第15話 『三百年前の約束を開栓したら、思い出とお酢の味がした話』
カウンターの上に置かれた一本のボトルは、まるで墓石のように泥と埃を被っていた。
つい先ほど、崩れかけた地下神殿の隠し棚から回収してきた戦利品だ。
「おいおい、こいつはすげぇぞ! ラベルが生きてやがる。『シャトー・ルミナス』の王家蔵出し年……三百年物だ!」
ガンツが目を丸くして、ボトルの埃を指で拭う。
隣でゴドが片眼鏡を光らせ、分厚い鑑定書をめくっていた。
「間違いない。市場に出れば金貨五百枚は下らない幻の銘柄です。……これは、引退後の資金に十分すぎる額ですな」
「へへっ、売っぱらって豪遊しようぜ! な、フィス?」
二人は色めき立っている。
無理もない。金貨五百枚といえば、城が買えるとは言わないまでも、数年遊んで暮らせる大金だ。
けれど、私の視線は、そのボトルの底に沈殿している「澱」に釘付けだった。
三百年、か。
人間にとっては歴史でも、エルフにとっては、つい昨日のことのようだ。
(……やあ、レオ。君、こんな所に隠していたのかい?)
脳裏に、懐かしい笑顔が浮かぶ。
かつて世界を救う旅をした、人間の剣士。
『平和になったら、この最高の一本を二人で開けよう』
そう言って笑った彼は、約束の平和が訪れる直前に、魔王の呪いで命を落とした。
彼は最期に、このボトルをどこかへ隠したと言っていたが……まさか、あんな埃っぽい神殿の裏だとはね。
「……ねえ、店主。これ、飲めると思う?」
私が尋ねると、厨房から顔を出したガストンが、じっとボトルを見つめた。
彼は料理人としての鋭い目で、コルクの状態と液面の色を見極める。
「……賭けだな。コルクが死んでりゃ、ただの高級な酢だ。だが、もし生きていれば……神の雫だろうよ」
「酢になってたら金貨五百枚がパーだぞ! やめとけ、売る一択だ!」
ガンツが慌ててボトルを抱え込む。
ゴドも頷く。
「リスクが高すぎます、フィス君。ここは堅実に換金して……」
「つまらないなぁ。冒険者なら、箱の中身を見なきゃ嘘だろう?」
私は杖をくるりと回し、ガンツの手からボトルを奪い取った。
「僕に任せてよ。ちょっとした時間の魔法でね、眠っている味を呼び覚ましてあげる。過去の記憶を現在に上書きするのさ」
それは、真っ赤な嘘だ。
そんな便利な魔法はない。ただ、口実が欲しかっただけだ。
これを市場に流して、知らない貴族の喉を潤すなんて耐えられない。
たとえ酢になっていても、これは私たちが飲むべきものだ。
「おい、マジかよ……」
「失敗したら弁償もんですぞ……?」
二人が固唾を飲んで見守る中、私は指先に魔力を込めるふりをして、古びたコルクにソムリエナイフを突き立てた。
キュッ、ポン。
乾いた音が店内に響く。
同時に漂ってきたのは、芳醇な果実の香り……と、鼻を突く強烈な酸味。
(……ああ、やっぱり)
私は苦笑した。
三百年という時間は、保存魔法もかけられていないただの酒には長すぎたらしい。
酸化しきって、見事なまでのお酢になっている。
けれど、その奥に確かに、あの日の「約束」の香りが残っていた。
「さあ、召し上がれ。三百年分の歴史の味だ」
私は三つのグラスに、煉瓦色に変色した液体を注いだ。
ガンツとゴドは恐る恐るグラスを傾け、そして同時に顔をしかめた。
「……すっぱ!!」
「むぅ、これは……完全に終わっていますな。私の金貨五百枚が……」
二人はがっくりと肩を落とし、文句を垂れ始めた。
「フィスの魔法も大したことねえな」「これなら料理酒にした方がマシです」
そんな減らず口を聞きながら、私は一人、グラスを掲げた。
酸っぱい。酷い味だ。
でも、不思議と涙が出るほど美味い。
喉を通る刺激が、あの日の戦場の熱気や、馬鹿騒ぎした夜の焚き火を思い出させる。
(乾杯、レオ。君のいない世界は平和すぎて、退屈で……相変わらず騒がしいよ)
その時。
ドン、とカウンターに大皿が置かれた。
「豚バラ肉のバルサミコ煮込みだ。……酸味の強い酒には、こういうのが合う」
ガストンだった。
彼は無愛想な顔で、しかし確かに私の目を見て、わずかに口角を上げた。
こいつには敵わないな。
この料理人は、最初から分かっていたのだ。中身がダメになっていることも、それでも私が開けずにはいられなかった理由も。
「……へっ、店主も気が利くじゃねえか。どれ」
ガンツが肉を頬張り、酸っぱいワインで流し込む。
すると、彼の表情が変わった。
「お? あうじゃねえか! この酸っぱさが、肉の脂をさっぱりさせやがる!」
「ほう、確かに。単体では飲めたものではありませんが、この料理と合わせると……なるほど、深みが出ますな」
単純な二人は、すぐに機嫌を直して肉と酒の往復運動を始めた。
「歴史の味も悪くねえな!」なんて言いながら。
私は、煮込みを一口食べた。
濃厚な肉の旨味と、古酒の酸味が口の中で溶け合う。
ああ、これなら寂しくない。
一人で飲むはずだった思い出の酒は、騒がしい仲間と、美味い料理のおかげで、最高の宴の主役になった。
「空になったボトルと、酸っぱくて温かい約束の味に乾杯!」




