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第1話 『完璧な包囲網を筋肉でぶち壊されたが、猪肉が絶品なので許す話』

「はい、お待たせ! 特製エールと、『赤眼の大猪』の香草焼きね!」


 私の元気な声が、琥珀色の照明に満ちた店内に響く。

 ずしりと重いジョッキと、焼きたての肉が乗った大皿を運ぶ私の足取りは軽い。

 ここは「錆びた剣亭」。

 大通りにある「陽だまりの樽亭」のような、若者たちがジョッキをぶつけ合って歌うような喧騒はない。代わりにここにあるのは、漂うシチューの香り、薪が爆ぜる音、そして静かに、しかし確かにこの街の夜を支える大人たちの話し声だ。


 そんな落ち着いた店内で、カウンターの隅にある指定席だけは、いつも少しだけ空気が違う。


「ガハハハ! 見ろよこの脂の乗り具合! これだよこれ、これを食うために生きてるようなもんだ!」


 豪快に笑いながらフォークを突き立てているのは、人間族のガンツさんだ。

 短く刈り込んだ白髪混じりの頭に、首が見当たらないほどの筋肉の塊。かつて王都の騎士団ですら一目置いたという重戦士。五十を過ぎて引退したはずなのに、その腕の太さは私の胴回りより太いんじゃないかしら。


「静かに食べたまえ、筋肉殿(ガンツ)。せっかくの肉汁が飛び散る」


 あきれ顔でたしなめるのは、ドワーフのゴドさん。

 綺麗に編み込まれた髭を撫でながら、ちびりちびりと琥珀色の蒸留酒を舐めている。小柄な体躯だが、その指先は驚くほど繊細だ。迷宮の罠を解除し続けて数十年、斥候としての勘と技術は未だ衰えていないと聞く。


「まあまあ、いいじゃないか。今日の獲物は極上だ。ワインが進むよ」


 その横で優雅にグラスを傾けているのは、エルフのフィスさん。

 長い耳と中性的な美貌は若々しく見えるけれど、彼が操る魔法の知識量は図書館一つ分に匹敵するらしいベテランの魔術師だ。


 この三人組は、うちの古くからの常連さんだ。

 お財布の紐が決して緩いわけではないけれど、ここぞという時には「父さんの選んだ酒なら間違いない」と言って、値段も見ずに良いボトルを入れてくれる。そういう粋な大人たちだ。


「おう、ミナちゃん! エールおかわりだ! 今日はこいつを仕留めた祝いだからな!」


 ガンツさんが空になったジョッキを突き出す。

 そう、今日のメインディッシュである『赤眼の大猪』は、彼らが昼間に狩ってきて、そのまま店の裏口に放り込んでいったものだ。

 おかげで母さんは「市場を通さずに極上の肉が手に入ったわ」と、目が笑っていない満面の笑みでそろばんを弾いていたっけ。


「はいはい、すぐ持ってくるわ」


 私が苦笑しながら空のジョッキを受け取ろうとした、その時だった。


 隣の席で飲んでいた、最近この街に来たばかりの若い冒険者が、酔った勢いで立ち上がった拍子によろめいた。彼が背負っていた身の丈ほどもある大剣の柄が、私の頭めがけて倒れてくる。


「あ――」


 避けられない。そう思った瞬間。


 ドゴォッ!


 鈍い音が響いた。

 私の目の前、鼻先数センチのところで、大剣の柄が止まっていた。

 それを止めていたのは、ガンツさんの分厚い手のひらだ。しかも、彼は私の方を見てもいない。反対の手で肉を齧りながら、まるでハエでも追い払うかのように、裏拳一つで大剣の動きを止めていたのだ。


「おっと。危ねえな、兄ちゃん。得物は大事にしなよ」


 ガンツさんは肉を飲み込んでから、ようやく若者の方を向いてニカッと笑った。


「す、すまねえ!」


 若者が青ざめて謝る。

 さらに驚くべきことに、若者がよろめいた拍子にテーブルから落ちそうになったワインボトルを、いつの間にかフィスさんがキャッチしていた。それも、指先一つ触れず、ふわりと浮かべる<浮遊>の魔法で。


「上質な赤だ。床に吸わせるには惜しいね」


 フィスさんは何事もなかったかのように、ボトルを元の位置に着地させる。


「まったく……これだから素人は困りますな。足の運びがなっていません。重心がふらついているから、酒に飲まれるのです」


 ゴドさんは手元のグラスから視線を外さず、ため息交じりに呟いた。背後の気配だけで状況を把握する索敵能力は、さすがとしか言いようがない。


 一瞬の出来事だった。

 店内の他の客は、何が起きたのか気づいてさえいない。

 私は……うん、やっぱりね、と心の中で呟いた。

 いつも孫の自慢話や腰の痛みの話ばかりしている、ただの酔っ払いのおじさんたち。でも、彼らが長年この稼業で生き残っている本物であることを、私は何度もこうやって見せつけられている。


 コトッ。


 不意に、彼らのテーブルに新しい皿が置かれた。

 注文していないはずの小皿には、大猪の希少部位であるホホ肉の赤ワイン煮込みが乗っている。


「……一番美味いところだ」


 ボソッと言って厨房に戻っていく背中は、父さんだ。

 無口な父さんはめったに客席に出てこないけれど、良い食材を卸してくれた彼らへの、父さんなりの感謝と敬意なのだろう。


「おっ! 店主(ガストン)、気が利くじゃねえか!」


 ガンツさんが嬉しそうにフォークを伸ばす。


「ふん、まあ悪くありませんな。……それにしても筋肉殿(ガンツ)、今日の狩りはいただけませんぞ。私がせっかく風下から罠を張り、完璧な作戦を立てていたというのに」


 ゴドさんがホホ肉を口に運びながら、ちくりと文句を言う。


「うるせえな! 石頭(おやじ)がちまちま準備してる間に、目の前にあいつが出てきたんだよ! なら叩き斬るのが一番早えだろ!」


「だからといって、真正面から突っ込む馬鹿がどこにいますか。フィス君もフィス君です。なぜ止めるどころか、<加速>の魔法をガンツにかけたのです?」


「だってぇ、隊長(たいちょー)の作戦に付き合ってたら、日が暮れちゃうじゃないか。僕は早く帰りたかったんだよ。それに、ガンツの体なら猪の突進くらい弾き返せると思ったしね」


「俺を盾にするんじゃねえよ!」


 フィスさんがケラケラと笑い、ガンツさんが吠える。


 「錆びた剣亭」。

 その名の由来は、父さんが昔使っていた剣だという噂だけど。

 こうしてカウンターの隅で笑っている彼らを見ていると、この店名は彼らのためにあるような気がしてくる。

 錆びついているように見えて、その切れ味は決して鈍っていない、歴戦の剣たち。


 私は彼らの空になったグラスを見て、厨房へと声を張り上げた。


「さあ、飲んで飲んで! 明日のことは明日考えましょ!」

「おうよ! 生存者に!」

「「乾杯!」」


 カチン、と木製のジョッキとグラスがぶつかり合う音が、心地よく店内に響いた。

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