第2話 召喚されたのは『魔獣』ではなく『保育士』でした
その日、日本のある街角で、一つの命が消えようとしていた。
「危ないっ!!」
日差しが心地よい、お散歩の時間だった。
私の名前は日向ヒナ。ひまわり保育園の保育士だ。
いつものように園児たちを引率して近くの公園へ向かっていた最中、交差点に一台のトラックが突っ込んできた。居眠り運転だった。
私は反射的に、先頭を歩いていたケンタくんを突き飛ばした。
ドンッ、という鈍い音と衝撃。
視界がぐるりと回り、コンクリートの冷たさが背中に伝わる。
(ああ、ケンタくんは……無事、かな……よかった……)
遠のく意識の中で、子供たちの泣き声とサイレンの音が聞こえた気がした。
ごめんね、みんな。先生、もう一緒にお歌を歌えないや。
私の意識は、そこでプツリと途切れた――はずだった。
◇
「……え?」
私は呆然と周囲を見回した。
痛くない。体中を確かめるけれど、どこも怪我をしていない。
さっきまでアスファルトの上に倒れていたはずなのに、今はふカフカの絨毯の上に立っている。天井は信じられないほど高く、豪華なシャンデリアが輝いていた。
そして目の前には、現実離れした光景が広がっていた。
頭に立派な角が生えた、超絶美形の男性。彼は何やら必死な形相で、床に魔法陣のようなものが描かれた場所を指差して叫んでいる。
「き、貴様は何者だ!? 私のモフモフビーストはどこへ行った!?」
男性が私を見て怒鳴った。その声は雷のように響き、肌がピリピリするような威圧感がある。
状況が全く飲み込めない。夢? それとも死後の世界?
普通なら腰を抜かすところかもしれない。
でも、私の耳には、そんな男性の怒鳴り声よりも気になって仕方がない音があった。
「うわぁぁぁーん!! パパのばかぁぁぁ!!」
子供の泣き声だ。
男性の足元で、銀髪の小さな女の子が顔をくしゃくしゃにして泣いている。
(……っ!! な、なんて可愛いの!?)
その姿を見た瞬間、私の思考よりも先に体が動いた。私の中の「保育士スイッチ」と、隠しきれない「ショタロリ溺愛スイッチ」が同時にパチンと入ってしまったのだ。
透き通るような銀髪、小さな手足、涙で濡れた大きな瞳。
泣き顔ですら、この世の宝物のように愛おしい!
ここはどこか分からない。相手が誰かも分からない。
でも、こんなに可愛い子が泣いているのを放っておくなんて、私の魂が許さない!
「よしよし、嫌なことがあったのね。大丈夫だよー」
私は迷わず女の子に歩み寄ると、しゃがみこんでその小さな体を抱きしめた。
背中をトントン、と一定のリズムで優しく叩く。
ああ、柔らかい。温かい。子供の体温って、どうしてこんなに癒やされるんだろう。
「なっ……! 貴様、アリスから離れろ!」
角の生えた男性が激昂した。
見知らぬ人間がいきなり子供に触れたのだから、親として警戒するのは当然だ。
「その汚い手で娘に触れるな! 消し炭にしてくれる!!」
男性の手から、バチバチッという音と共に、ドス黒い稲妻のようなものが迸るのが見えた。
殺気のようなものが部屋中に充満する。
けれど、私は不思議と恐怖を感じなかった。むしろ、私の胸に湧き上がったのは「ときめき」だった。
(うわぁ……このお父さん、必死だわ。娘さんが大事で大事で仕方ないのね。なりふり構わず威嚇してくるその姿……不器用なパパの愛情そのものじゃない! 尊い……!)
私は女の子の背中を撫でながら振り返り、殺気立つ男性に向かって、ニッコリと微笑んだ。
愛おしい保護者を安心させるように。
「お父さん、そんなに大きい声を出したら、もっと驚いちゃいますよ? 大丈夫、娘さんのことが大好きなのは、ちゃんと伝わってますからね」
私は、真っ直ぐに男性の目を見て、優しく言葉を続けた。
「一生懸命、あやそうとしてたんですよね。とっても優しいパパですね。えらいえらい」
その瞬間だった。
私の体から、ふわりと何かが溢れ出したような感覚があった。
それは目に見える光となって、男性の方へと流れていく。
春の日差しのような、柔らかくて温かい、黄金色の光。
その光が、男性の体を優しく包み込んだ。
「――っ!?」
男性が目を見開いた。
彼の手からバチバチと出ていた稲妻が、光に溶かされるように霧散していく。
険しかった表情が、見る見るうちにとろんと緩んでいくのが見えた。
一体何が起きたんだろう? 私が発した光なの?
分からないけれど、その光に包まれた男性は、まるで温泉に浸かったときのような、あるいは羽毛布団に包まれたときのような、うっとりとした顔になっていく。
そして、威圧感たっぷりの男性の口から、信じられない言葉が漏れた。
「……バブぅ♡」
ドサッ。
男性はその場にへたり込み、地面に手をついた。
さっきまでの怒りはどこへやら、彼はとろんとした目で私を見上げ、私のエプロンの端をぎゅっと握りしめた。まるで母親に甘える幼子のように。
(きゃーっ! 何このギャップ! あんなに強面だったのに、甘えん坊さんになっちゃって! 大きな体で「バブぅ」だなんて……可愛すぎて反則よ!)
「……え?」
私の腕の中で、女の子の泣き声がピタリと止まった。
涙目で、自分の父親と私を交互に見ている。
パパが、知らないお姉さんに褒められて「バブぅ」と言っている。その衝撃的な光景に、涙も引っ込んでしまったようだ。
私も驚いたけれど、とりあえず場が収まったのは良いことだ。
私は男性の頭にも手を伸ばした。
「あらあら、お父さんも甘えたかったんですね。はいはい、ヨシヨシ」
私が頭を撫でると、再びあの温かい光が彼を包み込む。
「バブゥ……(もっと……褒めて……)」
男性は完全に骨抜きになって、気持ちよさそうに目を細めてしまった。
なんだかよく分からないけれど、私の言葉か、この不思議な光に、人をリラックスさせる効果があるのかもしれない。
それにしても、この角の生えたイケメンパパが私の手の中でトロトロになっている感触……保育士冥利に尽きるわ。
しばらくして。
「はっ……!?」
男性がガバッと顔を上げた。
自分が床にへたり込み、見知らぬ女のエプロンを握りしめている状況に気づいたらしい。
彼の顔が一瞬で真っ赤に染まる。
「な、ななな、何をしていたんだ私は……! き、貴様、私に何をした!?」
男性は慌てて立ち上がり、咳払いをしながら距離を取った。
けれど、その耳まで赤くなっているのは隠せていない。
(ふふっ、照れてる。可愛いなぁ)
「おねえちゃん、すごい! パパをよしよしして!」
女の子――アリスちゃんというらしい――が、キラキラした目で私を見上げて、ぎゅっと抱きついてきた。
私はアリスちゃんの頭を撫でながら、男性――どうやら魔王様らしい――に尋ねた。
「あの、一体何があったんですか?」
魔王様はバツが悪そうに視線を逸らし、ボソボソと答えた。
「……妻のセレスティアが、友人たちと温泉旅行に行っていてな。今日は私がアリスの面倒を見ていたのだ」
「ああ、ワンオペ育児中だったんですね」
「アリスが積み木で城を作っていたのだが……私が通りがかった際、マントが引っかかって崩してしまったのだ。わざとではない!」
魔王様は必死に弁解した。
「アリスが火がついたように泣き出したので、私は慌てて『泣き止ませるための可愛いペット』を召喚しようとしたのだ! モフモフした獣なら機嫌が直ると思って……!」
「それで、召喚魔法を使ったら、私が来ちゃったと」
「そうだ! なぜモフモフビーストではなく、人間などが……」
なるほど、事情は読めた。
お母さんがいなくて不安な中、一生懸命作った積み木をパパに壊されて、アリスちゃんは悲しかったんだ。
そしてパパも、ママがいないプレッシャーの中で失敗して、パニックになっていたんだ。
どっちも一生懸命で、どっちも悪くない。なんて愛おしい親子なんだろう。
「魔王様。失敗しちゃったのは仕方ないですけど、まずは『ごめんね』ですよ」
私が諭すと、魔王様はハッとして、アリスちゃんに向き直った。
「……すまなかった、アリス。パパが悪かった。また一緒に作ろう」
「うん! パパ、いいよ!」
アリスちゃんが笑顔でパパに抱きつく。
魔王様はホッとした表情で娘を抱きしめ、それから私を鋭い目で見据えた。
「……さて。貴様の処遇だが。召喚の儀式に手違いがあったとはいえ、貴様には奇妙な力があるようだな」
魔王様は私の全身をじろりと観察した。
「まずは貴様の正体と、その能力を確認せねばならん。……ついてこい」
私は魔王様の背中を見つめた。
元の世界では死んでしまったはずの私。
でも、この不思議な世界で、こんなに可愛い親子に出会えた。
これからどうなるか分からないけれど、この子たちの笑顔が見られるなら、どんなことでも頑張れそうな気がする。




