に殺してある。完璧な準備です。
「喋るのも禁止です。合図は全てハンドサインで行います」
「…………(無言で頷く)」
ガンツが顔を真っ赤にして息を止めています。彼にとっては、静かにしていること自体が拷問なのでしょう。
その点、フィス君は涼しい顔です。
「……まるで図書館みたいだねぇ。静かすぎて、ページを捲る音さえ憚られるよ」
フィス君が小声で呟き、ウィンクをしてきました。相変わらず余裕な男です。
私は先頭に立ち、闇の中へと足を踏み入れました。
洞窟内は、異様な湿気と獣臭さに満ちていました。
見上げれば、天井には無数の黒い塊がぶら下がっています。あれが一斉に襲ってくれば、いかに頑丈な筋肉殿でも数秒で白骨死体に変えられてしまうでしょう。
私は神経を研ぎ澄ませました。
床に散らばる小石の位置、空気の流れ、岩肌の湿り具合。
全てを計算し、音を立てずに歩くルートを瞬時に導き出します。これは地図を描くのと同じ。頭の中に「正解の道」を描くのです。
途中、岩陰に古い罠――落石のトリガーとなる極細のワイヤーが張られていました。
私は道具袋から、特注の「粘性解除液」を取り出し、ワイヤーの留め具に垂らしました。金属音一つ立てず、ワイヤーが静かに外れます。
後ろを振り返り、親指を立てる。
ガンツが目を見開き、感心したように頷くのが見えました。ふふ、見ていますか若者たちよ。これが「技術」というものです。
最深部に到着し、目的の『夜光石』を袋に詰め終えた時です。
もはや仕事は完了したも同然。あとは来た道を戻るだけ……そう思った矢先でした。
パキィッ!!
静寂の洞窟に、乾燥した薪を折ったような音が響き渡りました。
発生源は、ガンツの右膝。
中腰の姿勢に耐えかねた彼の関節が、悲鳴を上げたのです。
――バササササササッ!!
天井の黒い塊が一斉に蠢き、無数の赤い目が開きました。
「っ!?」
「あちゃー、沈黙の掟を破っちゃったね」
「走って! 出口まで全力疾走です!!」
私は叫び、駆け出しました。しかし、相手は空を飛ぶ魔獣。足の速さでは勝てません。背後から、死の羽音が迫ってきます。
出口までの長い下り坂。このままでは追いつかれる。
私の脳内検索が、解決策を弾き出しました。
「ガンツ、盾を裏返して上に乗りなさい! フィス君も!」
「ああん!? 何言ってんだ!」
「いいから乗るのです!」
私は腰のベルトから、琥珀色の瓶を取り出しました。
これは私の自信作、『超高粘度潤滑油』。本来は錆びついた扉をこっそり開けるためのものですが、その滑りやすさは規格外。
私はそれを、下り坂の岩肌に惜しげもなくぶちまけました。
「行きますよッ!」
私は二人を盾の上に押し倒し、自分もそこに飛び乗りました。
そして、油の川へと突入します。
――ヌルッ。
摩擦係数がゼロになったかのような加速。
私たちは人間ボブスレーと化し、猛烈な勢いで坂を滑り落ちていきました。
「うおおおおおっ!?」
「ははは! 音もなく過ぎ去る風のようだねぇ!」
フィス君が笑いながら指を鳴らした瞬間、背後の空気がドンッ!と壁のように固まった気がしましたが、構っている暇はありません。
コウモリたちは急激な加速に追いつけず、私たちはそのまま出口の光の中へと――文字通り「射出」されたのでした。
◇
「……で、気づけば洞窟の外の草むらに、三人仲良く油まみれで転がっていたというわけだ」
筋肉殿がジョッキを煽り、ため息をつきました。
彼の鎧も、私の自慢の編み込み髭も、まだ少し油でテカテカしています。
「まったく、服のクリーニング代を請求したいくらいだね」
フィス君が呆れたように言いますが、その顔は楽しそうです。
厨房から、ガストンが皿を持って現れました。
皿の上には、香ばしく焼かれた鶏肉の皮包み。噛めば肉汁が溢れる一品です。
「……サービスだ」
「お? 珍しいな」
「良い仕事だった。あの『吸血コウモリ』の群れから、無傷で生還するとは」
ガストンは短くそう言うと、私の前に「一番高い年代物の蒸留酒」のボトルを置きました。
もちろん、支払いはガンツ持ちです。
「くそっ、高くついた依頼だぜ……」
「命があっただけマシでしょう。それに、貴殿の膝の音のおかげで、私の素晴らしい発明品の実用性が証明されたのですからな」
私はボトルを開け、芳醇な香りを胸いっぱいに吸い込みました。
プロの斥候とは、いかなる状況でも退路を確保するもの。
それが油まみれのスロープであっても、生きて帰れば「戦術」なのです。
「さあ、乾杯しましょう。」
「騒々しい私の友人の膝小僧と、滑らかなる生還に乾杯!」




