第11話 『火力至上主義の若造が、テーブルクロス一枚焦がせずに自信を燃やし尽くされた話』
夜の帳が下りると、酒場の喧騒は深みを増していく。
琥珀色のランプが揺れ、紫煙と肉の焼ける香ばしい匂いが混じり合うこの空間は、私にとって戦場の泥濘よりも遥かに心地よい。
「……でさ、俺が言いたいのはだ。魔法ってのは、結局は『火力』だろ? ドカンと一発、敵の防陣ごと吹き飛ばす。それが全てだ」
目の前のテーブルで、赤いローブを纏った男が熱弁を振るっていた。
中堅パーティ『紅の鷹』の魔導士だ。まだ三十路そこそこだろう。
実力主義を掲げ、最近めきめきと依頼達成率を上げている期待の星だそうだが、どうやら酒が入ると説教臭くなるタイプらしい。
彼が目の敵にしているのは、私の手元のグラスだ。正確には、その中のワインを指先一つで適温に保っている私の魔法である。
「アンタみたいに、ちまちまとワインを冷やすのに魔力を使うなんざ、才能の浪費だね。生活魔法?笑わせないでくれ」
男は鼻で笑い、自分の杖を誇らしげに撫でた。
隣で巨大なジョッキを傾けていたガンツが、泡のついた髭を拭いながら唸る。
「おいおい若いの。細いのの冷やす酒は絶品だぜ? ぬるいエールなんぞ馬の小便と同じだからな」
「だから、それが平和ボケだって言うんですよ、戦士さん」
魔導士は肩をすくめた。
向かいの席では、ゴドが干し肉を齧りながら、やれやれと首を振っている。
「若さゆえの過信……と言いたいところですが、確かに効率主義も一理ありますな。しかし、君、魔法の本質とは破壊のみにあらずですよ」
「ハッ、ご隠居は引っ込んでてくれ。俺は破壊こそが魔法の華だと思ってるんでね」
私は曖昧に微笑みながら、グラスの中で揺れる赤ワインを見つめた。
華、か。美しい言葉だ。だが、花火は一瞬で消えるからこそ美しいのであって、食卓で爆発されてはたまらない。
「まあまあ。僕は臆病だからね。大きな音も、熱すぎるのも、息が詰まるような騒がしさも苦手なんだ。もっと静かに、冷めた目で世界を見ていたいものだね」
そう言ってかわそうとした、その時だった。
「うわっ、危ねえ!」
店の奥で、誰かの怒鳴り声が響いた。
酔っ払いの客の一人が足をもつれさせ、壁際の燭台を派手にひっくり返したのだ。
悪いことに、そこには予備のテーブルクロスが積まれており、さらに運の悪いことに、誰かがこぼした度数の高い蒸留酒が床に溜まっていた。
ボッ!
炎は瞬く間に燃え広がり、赤い舌が天井を舐めようとする。
店内が悲鳴と混乱に包まれる中、真っ先に動いたのは例の魔導士だった。
「どいてな! 俺が消す!」
彼は自信満々に杖を突き出し、高らかに叫んだ。
「滾れ、あまねく命の源よ! <水流>!」
ああ、駄目だ。それは最低の選択だ。
私が止める間もなかった。
彼の杖から放たれたのは、火を鎮めるための水ではない。岩をも砕く勢いの『鉄砲水』だった。
確かに水圧は申し分ない。だが、ここは狭い酒場だ。
その奔流が炎に直撃すれば、燃え盛る油と水が反応して水蒸気爆発を起こすか、あるいは勢い余った水が店中の料理を台無しにするか。
厨房の入り口で、店主ガストンの目が鬼のように光ったのが見えた。
あの水が、カウンターに出されたばかりの『極上仔羊のロースト』にかかったら……この魔導士の命はない。
(……やれやれ、手間をかけさせる)
私は音もなく立ち上がった。
杖は使わない。指先だけで十分だ。
騒ぐ客たちの悲鳴に紛れ込ませるように、言葉を紡ぐ。
「――まったく、騒々しいね。少し、息苦しいくらいの静寂が欲しいところだ」
私は滑るように魔導士の背後へ回り込み、その肩にそっと手を置いた。
彼は自分の魔法が着弾する直前の光景に酔いしれている。
「熱狂も結構だが、過ぎた情熱は窒息して死ぬのがオチさ。……そうだろ?」
囁きと共に、私は指をパチンと鳴らした。
<酸素遮断>。
一瞬。
本当に、瞬きするほどの一瞬だった。
勢いよく燃え上がっていた炎が、まるで最初から幻だったかのように「フッ」とかき消えた。
同時に、魔導士が放った<水流>の軌道上に目に見えない壁が出現し、水は霧散して天井の染みとなる。
テーブルクロスは焦げておらず、床の水たまりも最小限。
ただ、空間から呼吸するための空気を奪われた炎だけが、物理法則に従って沈黙したのだ。
「え……?」
魔導士は杖を突き出したまま、狐につままれたような顔で硬直している。
周囲の客も、何が起きたのか理解できていない。ただ、炎が消えたことだけは確かだ。
「お、おい……今、何が……」
「運が良かったね。風の悪戯かな」
私は彼の肩をポンと叩き、何食わぬ顔で席に戻った。
だが、魔導士の顔色は青ざめていく。
彼は気づいたのだ。自分の放った水魔法が、何かに阻まれた感触。そして、燃え盛る炎だけを選択的に消し去った、異常なまでの魔力制御の差に。
火力任せにぶっ放すことは誰にでもできる。だが、延焼を防ぎ、料理を守り、布一枚焦がさずに火だけを摘み取る技術は、桁違いの演算能力を必要とする。
「か、火力だけの魔法じゃ……」
彼が震える声で呟いた言葉を、私は引き継いで笑った。
「そう。火力だけの魔法じゃ、美味い酒は守れないよ」
ガンツがニヤニヤしながら、新しいエールのジョッキを掲げる。
ゴドは「まったく、寿命が縮みますな」と言いつつ、満足そうにグラスを傾けていた。
厨房からは、無言のまま包丁を鞘に収めるガストンの気配。どうやら、彼も納得したようだ。
私は、守り抜いた適温のワインを一口含んだ。芳醇な香りが鼻腔を抜ける。
これだから、冒険はやめられないが、酒場はもっとやめられない。
呆然とする若きエリート魔導士と、守り抜かれた平穏な夜に。
「焦げ跡ひとつないテーブルクロスと、芯まで冷えた極上のワインに乾杯!」




